艦種別リスト > ドイッチュラント
基本情報 †
プロフィール |
 | 名前 | ドイッチュラント KMS Deutschland |
レアリティ | SR |
艦種 | 重巡 |
陣営 | 鉄血 |
CV | 上坂すみれ |
イラスト | 不可燃物 |
耐久 | A | 火力 | A |
雷装 | C | 回避 | C |
対空 | C | 航空 | E |
航速 | 22 |
SD |  |
自己紹介 |
わたしはドイッチュラント級A番艦――ドイッチュラント! こんなに高貴なわたしは安々と戦場に駆り出されるわけにはないから、戦果が少ないのは当然なのよ? スピリチュアルリーダーよ!わかる?なに?りゅ…「リュッツォウ」は誰ですって?うるさいわね…そんなこと知るもんか! |
ステータス(MIN/MAX) |
耐久 | 691 | 3571 | 装甲 | 中装甲 | 装填 | 65 | 153 |
火力 | 56 | 265 | 雷装 | 41 | 191 | 回避 | 7 | 18 |
対空 | 29 | 134 | 航空 | 0 | 0 | 消費 | 3 | 11 |
対潜 | 0 | 0 | |
運 | 72 | |
装備枠 | 初期装備 | 補正(MIN/MAX) | 最大数*1 |
重巡主砲 | 283mmSKC28三連装砲T1 | 110%/140% | 1 |
魚雷 | - | 130%/130% | 2 |
対空 | - | 100%/100% | 1 |
設備 | - | - | - |
設備 | - | - | - |
スキル名 | 効果 |
 | ポケット戦艦 | 駆逐、軽巡に与えるダメージが15%(35%)アップ |
 | 全弾発射-ドイッチュラント級I | 自身の主砲で9回(IIで6回)攻撃する度に、全弾発射-ドイッチュラント級Iを行う |
上限突破 |
初段 | 全弾発射スキル習得/主砲補正+5% |
二段 | 魚雷装填数+1/開始時魚雷+1/主砲補正+10% |
三段 | 全弾発射弾幕強化/主砲補正+15% |
全弾発射スキル | 特殊弾幕スキル |
 | - |
MAXステータス †
LV120好感度200 |
耐久 | 装甲 | 装填 |
4245 | 中装甲 | 186 |
火力 | 雷装 | 回避 |
318 | 232 | 57 |
対空 | 航空 | 消費 |
162 | 0 | 11 |
着せ替え後(漆黒の魔姫)ボイス †
+
入手時 | 下等生物のくせに、いいセンスしてるわ……そう、この私こそ鉄血なる魔姫、闇夜の主ドイッチュラントよ!下等生物、ううん、私の下僕よ!おいで、お前に忠誠のキスを誓うチャンスをくれてやるわ! |
詳細確認 | 下僕、そう怖がらなくてもいいわ。この子たちはお前を傷つけないから |
メイン1 | この下等生物、たかが衣装を変えたぐらいで、誰がこんな赤いドリンクを飲むと言ったの? |
メイン3 | 下僕、この私が降りるのを手伝いなさい。ちびっこ…!?だれが!? |
タッチ | 下等生物、その首筋を差し出しなさい――アハハハ!このクズ!まさか本気にしたの〜? |
母港帰還 | 下僕の分際でよくできたじゃない。おいで、ご褒美をやるわ! |
戦闘開始 | 骨の髄まで私の名を刻んでやるわ! |
勝利 | 泣き叫べ!恐れ戦け!この私に跪け!アハハハ! |
着せ替え後(サービスタイム?)ボイス †
+
入手時 | 夏には日焼け対策が必須ね…そこの下等生物!主にご奉仕したいのなら、ここで跪いて、「お願いしますドイッチュラントさま!」って大声で三回ねだればもしかすると…私、日焼け止めを塗れるチャンスを与えるかもしれないわ?あははははは! |
ログイン | お・そ・い!この私の肌を焼けさせる気!? |
詳細確認 | さぼるな下等生物!日焼け止めはムラなく塗ってもらうわよ! |
メイン1 | 下等生物、体を拭くからタオルを二枚持ってきなさい! |
メイン2 | 目玉が飛び出るぐらいじっと見つめてて……まったく救いようのない下等生物だわ!あはははは! |
メイン3 | 浮き輪?そんなもの持ってどうするのよ。下等生物が私を背負って泳ぐんじゃないわけ? |
タッチ | この下等生物、ケダモノみたいな顔をしやがって……ケダモノにはやっぱり鞭打ちが必要ね!あははは! |
タッチ2 | ふふ、やはり自分の欲すら抑えられない下等生物ね |
母港帰還 | 戻った途端にたるんでいるわね。ふっふん、主である私が「シメて」やろうか? |
着せ替え後(魔姫の夜宴)ボイス †
+
入手時 | 機嫌が良さそうに見える?そうね、今日は可愛い妹もパーティーに参加しているんだもの、機嫌がいいに決まってるわ!この下等生物、主にもっともてなしなさい!あはははは! |
ログイン | 相変わらずどん亀のようね…この素晴らしい晩餐会に免じて許してやるわ! |
詳細確認 | 下等生物のものは私のもの、下等生物の率いる艦隊が強ければ、私の力が増すということを意味するわ! |
メイン1 | 下等生物、シュペーのドレスについて素直な感想を言いなさい。なに、カワイイ以外言葉が出るはずがないわ!あはははは! |
メイン2 | シュペーがほかの陣営の子と喋ってる……いじめられたらどうしよう…あとであの子たちに注意したほうがいいかしら…… |
メイン3 | 下等生物、最近はみんな妙に馴れ馴れしくなってきていると思わない?……私が…みんなから愛されているだけ?そ、そうね…スピリチュアルリーダー として愛されて当然だわ! |
タッチ | ダンス?ふふん、下等生物がそう言い出すことは見通していたわ!とっくにれんしゅ……ではなく、準備しておいたわ! |
任務 | 任務ね……主より優先しなきゃいけない任務があるのかしら? |
任務完了 | 任務報酬…私たちへの贈り物と考えていいわね |
メール | こんな時にメールの確認をするなんて、風情のわからない下等生物ね!……私にも見せなさい! |
母港帰還 | あなたのことを待っていたわけじゃないわ。下等生物がいたら私のカリスマがもっと輝く――そんなとこかしら? |
勝利 | このドイッチュラントに蹂躙されるなんて、あなたたちはどれだけ幸せなのかしら〜あはははは! |
失敗 | くっ……これ以上は付き合わないわよ! |
着せ替え後(灯華の支配者)ボイス †
+
入手時 | 祝日なのにみんな忙しそうね!…そうか!これは下等生物がこの私のために用意したサプライズ…!?ふ、ふふふ、せいぜい私を失望させるんじゃないわ! |
ログイン | 来たわね下等生物。さあ、靴を脱がすのを手伝ってもらうわよ!…これ履いて歩くと疲れるわ…… |
詳細確認 | この内装、中々豪華な作りだわね…つまりこのドイッチュラント様の高貴さを一層引き立ててくれるに違いないわ!下等生物、あなたもそう思ってるわね?あははは! |
メイン1 | シュペーのためでなければ、誰が雪だるまなんて作るものか! |
メイン2 | 腹が減ったわよ下等生物。ところで東煌(とうこう)は食文化に長けてると聞いたわ…何をすべきか分かるわね?あははは! |
メイン3 | 騒がしいわね…下等生物、外で何が起きているか確認してきなさい! |
タッチ | このストールを取るつもり?下等生物にそんなことを許した覚えなんてないわよ |
タッチ2 | ふふ、下等生物は私のおしおきが恋しいのかしら |
母港帰還 | おい下等生物、いつまで主を放置する気!? |
ボイス †
+
入手時 | あなたはもうこのドイッチュラントの下僕よ?光栄に思いなさい。それから、「うん」はダメ、返事は「はい」よ?わかった? |
ログイン | 随分時間が経ったね…一体どこで油を売っていたの? |
詳細確認 | こんな時は…どうあってもあなたを処罰しなくては… |
メイン1 | 下等生物の言葉で話してあげなくてはね |
メイン2 | ハハハハ、先通りがかりの重巡洋艦二隻を驚かせたら逃げちゃったわ〜 |
メイン3 | ぼんやりしたいなら、わたしはもうしらないわよ〜 |
タッチ | あんたって本当に懲りないね…わたしのムチがそんなに恋しいの〜? |
タッチ2 | うん〜?楽しんでるようね〜こういうの好きなの? |
任務 | ミッション!わたしの辞書には未完成という文字はない! |
任務完了 | はやく報酬をもらってちょうだい! |
メール | 下等生物の言語で書かれた手紙よ、持っていきなさいな |
母港帰還 | 油断しない!この馬鹿!母港に帰ったって終わったわけじゃないのよ |
委託完了 | ふん、子羊たちが委託を完了したようね。意外とやるじゃない |
強化成功 | 下等生物の分際でよく分かってるじゃない |
戦闘開始 | 楽しい掃討になりそうね |
勝利 | 相手は大したことないのに…まったく大げさね〜 |
失敗 | 沈没したってあんたらのような下等生物に投降するものか! |
スキル | 残酷で、可憐で、うふふ… |
損傷大 | このドイッチュラントを見くびるとはね……! |
▼好感度系 |
失望 | あなたへの興味がなくなったの。さて、新しいペットでも探そうかしら |
知り合い | 戦争を笑って楽しむのはどれくらいの愉悦か、あなたのような下等生物には理解できるはずがないわ!あははは! |
友好 | 下等生物、全力でわたしを楽しませるものを探しなさい。ははははは! |
好き | ライオンは羊の群れの考えを気にしないものよ。……けどあなたは確かに面白い下等生物だわ。わたしをもっと楽しませたら、願いぐらい聞いてあげるわよ! |
ラブ | ここまでわたしを楽しませた褒美として、わたしを抱き上げる権利を与えるわ!何とぼけてる?お姫様抱っこ、聞いたことないかしら。…お姫様抱っこよ! |
ケッコン | まさかこのわたしもこんな下等生物と契りを交わす日が来るとはね……この感じ、初めてなのに意外と楽しいわ。はははは!いいわ!今日からあなたが乗り物二号よ!ありがたく思いなさい! |
ゲームにおいて †
2017年12月のイベント「鏡写されし異色」限定で実装された鉄血重巡洋艦。2018年6月28日よりの復刻イベントでも復刻された。
2018年9月6日より大型艦建造に常設。2019年8月15日からは作戦履歴の「鏡写されし異色」の一部海域のドロップでも入手できるようになった。
性能 †
- 概要
駆逐、軽巡に対して非常に高い火力を誇る。
スキル自体は倍率も高く強力な部類に入るが、重巡の中でもワーストの回避と速力の低さが足を引っ張るので、その点を補う補助が必要となる。
もともと重巡とは一線を画す存在の艦だったためか火力は断トツ、雷装も上位に食い込むという高い攻撃力を誇るが魚雷の補正値は低いまま。
普通に使うと実際の火力はそこまで高くないため、下記にもある専用装備283mmSKC28三連装砲の存在が最大の差別点であり、運用のカギ。
一般的な雷装型重巡とは使用感が異なる。
対空が重巡ワーストかつ中装甲であるため空襲にはめっぽう弱い。何らかの補助は不可欠。
上述の回避・速力も合わせて防御面は全体的に苦手。攻撃型重巡としては耐久はあるが防御スキルもないので耐久力に信用はない。
基本は真ん中配置で被弾を少なくするのが良い。編成や装備立ち回りは慎重に。
- スキル「ポケット戦艦」
