就役後はJ級駆逐艦で構成された第7駆逐艦群に所属する。第二次世界大戦が始まると、第7駆逐群は北海で活動を始めた。ジュノー、ジャッカル、ジェーナスの3隻はプリマスを拠点に船団護衛を、ジュピターとジャベリンを含む残りは第2巡洋艦戦隊の軽巡洋艦サウサンプトンとグラスゴーと共に、ハンバーを拠点にして北海のドイツ艦船捜索を実施した。
この頃、悪天候や練度不足のせいで各艦に衝突事故が相次いだ。9月30日には、ロサイス港内でジュピターが横付けしようとしたジャービスに接触する事故を起こしている。10月9日、悪天候のために合流予定の第2巡洋艦戦隊と会合できず帰投中だったジャービスとジュピターは、ドイツ空軍機の空襲を受けた。2隻は悪天候による燃料不足に加え、なんと空襲のさなかジュピターがボイラー故障を起こす。それでもジャービスは停止したジュピターを曳航し、燃料切れ寸前で無事に2隻は帰還を果たした。10月22日、前月にジャージーとの衝突事故による損傷の修理を終えたばかりのジャベリンが再度衝突事故を起こしたため、ジュピターは駆逐艦アフリディと共に救援を実施した。
1940年4月、J級とK級の一部から第5駆逐艦群が編成されたことでジュピターもこれに加わり、北海での活動を続けた。8月31日の夜、CBX5作戦としてオランダのテセル島沖に機雷敷設に向かった第20駆逐艦群が機雷原に迷い込んだ結果、駆逐艦エスクとアイヴァンホーが沈没、軽巡洋艦ガラティアと駆逐艦エクスプレスが損傷する大惨事が発生した(テセルの惨事)。ジュピターは駆逐艦ケルヴィンらと救援活動に参加し、艦首切断という多大な損傷を負ったエクスプレスを曳航した。11月29日、ドイツ駆逐艦と交戦した結果、魚雷2本を受けて大破し曳航されるジャベリンを第5駆逐艦群の僚艦と共に護衛した。
1941年1月になると、ジュピターは地中海西部に派遣されスペイン南端のジブラルタルを拠点にしていたH部隊に加わる。そこで巡洋戦艦レナウンや空母アーク・ロイヤルなどと活動した。本国での改装を挟み、アフリカ大陸南の喜望峰を回ってスエズ運河を通過、9月下旬にエジプトのアレキサンドリアに拠点を置いていた地中海艦隊に合流するが、長旅で船体の傷みが激しく道中のダーバンにおいてドック入りが必要だった。到着後はジャービスが旗艦を務めている第14駆逐艦群に加入した。敵の包囲下にあったトブルクを支援するために哨戒活動や地上砲撃などを行ったほか、キプロス島へ増援部隊の輸送任務などに携わった。
だが2か月も経たないうちにジュピターは地中海艦隊を離れ、東洋艦隊に加わるために駆逐艦エンカウンターと極東へ派遣されることになった。日本との関係が悪化していたため東洋艦隊に加わる戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを護衛するためだった。ちなみになぜジュピターが選ばれたかというと、以前から機関の不調を抱えており地中海の戦闘行動には不向きと考えられたからだそうである。それって厄介払いなのでは…。
11月15日にアレキサンドリアを発ったジュピターは、アデン、コロンボを経由して11月29日にセイロン島トリンコマリーでプリンス・オブ・ウェールズとレパルスらと合流。12月6日、シンガポールに到着した。直後に日本が真珠湾を攻撃して戦争状態になったため、12月末にジュピターはジャワ島バタビアへ向かいABDA艦隊(米英蘭豪連合艦隊)に加わった後、年明けからしばらくの間バタビアとシンガポール間の船団護衛を行った。
1942年1月17日にアメリカの輸送艦マウント・ヴァーノンを護衛中だったジュピターは、ギリシャの商船が雷撃されて沈んだと連絡を受け、対潜掃討に向かった。付近の海域を捜索したところ、午後2時にASDIC*2で潜水艦を探知して爆雷を投下、それから1時間半後に2度目の爆雷攻撃を行った。2度目の攻撃から5分後、損傷を受けた日本の潜水艦伊60が浮上してきた。ジュピターは主砲から機銃まで総動員して攻撃をかけ、伊60も12cm砲で懸命に反撃してきた。さらにジュピターが5本、伊60が2本の魚雷をそれぞれ相手に発射もしたが全て外れた。激しい砲撃戦が交わされ、ジュピターの1番砲(A砲)が被弾して使用不能になり、砲員3名が死亡した。それでもジュピターは伊60に複数の命中弾を与え、伊60に接近してすれ違いざまに右舷側の爆雷投射機から爆雷を放った。爆雷は伊60の司令塔の至近で炸裂、これが致命傷となった伊60は艦尾から沈んでいった。乗員3名がジュピターに救助されたが、うち1名は怪我が元で死亡した。ジュピターはスラバヤで損傷の修理が行われたが、オランダ軍の記録によるとその際に損傷した1番砲は撤去され、代わりに単装の4.7インチ砲が搭載されたといわれる。
2月になると、東南アジア方面での日本軍の進撃を受けて、ジュピターは各地で撤退する部隊の輸送や船団の護衛を行うようになった。一連の活動が評価され、2月23日付でオーストラリア海軍のコリンズ代将から賛辞が贈られた。2月21日にジュピターは第7駆逐艦群*3所属となるが、僚艦と実際に会合することはついになかった。ちなみに、一緒に極東へ派遣された駆逐艦エレクトラとエンカウンターも同様に配属となっているほか、3月2日にはオーストラリアからヴァンパイアも合流している。
2月27日、ジュピターはオランダ海軍のカレル・ドールマン少将率いるABDA艦隊とジャワ島攻略を目指す日本艦隊が激突したスラバヤ沖海戦に参加した。だが、練度・戦力いずれにも勝る日本艦隊の前にABDA艦隊は敗北する。何とか日本軍の上陸船団を攻撃せんとした旗艦デ・ロイテル以下、ジャワ、パース、ヒューストンの巡洋艦4隻に続いていたジュピターは、午後10時50分頃突如として大爆発に襲われた。雷撃されたと思い「ワレ雷撃ヲ受ク」と発信したが、実際は味方のオランダ軍がその日に設置したものの連絡不備で伝わっていなかった機雷に触れたのだった。右舷に大穴が開いたジュピターは傾き浸水し始めた。やがて日付が変わった28日午前0時55分頃に傾斜が増し始めたジュピターは、ついに午前1時30分完全に転覆し沈んでいった。84名が戦死、97名が日本軍の捕虜となったほか、83名が自力で岸にたどり着いたり米軍の潜水艦に救助された。デ・ロイテルとジャワもその日のうちに沈められ、残るヒューストンとパースも3月1日のバタビア沖海戦で最期を遂げたのである。
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