駆逐、軽巡相手に対するダメージが強化されるスキル。35%と高倍率な上、効果対象艦が一切出現しない戦場はほぼない。
ヘレナが評価されているように、与ダメージのアップというのは火力や雷装の上昇よりも最終ダメージを引き上げる。
海域・演習、いずれでも重宝されるだろう。効果は主砲、魚雷、全弾発射に適用されるが、衝突ダメージは不明。
- 全弾発射スキル
弾幕は通常弾と徹甲弾が密集してVの字に織り交ざりあい、見た目はかなり派手。
キャラの前方へ>型に大量の徹甲弾を発射するのに加え、ショットガン型の通常弾まで撃つ。
徹甲弾部分は完全に固定された発射形状をしているが、通常弾の方は拡散角度が高く、弾道がいまいち安定しない。
全弾正面へ撃ったと思いきや次は全て正面より下方向へ撃ったりするなど、異様なまでのブレを見せる。
ただし、中距離であればばらけることなく固まっているため、正面に陣取っていれば集中直撃の大ダメージになる。
重巡砲の発射間隔で9回と、1凸だとまずお目にかかれない時間が必要になるので、全弾発射に期待するなら3凸は必須。
- 運用
- 海域
高い火力でMVPを取りやすい。特に敵が駆逐、軽巡であればその効果はより高まる。
グラーフ・ツェッペリンを使った陣営縛りをする場合は、他の陣営と比べて火力の低い鉄血においては貴重な存在となる。
特に計画艦ローンを建造するための経験値稼ぎには、姉妹のどちらかを起用したいところ。
耐久面に難があるため、前衛の真ん中置きが基本。できれば回復用軽空母や工作船、さらにヒッパー級のシールドなど、別の耐久補助があるとさらに安定する。
- 演習
エルドリッジやジュノーなど長期戦になると厄介な相手には、持ち前の火力と特効スキルが見事に突き刺さる。
しかし、耐久力不足が原因で脱落するケースが多いため、「いかに落ちるまでにダメージを稼ぐか」「いかに効果的に落ちるか」という、特攻艦的な役どころを伸ばす方策が賢明かもしれない。
特に重桜の速攻魚雷&空爆には、どちらも弱点になるので非常に弱い。
幸いにも専用砲による砲撃は、演習において相手前衛の3隻全てに被害を及ぼすため、打撃力は数字以上に高いレベルにある。
命中、回避を上げるSGレーダーなどで生存時間を稼ぐ、落ちるときに全員回復する真珠の涙を装備しておくといった方法も考えられる。
- 専用装備283mmSKC28三連装砲について
前衛砲でありながら戦艦のような投射型の弾を撃つ特殊な砲。
着弾点周辺に攻撃判定が広がるようになっており、いわゆる「普通の前衛艦用の砲」に比べると左右に狭く上下に広い判定を持つ。
着弾までが非常に早く、まともな位置関係であればまずヒットするうえ、投射型なので標的との間に他の敵艦や重巡シールドが存在するなどして射線が通っていない状態でも飛び越えて直接攻撃でき、攻撃判定内の全目標にヒットする。
基礎威力が203mmSKC以上に高く、ドイッチュラント自身の火力の高さやスキル効果もあり、実戦において弾種による対軽装甲へのデメリットは感じにくい。
一方で、他の主砲とは異なり最寄の敵を狙うわけではない特殊な照準パターンを持っており、これはターゲットを選べる手動操作では位置関係を調整し、他艦と別の敵を狙うことでオーバーキルを抑える、逆に集中砲火を浴びせるといった独特の運用を可能にする利点がある反面、懐に入った敵を狙うのは困難なため魚雷頼みになるなど単艦運用では扱いづらい。
海域におけるオート操作の場合利点としてはほとんど機能せず、WAVE毎にやや後方へ出現する無限湧きの量産型を砲撃してしまうケースが多発し戦闘を長引かせやすい。
この問題は高難易度海域において顕著に影響が見受けられ、283mm砲かそれ以外かで主力のHP残量に目に見えて分かる差が生じる。
手動かオートか、そして艦隊の編成によって評価が180度反転するだろう。
強力な砲ではあるが、尖った性質からかなり好みが分かれると思われる。
余談だが本主砲装備時には、戦艦砲と同じ装備外装が選択できる。
オススメ装備 †
主砲 †
専用砲か、軽装甲に強い榴弾かの選択になる。
魚雷 †
対空 †
ステータスも威力補正も低いので、射程・攻速で決めていい。こだわりが無いならT2でも構わない。
設備 †
何を上げるかによって使い分けよう。
オススメ編成 †
主力 †
前衛 †
砲火力は十分なので、耐久・回避・対空に優れた艦が欲しい。
画像 | キャラ名 | 備考 |
 | ライプツィヒ | 巡洋艦へのバフと、改造で速力アップも付く。対空も優秀。 |
 | Z46 | 低い速力・対空を上手く補う。お互いに火力も高い。 |
 | プリンツ・オイゲン | 低い耐久を補う。ただし速力の為にも、もう1隻は駆逐を選ぶべき。 |

 | オーロラ
チャパエフ | 駆逐艦の回避率を下げることで、砲撃を確実に命中させられる。 |
キャラクター †
プライドが高く、気分屋な性格。指揮官を下等生物兼下僕と見下しているため、戯れに攻撃をしてくる。
常人には異常と思える行為でも本人は愛情表現としてやっている場合も…(公式Twitterより)
好きなもの・こと:可愛い妹(シュペー)、ロックンロール
苦手なもの・こと:面倒見させてくれない妹(シェーア)、孤独
趣味 :妹(シュペー)の服選び
特技 :威勢を張る(?)
(クロスウェーブより)
上記紹介文の通り、鉄血のやべーやつ。……のはずだった。
史実ではスペイン内戦から難民を避難させたり、艦砲射撃で逃げる味方を助けたりしているのに、どうしてこうなった。
- 本国版の設定によると、国の名前を冠しているからか自身が頂点に立っていると思い込んでおり、周囲の艦や司令官を下僕とするのは当然の行為らしい。
- 一方で劣等感を抱いており、他人の考えに従わず我が道を貫こうとする。鉄血の面々は慣れてしまったらしいが、それには理由があり……(→ キャラストーリー)
見た目が完全に敵。悪人風の容姿が多い鉄血の中でも、突出して悪者チックである。海戦に勝利するとプリンツ・オイゲン同様にサングラスを掛ける*2。
右手には銃のような物が握られており、戦闘時はこれを副砲として砲撃をする。
両側に鮫を模した艤装を装備し、尾ひれのような物まで確認できる。その姿は差し詰め機械の怪物であり、艦船通信での描写からある程度の自律行動も可能。本人は「乗り物1号」と呼んでいる。
性格もドSでありプライドが高い。上記の公式の説明を見るとサイコパスな印象を受けるが、台詞を聞くとそこまでヤバくなかったりする。通りすがりの重巡を驚かして遊んでるけど。
指揮官を下等生物よばわりしていても、邪険に扱う様子はない。
むしろ、何かと面倒見の良い面がちらほら見られる。一見暴言に見えてもよく意味を見ればこちらを心配してる様な発言も。妹のシュペーに対しては過保護なレベル。
バレンタインデーでは、指揮官のためにチョコレートを用意していた。だがそこはドイッチュラント、ただで渡す事はなく指揮官を尻に敷いてからかう。
- ちょくちょく"素"と思われる部分も見えることがあり、背が小さいことをネタにされると明らかにいつもと違う声で慌てながら怒る。
- デビューとなったイベント「鏡写されし異色」では、最初の海域(A-1)のボスを務めた。
かませ犬っぽいが。
- 装甲の薄さのせいか精神面でも打たれ弱く、下手になぐさめてあげようとすると反発する
超めんどくさいいじっぱりな子。
座った姿勢と衣装が邪魔で分かりにくいが、"あっち"の戦闘力は結構高い。着替えると一目瞭然。
実装と同時にスキン「漆黒の魔姫」が用意され、ヴァンパイアさながらの姿でコウモリのような魔物を従えている。
- ドラキュラ、ノスフェラトゥ、ナハツェーラーなど、ドイツ近辺の吸血鬼伝説からは数々の映画や小説が誕生したため、それがモデルとなっているのだろう。
悪魔城ドラキュラ(Castlevania)の舞台とされるルーマニアのトランシルヴァニア地方もドイツと関係が深く、WWII開戦時には枢軸国側だった。
- なお、使い魔コウモリは他の衣装を着ていても召喚できる。
翌2018年の夏には鉄血の面々が水着スキンで砂浜に参戦していく中、満を持してL2D仕様のスキン「サービスタイム?」が登場。
黒を基調とした衣装は鉄血に共通のものだが、禍々しい狩人のようなドイッチュラントの場合は、特に改名後の名前の元ネタである
プロイセンのフォン・リュッツオウ将軍が義勇軍「黒の猟兵」(シュヴァルツェ・イェーガー)を率いたことと関係している。
ナポレオンに対抗して出来たこの組織は、軍事的には練度も士気も足りない名前負けした烏合の衆だったとはいえ、精神的にドイツ民族の結束を強めることに成功し、
フォン・リュッツオウはドイツ統一の理念的な英雄と見なされるようになった。
「戦果が少ない」「スピリチュアルリーダー」という自嘲や、リュッツオウという名前を嫌がっているのはこの辺から来ているのかもしれない。
2019年1月4日から1月31日にかけて行われるmixx gardenとのコラボに参加。メイドと化したドイッチュラントが見られる。
メニューにはドイッチュラントの闇サンド(900円)と漆黒のドイッチュラントコーヒー(700円)がある。
WW1後、ドイツが味わったハイパーインフレを再現するニクい価格設定である。
アドミラル・グラーフ・シュペーのキャラクターストーリーにも登場。指揮官だけでなく、猫にも下等生物と言っているようだ。また妹想いな一面も覗かせた。
+
後述の元ネタでも触れられているが、ドイッチュラントが改名で付けられる「リュッツォウ」は後にソ連によって浮揚され、
「ソ連艦リュッツオフ」として第二の、そしてごく短い艦歴を歩むことになる。アズールレーンのドイッチュラントはこの
「北連艦としてのリュッツォウ」の記憶を引き継いでおり、鉄血陣営に属していながら(心中では)鉄血艦ではないという矛盾に人知れず苦しんでおり、
そのしわ寄せで攻撃的な性格になった。リュッツォウの名で呼ばれる事を嫌うのも、これが原因。繊細な心の持ち主である事が窺える。
ゲーム的にはシュペーとほぼ同性能なので精神面以外は本物と言っていいような…
他の鉄血艦は裏でこの事実を知っており、自分たちの仲間として扱うために、彼女が疎外感から起こしている傍若無人な振る舞いを許していた。
キャラストでは彼女と鉄血艦達で隠していたこの件を話しあい、そして今までと変わらず鉄血の仲間として受け入れることとなる。
鉄血は家族であり、結束が強い事を如実に示すエピソードと言える。
余談だが他の艦ではエレバスも同名艦の出来事を自分のことのように語っている(北極に行ったのは砲艦エレバスではなく臼砲艦エレバス)なので
艦船は単純な生まれ変わりではなく、記憶や実績が混ざったり変わったりしている者も少なからず居るようだ。
当初は装甲艦であったものの、後に重巡洋艦に艦種変更されている。史実では中破2回、大破3回を経験。そのうち3回が空襲によるものだった。
内訳は座礁事故で中破1、空襲で中破1と大破2、潜水艦の雷撃で大破1。対空が重巡ワーストなのは、この点を反映したものと考えられる。
一応、戦争末期に対空兵装の充実が図られているため、今後の改造実装に期待して良いかもしれない。
キャラストーリー「曇りの仮面」 †
ドイッチュラントを秘書艦に設定し、ドイッチュラントをタップするとキャラストーリー開始。
+
| 任務内容 | 報酬 |
1 | 魚雷天ぷらを3個準備する(消費) | 資金×100 |
2 | 任意の艦を10回強化する | 資金×100 |
3 | ドイッチュラントを含めた艦隊で出撃し、20回勝利する | 資金×100 |
4 | ドイッチュラントを含めた艦隊で3回デイリーチャレンジをクリア | 資金×100 |
5 | ドイッチュラントの親密度が100に到達 | 資金×100、家具コイン×5、攻撃教科書T2×1 |
6 | ドイッチュラントを3回限界突破する | 資金×100、家具コイン×10、巡洋改造図T2×1 |
7 | ドイッチュラントのレベルが100に到達 | 資金×100、家具コイン×10、巡洋改造図T2×2 |
※ストーリーは、図鑑→思い出より確認可能
元ネタ †
ドイツ海軍のドイッチュラント級装甲艦1番艦「ドイッチュラント (Deutschland)」*3。
第一次大戦後の退役艦の穴埋めとして、初めて就役した1万トン級艦艇で戦艦並みの砲撃能力と巡洋艦並みの速力を持つ艦として完成。
厳しいヴェルサイユ条約の制限内に収めるため、工夫と新技術が惜しげもなく盛り込まれたドイツ至高の逸品となった。敵国の首相チャーチルですら「イギリスの如何なる巡洋艦でも、1対1では(ドイッチュラントに)勝てない」と大変恐れたほど。戦力に乏しいドイツ海軍にとってドイッチュラントは貴重な存在だった。戦闘艦隊の旗艦となり、各国巡航やスペイン内戦に参加。ところが内戦では共和国軍の誤爆を受けて中破させられる悲劇に見舞われた。
第二次世界大戦では、通商破壊やヴェーゼル演習作戦など様々な戦闘に従事。ノルウェー攻略戦では堅牢なドレーバク要塞を無血開城させる活躍を見せ、首都オスロへの道を切り開いた。ナチス政権においてはリュッツォウ (Lützow) に改称し、艦種も姉妹艦「アドミラル・シェーア」、「アドミラル・グラーフ・シュペー」と共に重巡に区分された。輝かしい戦果を挙げる一方、敵の攻撃で大破させられる事も多く、長期離脱を強いられる場面が多々見受けられた。しかしながら優秀な設計と強運により、何度も沈没の危機に遭いながらも全て生還。
1944年7月、東部戦線が崩壊し、無数のソ連軍が東プロイセンに雪崩れ込んできた時には他の巡洋艦とともに第二戦闘グループを編成。
自慢の砲火力を以って、約半年間ソ連軍部隊を砲撃。甚大な被害を与えて足止めを行い、避難民や孤立した友軍が脱出する時間を稼いだ。
彼らの活躍により約27万人もの国民が東プロイセンを脱出できたと伝わる。
八面六臂の活躍をするリュッツォウを、ポーランド奪取の障害と捉えたソ連軍はイギリス軍に爆撃を依頼。1945年4月にイギリス軍から5t爆弾トールボーイの至近弾を受け、大破着底。身動きが取れなくなってしまう。しかしここからリュッツォウは不屈の闘志を見せる。
応急修理により何とか稼動状態に戻すと、翌5月に侵入してきたソ連軍部隊を砲撃。主砲弾を撃ち尽くすまで陸上砲撃支援を続けた。
ヒトラー総統が自殺し、ベルリンが陥落したあとも果敢に戦い続けていたが、遂にソ連軍が眼前にまで迫ってきた。鹵獲を避けるため乗員を避難させたのちに船体を爆破。1945年5月4日深夜、リュッツォウの死闘に幕を下ろした。戦後ソ連軍が浮揚して、修理して使おうとするが修理不能と判断され、標的艦としてバルト海に沈んだ。かつての敵に与する事を拒んだ男らしい最期であった。
余談だが、ドイッチュラントの事は戦前の新聞でもよく取り上げられた。だが「ドイッチュラント」「ドイチェラント」「ドイーチュラント」等、
表記ぶれが大変激しかった。
+
新技術と苦労と涙の結晶、祝福を受けて目覚める
- ドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦一番艦。ドイッチュラントの由来は、ずばり「ドイツ」の国そのもの*4。敗戦国の屈辱や混乱を味わったドイツは、再興という切なる願いをこの艦に託して命名した。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、ヴェルサイユ条約によって厳しい制約が課された。排水量1万トン以下、主砲の口径は28cm以下という非常に厳しい制限の下で、何とかして周辺諸国の海軍に対抗しようと様々な工夫が凝らされている。
- バルト海の制海権を維持するためには、北欧諸国やポーランド、ソ連の海防戦艦に打ち勝つだけの艦が必要だった。特に隣国ポーランドは海軍の増強に注力し、更にフランスと軍事協定を結んでいた事からフランス海軍との戦闘も予想された。このため海軍首脳部は、ヴェルサイユ条約下で建造できる戦艦の設計に取り掛かった。まず諸外国の主力艦建造に関する情報収集を行い、慎重な評価と検討を実施。次に様々な意見案を出させた。しかし次々に案が浮かんでは検討・論議されるも、悉く没になった。1923年に出された初期の案では、モニター艦にする予定だったとか。だが主砲の口径が38cmで条約違反なのと、速力が僅か18ノットしか出せなかったので白眼視され、当然、没になった。案が出されていくうちに少しずつ洗練化されていき「薄めの装甲に30cm砲6門、速力21ノットの艦」という案が飛び出した。相変わらず口径が条約違反だが、21ノットの速力はバルト海での作戦に有利としてツェンカー海軍大将とレーダーが好意的に扱った。1927年、この案を更に突き詰めたC型設計が提出された。「電気溶接の船体にディーゼルエンジンを併用すれば28cm砲6門と10cm厚の装甲、速力26ノットを獲得しつつ排水量を1万トン以下に抑えられる」。まさに画期的だった。この案がドイッチュラントの原型となった。計画時は仮称艦名として「A」と呼ばれた。さっそく装甲艦(パンツァーシッフ)の名称が与えられ、1927年に国民議会によって建造計画を承認された。しかし新艦の建造は政治上の反対が強く、予算が出ない。そうこうしているうちに1928年5月20日の議員選挙が始まった。選挙が終わっても予算承認はされず、さらに社会主義者の猛烈な反対を受けた。結局、最終承認が得られたのは11月の事だった。ちなみにこの選挙でナチスが議席12を獲得し、台頭してきている。建造費は8000万ライヒスマルク。
- 起工に前後して旧協商国との間で外交上の鞘当があり、ドイツはドイッチュラントの建造を中止する代わりにワシントン条約の制限下に入り、対英25%弱の主力艦枠を得ることを要求した。イギリスやアメリカは前向きだったが、フランス*5が強硬に反対したため元通りヴェルサイユ条約下での建造となった。ドイッチュラントの建造は、竣工前から周辺の好奇心を誘った。
- 1929年2月5日、旧式戦艦プロイセンの代艦としてキールのドイチェヴェルケ造船所の第二船台で起工。ヤード番号219の仮称が与えられた。1931年5月19日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の手によって命名式と進水式を挙行。式典では軍楽隊による演奏や愛国的演説が行われた。この血と涙と汗の結晶を国家の誇りとして全世界に喧伝するのはハインリッヒ・ブリューニング首相の任務だった。紳士や労働者の前で彼は語った。「ドイツ国民は様々な束縛を受け、また恐ろしい経済問題を抱えながらも、ヨーロッパ各国との平和共存を堅持していく力のある事を証明してみせたのであります」。グロエーネル国防相は次のように祝辞を贈った。「今日は我が新興海軍にとって最も重大な日である。この新しい戦艦は世界の造船技術界に一新紀元を劃するのみならず、実に我がドイツ民族の伝統的精神を象徴する所のものである。祖国の名ドイッチュラント―――。嗚呼、何たる誇らかな名であろう。そしてこの名は我が新興海軍にとって、そもそも何を意味するものであろうか」。進水式は順調に進み、ドイッチュラントの船体はするすると滑り出して海の上に降り立った。まだ何も無い船体の上には多くの人々が乗って誕生を祝い、周りには小さなボートが伴走した。工事中と思われる写真が何枚か残されている。クレーンで吊るされた28cm三連装主砲の砲身や、徐々に骨組みが組み立てられていく様子を写したものなどがある。
- 1933年1月より公試を開始し、出力4万8390馬力を記録。2月27日、キール運河を通過してヴィルヘルムスハーフェンに回航。そして4月1日に竣工した。彼女のために公式テーマ曲「装甲艦ドイッチュラント」が1937年に作曲されている。ドイッチュラントには33名の将校と586名の水兵が乗り込んだ。
- ドイツの宣伝家たちは、ドイッチュラントの排水量を制限の1万トン以下に抑えた独自の設計を大いに持てはやした。実際は1万1700トンと約20%超過していたが、列強が真相を知ったのは1945年の事だった。この手の過少申告は極東の某島国や地中海の防半島国家でも茶飯事だったが
- 限られた重量を武装にできる限り回せるよう、船体の設計・建造に際しては軽量化に様々な技術や工夫が投入されている。まず、大型艦としては世界初の電気溶接技術を船体に使用し、本来のリベット留めと比較して約15%の軽量化に成功したとされる。クルップ社の開発した新素材の賜物であった。更なる軽量化のため新開発のMAN社製MZ42/58複動2サイクルディーゼルエンジンを搭載。こちらはあまり軽くならず、むしろ騒音や故障、振動に悩まされた。ただし改良により1932年に振動の問題は解決された。これにより、主力艦では一部の高速戦艦を除いて追いつけない最大速力28ノットと長大な航続距離を獲得。従来の蒸気タービンより機関員を少なくできるため乗員区画の削減に繋がり、一定の軽量化にも貢献している。整備も容易というオマケ付きだった。特にドイッチュラントは燃料搭載量が3200トンと姉妹艦より多く、装甲艦随一の航続距離を誇った。補足として、電気溶接やディーゼルエンジンは砲術練習艦ブレムゼで試験運用しており、一定の信頼性があった。
- 一方で防御力に関しては不安が大きかった。条約型重巡洋艦を仮想敵として防御面を考慮。基準排水量1万トンというのは列国の重巡と同等だが、武装などの重量がより大きいため、防御力は一般的な重巡以上に妥協する必要があったのだ。限られた装甲の配置を工夫するなどできる限りの努力はなされていたが、それでも重巡の20.3cm砲に対しては基本的に無力だった。ちなみに後発のシャルンホルスト級はドイッチュラント級の改良型だが、旧式戦艦の設計図を流用したためドイッチュラントの巧みな防御配置を活用できず、対艦防御・水雷防御が劣ってしまっている。主砲はドイツ海軍初の三連装砲を採用。口径は制限ギリギリの28cmにし、強力な火力を獲得。最大仰角40度で射程は3万6475mに達した。小型な船体に大口径の砲を載せた事から、イギリスのマスコミから「ポケット戦艦」の異名を付けられた。標準的な重巡の主砲口径が20.8cmだと考えると、ドイッチュラントの主砲がいかに巨大で強力か、よく分かる。副砲には、波から砲を守るための防盾が備え付けられた。
- 小型化による重量軽減を狙い、司令部を内包した箱型艦橋を採用している。重心の上昇を招いたため二番艦アドミラル・シェーア以降は改められており、識別は容易。艦上構造物には高価な軽合金を多用。軽巡洋艦エムデンで培われた工業デザインを参考にしており、従来のドイツ戦艦とは異なる容姿となった。艦橋の背後には1本の煙突が立ち、その周辺は艦載機を露天駐機させるスペースとなっていた。
- 革新的なドイッチュラントの誕生は、周辺各国に大きな衝撃を与えた。28ノットの速力と28cmの主砲を持ち、相手が巡洋艦以下であれば優勢な火力を発揮でき、戦艦であれば快足を活かして逃げ切る事が出来るという、まさにニッチを突いた型破りな存在だったのだ。特に脅威とされたのが、ディーゼルエンジンを採用した事による長大な航続距離であった。イギリスは通商破壊に投入された場合の被害を想定して震えあがった。ウィストン・チャーチル首相は戦後の回顧録で、「巧みな技術で1万トンの排水量制限内に圧搾されていた。どんなイギリスの巡洋艦でもこれに単独では対抗できなかった」と綴っている。この恐るべきポケット戦艦に対抗するため、フランスはダンケルク級戦艦の建造に着手。そのフランスと地中海の覇権を争うイタリアも対抗のためヴィットリオ級の建造を開始。これに触発されてイギリスも既存戦艦に改装を加えるようになる等、列強の建艦に影響を与えた。それに伴って周辺諸国からの評価は高かった。中でもフランスは特にドイッチュラントを脅威と捉えており、ダンケルク建造以外にも様々な外交手段を用いて建造中止に持って行こうとしたほど。
- 日本ではドイッチュラントの事を「超海防戦艦」「袖珍(しゅうちん)戦艦」「豆戦艦」と呼称して紹介された。同時に各新聞で取り上げられている。中外商業新報は「ドイツが造る恐ろしい巡洋艦」「独逸造船技術者の誇り」と紹介、大阪時事新報は高級で軽量な装甲材料を用いた事、艦内設備に軽金属合金を使用した事、鋏鋲を使用すべき場所に出来得る限りの電気溶接を用いた事、ディーゼルの応用を完全ならしめた事、この四点を高評価し「魔の戦艦」と評した。国民新聞は「豆戦艦の力、祖国の名で独の寵児」の見出しでドイッチュラントを解説。
- 大日本帝國海軍は、1927年から独力でディーゼルエンジンの開発に着手していたが技術不足で実用化の目処が立たなかった。そんな中、1932年にドイッチュラントの公試が終わったとドイツ政府が発表。革新的なディーゼルエンジンを導入すべく、帝國海軍はMAN社に打診し、特許料を支払おうとした。ところが請求された金額は100万円(現代に換算すると1億円)。高額な特許料を吹っかけられたせいで交渉は難航。結局導入を諦め、独力での開発を続けた。ドイッチュラントの存在は、極東の国まで振り回した。
- 国内外での大きな反響とは裏腹に、ドイツ海軍内部の評価は決して高いとは言えなかった。最大の特色であるニッチを突いた性能も、海軍内部からは「戦艦には撃ち負け、巡洋艦より遅い」と酷評されていたという話もある。いずれにせよ、もとよりドイッチュラント級は「ヴェルサイユ条約で仕方なく作らされた軍艦」であるにすぎず、当然本音では真っ当に強力な軍艦を建造したかったわけである。当初、ドイツ海軍はこの画期的な装甲艦を生産するよう訴えたが、ディーゼルエンジンの整備性に難がある事、列強の戦艦の速力がすぐに28〜30ノットに上昇した事で優位性を失くし、やむなく次級のシャルンホルスト級の設計へと移行する事になる。
- もっともドイッチュラント級の「脅威」は、世界恐慌などの影響で予算を大きく削られていた欧州各国の海軍が、予算確保のためにわざと大げさに「震えあがった」面も大きい。特にもともと国内での地位が低かったフランス海軍にとってこの時期の予算確保は死活問題であり、ダンケルク級もコンセプト自体はかねてから要求されていたものだった。ダンケルク級の出現により、6隻建造するはずだったドイッチュラント級は3隻に削減される。ドイッチュラント級ではダンケルク級から逃げられないからだ。代わりにシャルンホルスト級が建造される事になる。その一方、1931年に外国筋債権回収請求が殺到し、ドイツ国立跡銀行が倒産の危機に陥った時にはポケット戦艦の建造中止を条件に、フランスから救済する案が打診されている。
- 総評としては、厳しい条約の制限下でできる限りのことをし、うまくまとめ上げたが、やはり条約の足枷が重すぎたということになる。
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就役から開戦前夜まで
- 1933年4月1日に就役したドイッチュラントは、戦闘艦隊(日本でいう連合艦隊)の旗艦となる。5月20日にヴィルヘルムスハーフェンを出港し、スカゲラク海峡を経由してノルウェー海やフェロー諸島を巡航。6月1日に帰港した。6月6日よりバルト海に進出し、海上試験を実施。8月23日、ダンツィヒ湾で行われた全力公試で28ノットを記録。12月10日に全ての試験項目を完了した。1934年4月11日、西バルト海で演習を実施。多くの軍首脳がドイッチュラント艦上に集まり、演習の様子を観閲した。その後、ヒトラー総統とドイツ国防軍に秘密取引の場を提供。ナチス党史には「ドイッチュラント協定」と記された。この演習で、ヒトラーはドイッチュラントの実弾砲撃を目の当たりにしており、その迫力に魅了された彼は、レーダー提督が示す大型水上艦増強計画に賛同するようになったという。また非公式ながら乗員と言葉を交わし、単独で艦内を見学したと伝わる。同月中にヒトラーを乗せて、ノルウェーを訪問。5月31日、ユトランド沖海戦の記念日に合わせてハンブルクを訪問。6月9日から23日にかけて、軽巡ケルンとともに北大西洋で訓練。8月にスウェーデンのヨーテボリを訪問し、10月にはエディンバラへ公式訪問。11月12日、ヴィルヘルムスハーフェン所属となる。12月13日、ヴィルヘルムスハーフェン工廠に入渠は、改修工事を受ける。
- 1935年2月21日、出渠。3月14日、ディーゼルエンジンのテストを行うべく南米に向けて出港。16ノットの速力で航行し、3月27日に初めて赤道を南下。トリニダードのポートオブスペインとアルバのサンニコラスを訪問し、32日間の航海を経て4月19日に帰投した。夏頃に改修を受け、He60水上偵察機2機と射出機を装備。8月20日、キール運河を通過して艦隊演習に参加。8月31日にヴィルヘルムスハーフェンへ帰港した。10月19日から11月9日にかけて姉妹艦アドミラル・シェーアとともに大西洋で訓練。砲撃や距離測定、曳航の訓練が行われた。その後、エムデンと合流してヴィルヘルムスハーフェンにて改修工事を実施。列強の航空機発達を受けて、高角砲を8.8cm連装砲3基6門に換装。更に電波探信儀De-Te装置を新たに装備した。これにより性能を大幅に向上させる。
- 1936年春、工事完了。5月29日、ラーボエに海軍記念館が開館し式典に参加した。6月6日から17日までイギリス方面を巡航し、デンマークのコペンハーゲンに入港。続いて北海やバルト海で戦闘訓練を行った。7月からヘルゴラント沖に移って訓練をしていたが、7月17日にスペイン内戦が発生。訓練を取りやめて本国に帰還する。当初、ヒトラーは艦艇の派遣に消極的だったが、レーダー提督の説得により派遣を決断する。
- スペイン内戦はファシスト派と共和国派の対決であった。ファシスト派(国粋派)を率いるフランコ総統から支援要請を受けたドイツは海軍とコンドル軍団を派遣。再軍備宣言から間もないドイツ軍にとって、スペインは新兵器の実験及び練習相手に相応しかった。1936年7月24日、ロルフ・カールス中将が乗艦する旗艦となったドイッチュラントは艦隊を率いて内戦に介入。ただし海軍の任務はあくまで国際共同の不干渉哨戒への参加であり、そこまで露骨な介入は行ってはいない。ドイッチュラントは不干渉任務の傍ら情報収集を開始。共和国軍唯一の戦艦ハイメ一世はコンドル軍団の攻撃で入渠しており、ドイッチュラントを阻める敵艦艇は存在しなかった。共和国軍は潜水艦による雷撃を試みたが、失敗に終わっている。
- 7月26日、ドイッチュラントとアドミラル・シェーアはサンセバスチャンに停泊。戦火に追われた難民たちを収容し、スペインの各港に立ち寄って避難させた。8月31日、一度ヴィルヘルムスハーフェンに帰投し整備を受ける。10月1日、スペイン近海に赴き、哨戒に復帰。秋頃、ドイッチュラント率いるドイツ艦隊は、共和派艦隊の動向を監視していた。マラガを出港し、ビスケイ湾に向かうのを確認したドイツ艦隊は、これを国粋派海軍に通報。モレノ大佐は切り札である重巡カナリアスを投入、エスパルテル岬沖海戦が生起した。海戦は国粋派が勝利、ビスケイ湾派遣は中止された。
- 1937年5月24日、パルマの港に停泊していたドイッチュラント。そこへ共和国軍の艦艇や航空機が現れ、攻撃を行う前に退避するよう要請してきた。イギリス海軍の軽巡洋艦ガラティアに座乗していた先任将校サー・ジェイムズ・サマヴィル中将は将旗を掲げ、ドイッチュラントとイタリア駆逐艦マロチェロを誘導。多国籍軍とは思えない見事な連携を見せ、港外へと脱出した。攻撃後、3隻はパルマ港に戻った。そしてサマヴィル中将は、2隻に感謝の信号を送った。これを受けて、ドイッチュラントのカールス中将は慣れない英語で「我ら三国海軍の全艦艇が本日のように一個の戦隊に纏まったら、多くの点で誠に好都合でありましょう」と返礼をしている。押されている共和派はソ連から人員補充を受け、港湾に停泊する国粋派艦艇を空襲するようになった。ところが実際には独伊の艦船が主な標的となった。5月24日にはイタリア輸送船バルレッタが、26日にはドイツ水雷艇アルバトロスが立て続けに被害を受け、独伊は猛抗議している。しかし共和派は両国からの抗議を取り合わず、航空攻撃を続行。
- 1937年5月29日、ついに悲劇が起きた。18時40分、バレアレス諸島イビサ島沖で列国の軍艦とともに停泊していたドイッチュラントに、共和国軍のツポレフSB-2爆撃機2機が夕日を背にして接近。ちょうど食事時であり、ドイッチュラント艦内の食堂ではバンドが軍歌を奏でていた。つまりとても脆弱な状態であった。それでも不審機の接近に気付き、対空砲火が放たれたが、敵機から投下された50kg爆弾2発を喰らい、中破。食堂の前に列をなしていた乗員たちに死傷者が出た。爆発の炎は弾薬庫にまで達し、艦内の廊下には煙が充満。乗組員の一部は窓から海へと脱出する。ガソリンの引火により艦載のハインケルHe60水上機1機も破壊された。火災が発生したドイッチュラントだったが、ダメージコントロールや護衛の駆逐艦レオパルドの助けによって大事には至らなかった。イビサ島の民間船舶も消火活動に加わっている。爆撃と呼応する形で共和国軍の駆逐艦群が出現し、ドイッチュラントを包囲する。宵闇の中で燃え盛るドイッチュラントは格好の標的だったのだ。だがドイッチュラントは猛烈な防御弾幕を展開。あまりの凄まじさに敵駆逐艦は雷撃が出来ず、遠巻きに砲撃する事しか出来なかった。やがて攻撃を諦め、追い返された。日没後、アドミラル・シェーアと駆逐艦4隻と合流。アドミラル・シェーアから軍医を呼び寄せて救助活動を実施。負傷者の多くが火傷を負っていた。どうにか鎮火に成功し、ひとまず危機は去った。
- 設備が整っているという理由で、英領ジブラルタルに向かう事を決意。艦隊とともに西進を始めたが、5月30日夜にも共和国軍の駆逐艦が出現。虎視眈々と機会を窺っていたが、ドイッチュラントにサーチライトを向けられると退散した。間もなくジブラルタルへ寄港。負傷者53名を地上の病院へ搬送した。当初、犠牲者は24名だったが少しずつ死者が出続けて、最終的には31名が亡くなっている。受け入れたは良いものの医療スタッフの数が足りず、病院も手一杯になってしまう。病院側から緊急要請が出され、イギリス本国から増員の医療スタッフが空輸される事になった。葬儀屋も呼ばれ、一晩かけて埋葬儀礼用の棺が用意された。
- 共和国軍のドイッチュラント攻撃に激怒したのはヒトラー総統であった。報復のため、アドミラル・シェーアや駆逐艦4隻にアルメリア市砲撃を命令。5月31日、200発以上の砲弾が撃ち込まれ、市民19名が死亡。町並みは破壊され、メキシコ大使館やカトリックの大伽藍は原形を留めていなかった。この事件は「ドイッチュラント号事件」と呼ばれて、日本でも報道された。なお、共和国軍は、ドイッチュラントをファシスト派の巡洋艦カナリアスと誤認したと説明している。一方、爆撃を手引きしたのはソ連船マゼランであり、誤爆に見せかけてドイッチュラントを葬ろうとした可能性が指摘されている。
- 6月5日、戴冠式参加のためイギリスに向かっていた帝國海軍の重巡足柄がジブラルタルに寄港。損傷を受けたドイッチュラントが死体や負傷者を収容している所を観察し、
「外見上は艦体に異状を認めず。人員の死傷は直接爆弾の被害か、ガソリン庫引火による火傷最も多数なり」と報告している。ドイッチュラント爆撃を受けて、独伊は不干渉委員会に安全海域の設置や共和政府潜水艦の抑留、自衛戦闘の許可、各国の連合艦隊による示威行動を求めた。しかし要求が受け入れられなかったため、ドイツとイタリアは6月末に海上査察からの離脱を宣言。ポルトガルも同調するなど、列強各国に混乱が生じた。不干渉哨戒ではアメリカやフランスの駆逐艦も国粋派・共和派いずれかは不明だが空襲を受け、ライプツィヒやイギリスの駆逐艦が潜水艦に攻撃を受けるなど、参加各国にとって非常に神経をすり減らす任務でもあった。死者は一度埋葬されたが、6月11日にヒトラーの命令で掘り起こされた。遺体をドイッチュラントに載せて、16日にヴィルヘルムスハーフェンに帰投。艦から棺が降ろされ、翌日に大規模な葬儀が執り行われた。その葬儀にはヒトラーも参列している。その後、キールまで回航され修理。7月に入るまで動けなかった。10月5日、スペイン近海に再進出。ファシスト派が制圧した都市を巡航した。11月14日からはイタリア近海で活動し、ナポリでクリスマスと新年を迎えた。
- 不干渉哨戒に参加した各国の軍艦の主な任務の一つに、「戦争避難民の支援を、国籍を問わず支援する」というものがあった。平均すると各国が乗せた避難民のうち自国民は半数以下で、ドイッチュラントを含むドイツ海軍でも同様の統計が出ている。
- 1938年2月11日、ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。乾ドックに入渠し、機関室にあった構造的欠陥を修理している。続く5月、グナイゼナウ就役に伴い旗艦の座を譲渡。8月22日、キールで行われたプリンツ・オイゲンの進水式典に参加。ドイッチュラントがスペインで活動している頃、ズテーテン危機が発生していた。9月26日、ヒトラーはズテーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を求め、軍を進駐。いわゆるズデーテン危機である。これに伴ってドイッチュラントも出動し、アゾレス諸島とカナリア諸島の間で待機。もしもの時は砲撃の許可も下っていたが、発砲する事無く終息した。11月12日、バルト海で砲撃訓練。
- 1939年1月26日、ファシスト派がバルセロナを占領。スペイン内戦はフランコ軍の勝利で終わった。戦勝を祝し、ドイッチュラントはスペインの各都市を訪問。現地で砲撃訓練を実施し、その威容を見せ付けた。リトアニアがメーメルの返還を申し入れ、ドイツの領土に復帰した。3月23日、シュヴィーネミュンデでヒトラーを乗せてメーメルに向かった。水が苦手な総統閣下は船酔いに苦しめられ、苦難の時間が続いた。メーメルに到着すると記念式典が催された。ドイツ系リトアニア人の歓迎を受け、ドイツはその版図を広げた。4月1日、期待の新型戦艦ティルピッツの進水式に参加。4月17日より春の巡航を実施。北大西洋で大規模な訓練を行った。5月16日、帰投。6月12日からはバルト海で訓練。その後、ヴィルヘルムスハーフェンに入港し、第二及び第三機械室の土台を強化する工事を受けた。8月23日に出渠。連絡員と下士官4名と気象学者が艦内に乗り込み、弾薬の補給を受ける。
- レーダー提督は、ポーランド侵攻で英仏が宣戦布告してくる事を見越してドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーを大西洋に配備するよう命令。翌24日、ドイッチュラントは専用の補給艦ヴェステルヴァルトとともに出港。隠密行動を以って北上し、イギリス軍の哨戒線を突破。8月28日にデンマーク海峡を通過してグリーンランド南方に配置された。同時にUボート19隻も出撃しており、彼らとともに英仏の獲物を待ち伏せた。対するイギリス海軍は、ポケット戦艦出港の報告や噂を受けて本国艦隊に捜索を命じた。しかし発見する事は叶わず、放たれた2体の魔物は大海原に息を潜めた。8月28日、デンマーク海峡を突破して大西洋に進出する。8月31日、ヴェステルヴァルトと会合し補給を受ける。
第二次世界大戦の勃発
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通商破壊
- 1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。未曾有の大戦争が幕を開けた。グリーンランド南方で開戦を迎えたが、英仏商船への攻撃は許されなかった。ヒトラーが英仏との和平をもくろんでいたため攻撃が出来なかったのだ。主要航路を外れ、中部大西洋へゆっくりと、隠密に南下していった。9月5日、発進した艦載機が消息不明となる。喪失と判定されそうになったが、数時間後に偶然発見されて回収。同月11日と17日と20日にヴェステルヴァルトから補給を受ける。9月24日、レーダー提督はヒトラーに攻撃の許可を求めたが、却下されている。
- ドイッチュラントがバミューダ諸島東方で活動しているとの情報を得たフランス海軍は、世界最大の潜水艦スルクフをKJ2船団護衛に充てた。
- 9月27日、ようやく通商破壊の命令が下った。ドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーには次のような指示が出された。
一、艦長の任務は、敵に気付かれないよう大西洋に到達し、そこにおいて水平線上に船影を認めた場合には、まずこれを回避する事。
この命令は英独間に戦争が勃発した後でも、戦闘開始の無電命令を受けるまでは守らねばならない。
二、ついで艦長の任務は、あらゆる手段を用いて敵商船を破壊し、撃沈する事である。また出来るだけ敵の軍艦との接触を避ける事。
劣勢な軍艦の場合でも、主任務である敵補給線の妨害に貢献するときに限り交戦は許されるものとする。
三、行動海域で、しばしば位置を変える事は敵を当惑させるのに有効であると同時に、たとえ目に見える戦果が無くとも敵商船の行動を制限する効果がある。
時には遠く離れた海面で逃げ回る事も、同様に敵の困惑を増加することになろう。
- この時までにバミューダ島・アゾレス諸島間の主要航路近くに進出していたドイッチュラントは、さっそく活動を開始する。いかに小規模であっても水上艦との交戦は避け、通商破壊に専念するよう厳命を受けていた。既に連合国の艦艇が通商破壊艦の出撃を予期して世界中で哨戒を開始しており、位置の暴露や損傷のリスクをできる限り減少させる必要があった。10月5日、バミューダ諸島東5600マイルで最初の獲物を発見した。相手はイギリス貨物船ストーンゲート(5044トン)。主砲を向けて停船を呼びかけた。恐るべき巨砲が向けられているにも関わらず、ストーンゲートは勇敢に遭難信号を発信。直後にドイッチュラントから砲撃され、撃沈された。こうして最初の獲物は屠られた。しかし遭難信号を聞きつけてイギリスの戦艦が駆けつけると考えたヴェネッカー艦長は、舳先を北に向けて離脱した。一方、ストーンゲートの沈没で大西洋にポケット戦艦が暴れ回っていると知ったイギリス軍は、その対応に追われた。
- 10月6日、仏潜水艦スルクフが護衛するKJ2船団はバミューダ海域で荒天に巻き込まれた。嵐の中、輸送船エミール・ミゲ(1万4115トン)が船団より落伍。スルクフは救難信号を受信するも、近海に潜むドイッチュラントへの警戒から助けられなかった。結果、エミール・ミゲはU-48に撃沈された。
- 次なる獲物を求め、全速力で疾駆するドイッチュラント。今度はハリファックス・イギリス間の航路に現れ、10月8日にアメリカ貨物船シティ・オブ・フリント(4963トン)を停船させる。臨検の結果戦時禁制品を運んでいた事が判明し、船を拿捕、物資を押収してドイツへ回航させた。ドイッチュラントから送り込まれた回航要員はイギリスの封鎖線を突破するため中立国であるノルウェーの領海を通ってドイツへ向かおうとしたが、戦闘員である回航要員を乗せての通航は許されず、一度ソ連のムルマンスクに入る。その後再びドイツへ出航したがまたもやイギリスの封鎖線に捕捉され、ノルウェーのハウゲスンに入港。ノルウェー海軍に臨検・拿捕され、船はアメリカへ返還された。この一件はアメリカ政府がドイツへの態度を硬化させる契機の一つとなった。なお、シティ・オブ・フリントは1943年にドイツ潜水艦に撃沈されている。このころから、ヒトラーは祖国の名を冠したドイッチュラントの沈没を極度に恐れるようになった。イギリス海軍との戦闘に巻き込まれる前に帰港させるよう強くレーダー提督に迫っている。だが通商破壊を続けさせたいレーダー提督は、四方八方手を尽くして作戦の延長を図った。
- 10月15日午後4時頃、欧州方面で活動していた日本郵船所属の箱根丸は偶然ドイッチュラントと遭遇した。場所はニューヨークとリヴァプールの中間辺りとされている。同船にはナチス党大会に出席するため欧州に出張していた大角大将が便乗しており、彼曰く「最初はアメリカの軍艦だと思った」そうな。ドイッチュラントには軍艦旗が掲げられておらず、また箱根丸にもドイッチュラントに対する警報が出されていたようだった。箱根丸の8000m先を約1時間ほど並走した後、ドイッチュラントは水平線に消えていった。ブリッジにいた小野田中佐は艦影をスケッチしていて、ロサンゼルスに到着したあとに調べた結果、かの艦がドイッチュラントである事が判明した。大角大将は艦長のヴェネッガーを知っており、彼の武官時代を思い浮かべて懐かしんだそうな。
- 10月16日、カナダのニューファウンドランド東方でガーストンに向かっていたノルウェーの小型貨物船ローレンツ・W・ハンセン(1918トン)を撃沈。イギリスに届けられるはずだった大量の木材は全て沈んだ。波間には救命ボートが漂う。ドイッチュラントは生存者21名を救助したが、全ての生存者を救出する事は出来ず、一部は洋上に取り残された。漂流中に3名が死亡し、生き残った彼らは後にオークニー諸島へ漂着。英仏海軍は、生存者からの情報で通商破壊艦が2隻いると断定。この脅威を排除すべく、両国は艦隊を8つの海域に分派。フランス海軍は大西洋と地中海を受け持ち、北米・西インド方面・南米喜望峰沿岸をイギリス海軍が警備。ドイッチュラントの行方を血眼になって探した。同日、デンマークの蒸気船を発見し停船させる。しかし行き先が中立国の港だったため、先ほど沈めたローレンツ・W・ハンセンの捕虜を移乗させ、解放した。後にデンマーク船はイギリス海軍に報告し、北大西洋で活動中の通商破壊艦はドイッチュラントであったことが明らかになった。
- ヒトラーは毎日のようにドイッチュラントの帰港を迫った。対するレーダー提督も粘り強く抵抗し、三週間以上の時間を稼いだがとうとう膝を屈した。レーダー提督はヴェネッカー艦長に帰投命令を下した。
- 大西洋の荒天は逃げる獲物に味方した。ローレンツ・W・ハンセン撃沈以来、全く戦果を挙げられなかった。11月1日に帰投命令が届き、帰路につく。一方で荒天はイギリス軍やフランス軍の警戒網を突破する助けにもなった。ポケット戦艦キラーのダンケルク級が、南アフリカ方面より北上してきていたが、見つかる事は無かった。北海に入ったところで不運が舞い込む。ヴェステルヴァルトから補給を受けている時に、嵐に巻き込まれる。荒波に揉まれ、傾斜は30度に達した。二日に渡って暴風雨に曝された結果、ドイッチュラントの上部構造物に亀裂が走った。思わぬ危機に見舞われたが、駆逐艦4隻が救援に駆けつけた。また空軍機も誘導に現れ、11月8日にデンマーク海峡を突破。三日後にノルウェー沿岸に到達すると、イギリス軍の目をかいくぐりながら南下し、11月15日にキールに入港し、同日リュッツォウに改名され、同時に装甲艦から重巡洋艦へと分類を変更された。
- 自国の名を冠した艦が撃沈された事による悪影響(士気の低下、連合軍の宣伝材料化)を憂慮した末の改名と言われている。またアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦リュッツォウをソ連に売却しており、レーダー提督としても襲名のほかや連合軍を混乱させる意図もあった。名前の由来は、ナポレオン戦争時代のプロイセン軍の将軍ルードヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・リュッツォウである。
- リュッツォウの戦果は商船2隻撃沈、1隻拿捕となった。妹と比べると非常に少ないながら、一般的な巡洋艦に比べると強力な装甲艦の活動は、非常に大きな緊張を連合国海軍に強いた。ウィストン・チャーチル首相は「この強力な艦が我が国の主要通商ルートにいるというだけで、北大西洋の我が護衛部隊も対潜部隊も、重苦しい緊張を強いられる事になった。この艦の発する漠然とした脅威を感じているより、実際にこれと砲火を交える方が我々にはやり易かった」と漏らしている。重要な船団には旧式とはいえ戦艦が護衛に付けられることも増え、運航コストは決して無視できない物になった。
- 11月24日、スカゲラク海峡でライプツィヒ等とともに敵船舶掃討を行ったが、目立った戦果は無かった(シャルンホルストとグナイゼナウの出港を隠すための陽動とも)。翌日、ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。キールを経由してダンツィヒ港に回航され、船体とエンジンの修理を受けた。少し前の11月23日、英仮装巡洋艦ラワルピンディは「ドイッチュラントよりの攻撃下にあり」との緊急遭難信号を発信している。しかしその時、ドイッチュラントはゴーテンハーフェンに停泊していた。実はラワルピンディはシャルンホルストをドイッチュラントと誤認しており、訂正されないまま沈められてしまった。このためイギリス海軍省は、ドイッチュラントによって沈められたと長らく誤認していたという。
- 12月17日、遠く離れた南米ウルグアイにて末妹のアドミラル・グラーフ・シュペーが自沈した。戦果と引き換えに幸運に恵まれず、イギリスの巡洋艦隊に追い詰められてしまったのだ。余談だが、かの艦は通商破壊中、ドイッチュラントに偽装していたとか。
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ノルウェー侵攻
- 1940年1月31日、リュッツォウに弾薬が補給される。2月6日、第二次通商破壊の命令を受ける。それに伴って2月16日からゴーテンハーフェンで訓練。砲撃、雷撃、灯火訓練も実施し、戦備を整えていくが右舷推進軸が氷によって損傷。3月12日、シュヴィーネミュンデに回航され、修理。到着後すぐに港が凍りつき、しばらく出られなくなる。3月25日、砲撃訓練と傾斜実験が行われた。専用の補給艦ヴェステルヴァルトはノルトマルクに改名され、ドイッチュラントの下から離れている。ドイッチュラント改めリュッツォウは、北極海で捕鯨船団の攻撃を企図していた。アドミラル・シェーアは修理中、アドミラル・グラーフ・シュペーは沈没と動ける装甲艦はリュッツォウしかいなかった。4月初旬にはノルウェー侵攻ことヴェーゼル演習作戦も控えており、背後のイギリスを撹乱するためにも通商破壊は不可欠とレーダー提督は考えていた。ところが、ヘルマン・ゲーリングは「リュッツォウもノルウェー攻略に参加すべし」と訴え、ヒトラーもそれに賛同した事から配置変えをされてしまう。それでも提督は通商破壊を諦めず、ノルウェー攻略後に大西洋へ出られるよう準備を整えた。リュッツォウはトロンヘイム攻略を目指す第二戦隊に配備された。しかしリュッツォウは最大24ノットの速力しか出せず、30ノット以上出せる艦隊の足を引っ張る形となってしまった。司令のギュンター・リュトイェンス中将はリュッツォウを露骨に疎ましく思っていた。「もし敵艦隊と遭遇したら?」というティーレ艦長の問いかけに、リュトイェンス司令は「艦隊に30ノットを出さねばなるまいな」と答えた。つまり会敵の際はリュッツォウを見捨てるというのだ。
- ところが作戦開始の10時間前である4月6日14時、リュッツォウのエンジン台座に亀裂が入っている事が判明。ヴォルフガング・ギュンター機関少佐は「本格的修理には最低48時間かかります」と報告。修理していては間に合わない事から航続距離が短くて済む第五戦隊に転属。応急修理の後、山岳猟兵400名と空軍地上要員50名を乗せた。ヴェーゼル演習作戦が発動。4月6日夜、リュッツォウは第五戦隊の一員としてヴィルヘルムスハーフェンを出港、攻略目標の首都オスロを目指した。ノルウェー沖ではイギリスの潜水艦が哨戒線を張っており、何度か潜水艦出現の誤報が出されていた。
- 4月8日19時6分、英潜水艦トライデントに発見され、雷撃を受ける。リュッツォウを標的とし、10本の魚雷が扇状に広がって伸びてきた。1本が艦首をかすめたものの、全て外れる。水雷艇アルバトロスが爆雷攻撃を仕掛けるも、トライデントの追跡は24時間以上に渡った。オスロ沖でトライデントが雷撃。タンカー・ポジドニアが撃沈される。ヒトラーはノルウェーに平和的進駐を唱えていた。このためノルウェー軍に対する備えは疎かになっていた。また第五戦隊司令のクメッツ少将は「ノルウェー軍ごとき、ドイツ艦隊の威容で降伏する」と完全に油断しており、これが後に予期せぬ損害を招く事になる。オスロに至るには、狭いドレーバク水道を通らなければならず、ノルウェー軍は多くの要塞を構築していた。首都へ通じる水道だけあって防備は当然堅かった。ティーレ艦長は「ノルウェー軍の抵抗は必至」として全速力による突入を再三具申したが、クメッツ少将以下上層部が油断し切っていたため認められなかった。艦長の予感を裏付けるかのように、突入直前になってノルウェー軍の哨戒艇に発見され、通報されてしまう。また、リュッツォウの通信士が傍受したラジオによると、ノルウェー海軍省は「ただちに一切の航海灯を消せ!」と命令しており、既に敵の臨戦態勢が整えられていた。やがてノルウェー沿岸が見えてきたが、灯火管制により暗闇に包まれていた。
- 4月9日0時25分、ドレーバク水道に侵入。9ノットの低速で、虎口へと飛び込んだ。ラウエイ要塞とボレルネ要塞からサーチライトが照射され、ドイツ艦隊を待ち構えていた。しかし幸運にも折からの視界不良にまぎれ、さらにクメッツ司令の策で各艦に航海灯を点けさせた事でノルウェー軍は友軍と誤認。被弾することなく最初の砲台群の射界を突破することに成功。上陸部隊を小艦艇に移乗させるなど上陸の準備を整えて進撃を再開した。安堵したのも束の間、今度は敵の警備艇ポル?が現れ、第五戦隊を捕捉。水雷艇アルバトロスが撃沈したが、沈むまでに情報を送られた。0時45分には2隻の警備艇が現れ、発光信号でドレーバク方面に連絡。もはや戦闘は不可避だった。午前5時20分、オスカシボルグ要塞や警備艇に発見され本格的な戦闘が始まり、第五戦隊は両岸から激しい砲撃を浴びる。警備艇からの報告を受け、カホルム要塞も砲撃に加わる。ドイツ軍は事前に要塞地帯の調査を行っていたが、秘匿されて判明しなかった兵装もあった。カホルム要塞の魚雷発射管がその一つで、突然放たれた魚雷に不意を突かれた。旗艦の重巡ブリュッヒャーが犠牲となり、撃沈される。リュッツォウにも150mm砲弾3発が砲塔に撃ち込まれ、火災発生。2名の死者と10名の負傷者を出し、第二砲塔が使用不能となる。砲術長ローベルト・ヴェーバー少佐にも動かす事が出来なかった。また敵の位置が悪く、リュッツォウは副砲と高角砲のみで戦わなければならなかった。歩兵を哨戒艇に乗せて、要塞制圧に向かわせたが、容赦の無い砲撃は続く。水道は狭く、満足な回避運動が取れずにいた。5分後、沈黙していた第二砲塔が復旧。ここでティーレ艦長は全速後進を命令、一旦退却する。幸い、ブリュッヒャーの生存者は多く、クメッツ司令を含む大半の者が自力で岸に泳ぎ着いた。
- ブリュッヒャー沈没に伴い、リュッツォウが第五戦隊の旗艦となった。砲台の射程圏外に出ると、ソンスに山岳猟兵400名を上陸。陸路でオスロに向かわせた。ドイツ空軍が救援に現れ、要塞に急降下爆撃を加えていったが沈黙させるに至らなかった。ノルウェー軍の抵抗は激しく、ラウエイとボレルネ要塞制圧に向かったドイツ軍部隊が退けられた。同時にホルテン軍港も強固に反撃、水雷艇アルバトロスやコンドルを苦戦させ歩兵の揚陸を阻む。敵を甘く見ていたツケを見事に払わされた形となった。内燃機船のノルデンが勇敢にも敵前偵察を行うと申し出たので、リュッツォウは要塞から11km離れた地点より前部28cm砲で支援。次々に炸裂する砲弾によりノルウェー軍は抵抗できず、ノルデンは無事情報を持ち帰って来た。要塞の制圧に向かわせた歩兵がドレーバクの街を占領。カホルム要塞は降伏した。敵の士気が低下していると見抜いたリュッツォウ艦長ティーレ大佐は、シュヌールバイン大尉を軍使にしてカホルム要塞に派遣。未だ健在である要塞の武装を接収するべく司令のエリクセン大佐と交渉。結果、交渉は成功し武装解除が行われた。午後遅く、ティーレ艦長は敵方の提督をリュッツォウに招き、二人きりの会談を行った。「これ以上の流血は避けたい」として、ドレーバクに散在する軍港や要塞に降伏するよう要請したが、提督は「ドレーバクに権限が無い」と残念そうに断った。ノルウェー軍の敢闘を称え、要塞にはノルウェーとドイツの国旗が翻った。こうして要塞は無力化され、オスロへの道が切り開かれた。ブリュッヒャーを葬った魚雷発射管はいつでも撃てる状態になっており、力ずくで突破しようとすれば甚大な被害が出ていたであろう。周囲の要塞や軍港も水雷艇アルバトロス等によって降伏し、ようやくオスロまで進軍。ところが首都は既に陸軍が占領しており、手柄を取られる形となった。また、ノルウェー側は王室や政府機関が脱出する時間を稼ぐことに成功しており、ノルウェーの占領統治における不安要素となった。だがドレーバク海峡を突破した事は評価され、ティーレ艦長には鉄十字勲章が授与された。
- オスロ到着後、戦死者4名が現地で埋葬された。その後、リュッツォウは修理のため、降伏したホルテン軍港に向かおうとしたが、本国への帰還を命じられる。艦隊から分離し、単艦で帰路についた。夜明けを迎えると突破率が下がってしまうため、家路を急いだ。ところが……。4月11日午前1時20分、艦載レーダーが1.5km後方より追跡する物体を探知。リュッツォウは回避運動を取ったが、何も起きなかった。5分後、謎の物体はレーダーから消失。元の航路に戻ったところで悲劇は起きた。午前1時29分、ノルウェーからの帰路で英潜水艦スピアフィッシュに雷撃され、4本中1本が艦尾に命中。艦内に激震が走り、15名の乗員が死亡。爆発の影響で艦尾が千切れかけ、リュッツォウは大破・航行不能となる。破孔からは大量の海水が侵入、エンジンは無事だったが舵を吹き飛ばされ、同じ場所をぐるぐる回り始めた。艦体はゆっくりと左舷へ傾斜し、デンマーク海岸に流されつつあった。誰もが次に来るであろう止めの一撃を覚悟したが、幸いにもこれがスピアフィッシュの持っていた最後の魚雷だった。一命を取り留めたリュッツォウは応急修理をしつつ午前2時20分、無線封鎖を破り東に向けて救難信号を発信した。最悪に備えて乗組員全員がライフジャケットを着用し、被害対策班が排水ポンプを稼動させ始めた。艦載の連絡艇を対潜掃討に駆り出し、傷ついた艦を護衛する。午前3時5分、救難信号を聞きつけた掃海艇や魚雷艇が救援に現れ、対潜掃討を実施。キールから来た海難救助船に曳航され、帰港を急いだ。道中、スカゲン救命艇や漁船まで護衛に駆けつけ、多くの小型艦船に守られながらキールに帰り着き、死の淵から生還を果たしたのだった。一連の作戦行動で死亡した19名の乗員は、軍葬で弔われた。ヴェーゼル演習作戦を終えた後の評価で海軍総司令部は、「ブリュッヒャーとリュッツオーの派遣は決定的な誤りだった」と評した。
- 4月14日20時22分、乾ドックで損傷の具合を調査。予想以上の重傷であった。さっそく修理が行われ、企図していた大西洋の通商破壊は露と消えた。さらに7月9日、キールを狙った空襲に巻き込まれ、爆弾が直撃する。不発弾だったものの修理期間が延びてしまい、年内は満足に動く事は出来なかった。破壊された艦尾や推進軸を新調。修理と同時に8.8cm連装砲を10.5cm単装砲に換装し、測距儀上に22式レーダーを搭載した。また艦首をクリッパー型に改装している。船体にはダズル迷彩が施された。リュッツォウが入渠している間にも戦局は推移し、ベネルクス三国とフランスがドイツの軍門に下る。ダンケルクからイギリス軍を追い落とし、西ヨーロッパを掌握せしめた。12月5日、出渠。停泊地へと回航された。
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災難な日々
- 1941年3月28日、リハビリの試運転が行われた。3月31日、やっと戦列に復帰。新しい艦長としてレオ・クライッシュ大佐が着任した。4月8日、日本から来訪した海軍遣独視察団がリュッツォウを見学。翌9日、キールを出発。バルト海での海上公試のためゴーテンハーフェンに向かい、4月10日21時5分に入港した。ビスマルク撃沈に伴い、リュッツォウが代わりに通商破壊を行う事に。ソムレアーズ作戦と名付けられた通商破壊を行うべく準備を開始。補給艦にはウッカーマルクとエーゲルラントが指定された。
- 6月10日、準備を整えたリュッツォウは駆逐艦5隻とともにキールを出港。前路哨戒にはU-79とU-559が就いた。大西洋で通商破壊を行うべく、出撃拠点であるトロンヘイムに向かうもノルウェー沖を警戒していたイギリス軍の哨戒網に捕捉されてしまう。6月12日深夜、20機の英軍機が雷撃を仕掛けてきた。600m以内に接近した敵機は魚雷を投下。新任の艦長クライッシュ大佐は敵機を味方と誤認しており、無抵抗のまま雷撃を喰らってしまう。左推進軸を損傷し、大破。航行不能に陥る。応急修理の結果、午前11時に第二発電機が復旧。駆逐艦に曳航されてスタヴァンゲルを目指した。リュッツォウにトドメを刺そうとイギリス軍は三度の空襲を仕掛けてきた。だが護衛艦艇やリュッツォウの対空砲火に阻まれ、失敗。かろうじて自力航行が可能となり、ドイツ空軍機も救援に駆けつけるなど良いニュースが入ったが、もはや作戦の続行は不可能で、ライプツィヒや駆逐艦に守られながらキールに引き返した。余談だが、この時攻撃してきた英航空隊はリュッツォウの事を「ラワルピンディを沈めた敵」だと思っていた。
- 6月14日午後、辛くもキールに生還したものの、また長期の入渠を強いられ年内は動けなかった。調査の結果、83箇所の穴や亀裂が確認され、装甲デッキでは水路管が破壊、魚雷の隔壁は酷く穿たれていた。探照灯は電力を断たれて全て稼動せず、砲撃用の指揮伝達システムも使用できない満身創痍状態であった。
- リュッツォウ入渠から数日後の6月22日には独ソ戦が開幕し、東部戦線が構築された。しかし「レニングラード奪取まではバルト海での作戦を控えよ」との総統命令が出ていたため、海軍の出番は少なかった。
- 修理中の9月7日から10月24日にかけてキールには4回空襲が行われている。9月17日、レーダー提督とヒトラーの月例打ち合わせが東プロイセンの総統本営で行われた。先のビスマルク沈没でショックを受けたヒトラーは、リュッツォウとアドミラル・シェーアを喪失する事を酷く恐れていた。このため会敵する可能性が高い大西洋への出撃が拒否され、ノルウェーに回航するよう命じた。戦艦に対して拭えない不信感を抱いていたヒトラーは、ゆくゆくは解体して、陸上砲台に転用しようと考えていたようである。まさかの発言にレーダー提督は驚いたが、何とか平然を取り繕った。
- 1942年1月17日、戦列に復帰。翌18日、キールを出港してゴーテンハーフェンに入港したが、海が分厚い氷に覆われてしまい、スクリューを損傷する。氷が解ける4月頃までリュッツォウは満足に動けなかった。4月2日にレーダー装置を積む予定が天候のせいで10日に延期されてしまった。4月21日、レーダー提督がリュッツォウを視察。東部戦線の夏季攻勢を支援するべく、5月15日にキールを出港。ノルウェーに向かった。この方面はイギリス軍の哨戒が厳しく、敵の威力偵察や潜水艦の出現が確認されていた。だが幸運を持っていたリュッツォウは攻撃を受ける事無く、四日後にトロンヘイムに到着。魚雷防御網に囲まれて停泊した。5月24日、ナルヴィク近辺のボーゲン湾に回航。ヒトラーは、イギリス軍が襲来するとすれば先ずノルウェーに来ると睨んでいた。このため大型艦の殆どをノルウェーに集結させるよう命じていた。ノルウェーにはアドミラル・ヒッパーやティルピッツ、妹のアドミラル・シェーア等が停泊しており、リュッツォウもイギリス軍を睨みつける戦力に加わった。
- 6月3日、第二戦隊の旗艦となりアドミラル・シェーアと訓練。同月27日、スパイからの情報でPQ17船団の出港を確認。これを攻撃すべくレッセルシュプルンク作戦が発令された。7月3日、援ソのPQ17船団を狙ってナルヴィクを出撃。しかし午前2時45分、霧が濃いストルボーエン灯台沖で座礁事故を起こし、中破。何も出来ないまま反転し、攻撃を空軍やUボートに譲っている。敵船団が分散した事により、結局水上艦は一発も発砲する事無く撤退。士気を大きく下げる結果となった。7月9日、応急修理のためトロンヘイムに入港するが、座礁で生じた傷からディーゼル燃料が漏洩。食い止められるまで海を汚染してしまった。一ヵ月後、トロンヘイムを出港して南下。
- 独ソ戦開幕により、ドイツはカフカス油田から重油の供給を受けられなくなった。代わりに同盟国ルーマニアのプロエシュティ油田を頼ったが、産油量が低下。このため海軍は慢性的な燃料不足に悩まされる。ディーゼルエンジン搭載のリュッツォウといえど状況はさほど変わらず、主役は費用対効果が比較的良好な潜水艦にほぼ奪われていた。一方で水上艦の中ではまだ動かしやすい方ではあり、ノルウェー方面では貴重な戦力であった。
- 8月12日、シュヴィーネミュンデに回航され修理。空襲警報が発令されていたが、気にする事無く港内で試験航行を実施している。同月28日からキール工廠で本格的に修理。
10月30日に修理完了。11月9日、アルコーナ岬で訓練を行う。12月8日、ゴーテンハーフェンを出港。再びノルウェー方面に進出したが、その道中でイギリス軍の空襲を複数回受けた。しかし損傷は無く、12月12日にボーゲン湾へ入港した。
- 12月30日、レーゲンボーゲン作戦に参加。同日午後6時、駆逐艦6隻やアドミラル・ヒッパーとともにアルテンフィヨルドを出港。幸運に恵まれれば、ヒトラーに戦果という新年祝いを贈れそうだった。想像を絶する寒さと、吹き荒れる霰が極夜の海上を支配し、視界はゼロに等しかった。先行するUボートからの情報を頼りに、目隠しの航海が続く。だがこの悪天候は、意外にもドイツ艦隊に味方した。イギリス軍はドイツ水上艦隊の位置を察知できず、戦艦を含む強力な間接護衛部隊は別方向を警戒していたのだ。J5W1B船団をバレンツ海で捕捉し、アドミラル・ヒッパーとともに攻撃。バレンツ海海戦が生起する。ヒッパーとリュッツォウはそれぞれ3隻の駆逐艦を率いて二手に分離、挟撃を狙った。ドイツ艦隊には「相手が優勢なら退避し、危険を避けよ」という命令が出されていた。これが攻撃の自由を奪った。先にヒッパー隊が敵船団に接近、護衛の駆逐隊と交戦する。午前10時45分、リュッツォウ隊は閉ざされた視界の中で敵味方不明の船舶を発見。その正体は他でもないJ5W1B船団であった。護衛はヒッパー隊に向かっており、手薄な状態だった。今ここで攻撃を仕掛ければ血祭りに上げられたが、相手の正体が掴めないとしてリュッツォウ隊は後退。せっかくのチャンスを自ら捨ててしまった。艦長シュテング大佐の用心深さが裏目に出た。ヒッパー率いる駆逐隊と南北から挟撃しようと試みるが、敵の増援が到着し戦況は不利になりつつあった。午前11時49分、クメッツ司令は海域からの撤退を命じた。視界不良にも祟られてリュッツォウの砲撃は終始不正確で商船一隻を損傷、護衛の駆逐艦オブデュリトを大破させただけに留まった。船団は商船を失うことなくムルマンスクへ入港し、作戦は失敗に終わったのだった。
- この敗北によりヒトラーは激怒。水上艦の解体命令を下した。いわゆる処刑宣告である。レーダー提督は更迭され、代わりにデーニッツ提督が後釜に座った。Uボート畑のデーニッツ提督だったが、水上艦の価値も理解しており、解体命令を撤回させるべくヒトラーと対決した。ちなみにリュッツォウを空母化する案が浮上。工事の期間は推定2年とされ、2000トンの鋼材と400名の人員を投入する予定だったが、実行されなかった。
- 1943年1月3日、吹雪に閉ざされたナルヴィクに帰還。記録的な猛吹雪により一時的に本国との連絡が途絶えた。その後、ボーゲン湾とカーフィヨルド間を不規則に行き来し、連合軍の航空偵察を混乱させた。2月15日、ベルリンのホテル「アドロン」のロビーに座っていたティーレ提督は、レーダー提督の後任者デーニッツ海軍総司令官と謁見。ヒトラーに潰されそうになっている大型艦リュッツォウ、シャルンホルスト、ニュルンベルクの今後について討議した。その結果、両者ともにイギリス軍への威圧のため残しておきたいと意見が一致。1月26日、後任のデーニッツ提督が必死に訴えかけた結果、ヒトラーは水上艦の解体命令を撤回。何とか死は回避された。代わりに練習艦へと格下げとなり、出撃できない日々が続いた。リュッツォウが現役でいられるのは1943年8月1日までとされた。
- 3月14日、ナルヴィクを出港しアルテンフィヨルドに回航。ティルピッツやシャルンホルストとともにイギリス軍に威圧感を与えた。ドイツの大型艦がノルウェーに集結している事から、夏の間は援ソ船団の運行を取りやめている。6月23日、北部方面艦隊のシュニーヴィント司令とクメッツ提督がリュッツォウに来訪。その後、ティルピッツと合同訓練を実施している。7月5日、アルテンフィヨルドに停泊する全戦闘艦が一斉に訓練。カラ海での通商破壊が計画されたが、リュッツォウはディーゼルエンジンに不調を抱えていた。これを直すべく7月14日、本国へ帰投するよう命じられる。7月20日、アルテンフィヨルドを出港。キール工廠に入渠し修理を受けた。完了後はノルウェーへ戻り戦隊に復帰したが、通商破壊の件は流れてしまった。
- 9月6日、ティルピッツやシャルンホルストが投入されたシチリア作戦(スピッツベルゲン島砲撃)を支援するため、後方で撹乱。連合軍の航空偵察を混乱させた。9月21日、ノルウェー北部に居座る脅威を排除すべく、イギリス軍はソース作戦を実施。アルテンフィヨルドに特殊潜航艇「X艇」が侵入し、ティルピッツに爆薬が仕掛けられて中破した。リュッツォウも攻撃目標にされており、敵潜水艦シーニンフに曳航されたX-8号が忍び寄っていた。ところが天運はリュッツォウに味方した。突然曳航索が切断され、X-8号が波間にさらわれたのだ。36時間後に何とか母艦と合流するも、艇内に浸水が発生して右舷に深く傾斜。右舷に積載されていた機雷が水浸しになったため、安全装置をセットして投棄する事に。が、投棄した直後に船尾付近で起爆。左舷の機雷まで水浸しになり、やむなく左舷の機雷を2時間後に起爆するようセットして投棄した。攻撃手段を全て喪失した上、損傷で潜水すら出来なくなったので、艇員をシーニンフに移したのち放棄された。なんともお間抜けな結末である。ちなみにリュッツォウは明日からゴーテンハーフェンに向けて出港する予定だったため、最も外海に近い泊地へ移っていた。どのみち攻撃は失敗する運命にあった。翌22日、アルテンフィヨルドを出港。護衛の駆逐艦4隻とともに南下し、オフォトフィヨルドに寄港。その後、北極圏を通過して28日にクリスチャンサン入港。護衛艦艇の入れ替えを行い、出港。翌日、無事にキールへと辿り着いた。続いてゴーテンハーフェンのリエパーヤ造船所に回航され、10月1日に入渠。翌年2月27日までオーバーホールを受ける。以降、ノルウェー方面に戻る事は無かった。10月9日、アメリカ空軍によるゴーテンハーフェン空襲が行われ、病院船シュツットガルトが撃沈される被害が出るもリュッツォウは逃げ延びられた。
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- 1944年1月に出された総統命令により、リュッツォウはバルト海へ追いやられる事になった。2月27日、出渠。士官学校の訓練艦となりバルト海方面で訓練に励む。主にUボート相手に標的艦を務めていたが、乗組員にとっては退屈なものだった。士官候補生を乗せて、訓練がてらソルバメ半島のソ連軍を砲撃した事もあった。3月11日、戦闘準備完了。3月15日、プリンツ・オイゲンや魚雷艇、Uボート、妹のアドミラル・シェーアとともに大規模な演習を行う。旧式戦艦ヘッセンが標的を務めた。
- 6月、スウェーデンから鉄鉱石を運ぶ輸送船団を護衛。6月9日、連合軍のノルマンディー上陸作戦に呼応して、ソ連軍がフィンランド領に侵攻。前々からソ連と単独講和しようとしていたフィンランドを牽制すべく、6月24日午前7時にゴーテンハーフェンを出港。18時、第2潜水隊群と魚雷艇T-3、T-4、T-12と合流してフィンランド湾で演習。プリンツ・オイゲンとともにフィンランド政府を威圧した。6月27日に二度目の演習を実施。この圧力が功を奏し、リュティ大統領はドイツ軍とともに戦うと宣言。ドイツから武器と増援が送られ、北部方面の憂いが一つ消えた。翌28日、タンネ・オスト作戦に備えてZ36等を護衛に伴って出撃。ウトー島近海まで進出した。フィンランドが降伏した場合、ソ連に占領される前にスールサーリ島を占領する手はずで、リュッツォウはその支援に回る予定だった。が、フィンランドの継戦により作戦中止。7月8日にゴーテンハーフェンへ帰投した。
- 東部戦線では、ソ連軍の一大反攻作戦ことバグラチオン作戦が開始。中央軍集団は総戦力の半数近くを失って西へ潰走。ソ連軍が一気に雪崩れ込む。この危急に、ヒトラーは大いに焦った。そこでバルト海で練習艦をしていたリュッツォウら大型艦に戦闘任務復帰を許可。苦節約1年半、再び戦う機会を得られた。ソ連軍に追われる同胞を救出するため、生き残った艦艇を集めて7月1日に第二戦闘グループを結成。再びアドミラル・ヒッパーと組む事になった。司令官はかつてのリュッツォウ艦長、ティーレ中将であった。7月8日、ゴーテンハーフェンを出港しバルト海を航行。大規模かつ最後の訓練で連携を強化した。そしてリュッツォウ最後にして最大の晴れ舞台が始まった。東プロイセンに取り残された民間人や軍人を救出するハンニバル作戦には、生き残っていた艦艇の大多数が投入された。民間人の救助は他の艦艇に任せ、リュッツォウらは撤退する陸軍の支援に徹した。ヴェルサイユ条約で認められた最大級の主砲を武器に、無数の敵へ挑む事になる。
- 8月9日からは増加する敵機の脅威に対抗すべくゴーテンハーフェンで対空兵装を強化。37mm連装機銃2基や20mm単装機銃を、40mm単装機銃8基、20mm連装機銃6基に交換する。この改装のため、プリンツ・オイゲンが参加した8月20日からの対地支援には参加できなかった。また、40mm機銃は生産遅延のため6基に減らされている。ついにソ連と講和したフィンランド軍は、ドイツ軍を追い出し始めた。9月22日、撤退する味方を支援するためオーランド諸島沖に進出。フィンランド軍を砲撃し、ドイツ兵を守った。砲撃は三日間に及んだ。9月27日、ゴーテンハーフェンの造船所に入渠。40mm単装機銃が2基増設され、予定されていた計8基が揃った。
- 10月9日、メーメル近郊でドイツ第3装甲軍が敗退し、再び北方軍集団と中央軍集団が分断される。北方軍集団はクールラントに追い詰められた。彼らを救うべく翌10日から15日までメーメル方面のソ連軍を砲撃。陸軍による観測支援を受けながらスヴォルベ半島に28cm主砲304発、150mm砲292発、10.5cm砲282発、40mm単装機銃121発などを発射。36時間に渡ってソ連軍部隊を痛めつけた。同時にリュッツォウは撤退する陸軍の指揮も執り、待機している船団の下へ導いた。撤退はダンケルク式で行われ、リュッツォウやアドミラル・シェーアは高角砲や副砲で小型船舶群を援護した。救出された兵員はゴーテンハーフェンに輸送され、再びその力を振るった。
- 10月22日、東プロイセンの街ネンメルスドルフがソ連軍によって最初に陥落した。「ファシストは皆殺しにしろ」という命令の下、この街では虐殺行為が行われた。この事を噂で聞きつけたドイツ国民はパニックに陥り、一斉にダンツィヒへと逃げ出した。
- 11月19日、スヴォルベ半島のソ連軍が本格的に侵攻を開始。独ソの両陣営に分かれて、リトアニア人同士が殺しあう凄惨な戦いが始まった。部隊はローテーションを組みながら砲撃を続行し、リュッツォウは11月23日にアドミラル・シェーアから任務を引き継ぎ、メーメルを包囲するソ連軍の前線を砲弾が尽きるまで撃ち続けた。砲撃の激しさは、8月のトゥクムス砲撃の比ではなかった。容赦の無い砲弾の嵐がソ連軍を蹂躙した。増大する損害に、ソ連軍側もようやく艦砲射撃の脅威を認知。ソ連海軍の砲艦や小艦艇が妨害に現れたが、護衛の第九救難隊の掃海艇や砲艦によって撃退された。ドイツ海軍未だ健在である。弾切れになった後は、アドミラル・ヒッパーとシェーアのコンビと交代。補給に向かった。その後、敵機が飛来して空襲を仕掛けてきたが、リュッツォウは難を逃れた。一連の支援砲撃が結実し、陸軍はメーメルへの撤退を完了。ソ連軍が南端に辿り着いた時には既に誰もいなかった。作戦後、ゴーテンハーフェンに入港。スヴォルベ半島から撤退してきた陸兵から感謝の言葉が掛けられた。また、陸軍のグーデリアン大将からも感謝の電報が送られた。12月18日から数日間、ゴーテンハーフェンを狙った空襲が行われたが幸い被害は無かった。月末、ピラウに回航。
- メーメルは補給と休養を終えたソ連軍の東プロイセン攻勢で孤立したため45年1月末に放棄されるが、守備隊の主力は無事撤退に成功している。
- バルト海の主導権はドイツ海軍にあったものの、既にソ連軍の潜水艦が侵入してきており、住民の間でもその事が噂として広まっていた。開戦以来、グディニア港に係留されていた軍人用の宿泊船を投入して難民救助に充てたが、何隻かは敵潜水艦の無慈悲な雷撃の餌食となった。
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最後の戦い
- リュッツォウは1945年の年明けを、東プロイセンのピラウで迎えた。ピラウにはドイツ海軍の拠点があったほか東プロイセンの中心都市であるケーニヒスベルクの外港にあたり、ドイツ本土へ脱出しようとする避難民で溢れていた。長者の列を作る難民に、容赦なくソ連軍の砲撃が襲い掛かる。悲鳴を上げて逃げ回る彼らを、ただ見守ることしか出来なかった。リュッツォウはプリンツ・オイゲンやアドミラル・シェーアなどとともに、ピラウを経由しての避難の時間を稼ぐため東プロイセンでの対地支援に従事することとなる。1月中に沈没したティルピッツの生存者約200名が、リュッツォウへと移送されている。1月20日、東プロイセンの防衛線を50マイルに渡って突破される。
- ソ連軍の攻勢は留まるところを知らず、メーメルへと押し寄せた。リュッツォウは、どの野砲よりも強力な主砲で第1バルト正面軍戦車部隊を粉砕。メーメルを数週間持ちこたえさせる。正確かつ強力な砲撃が赤き敵を押し留めたが、津波のように押し寄せる敵を釘付けにする事は叶わなかった。奮戦むなしく1月28日にメーメルは陥落。次にダンツィヒの防衛を命じられる。脱出拠点となっているピラウにソ連軍が迫り、長蛇の列を作る難民に砲弾が襲い掛かる。寄港していたリュッツォウとアドミラル・シェーアは時間を稼ぐため、砲撃。放たれた砲弾はピラウの町を飛び越え、ソ連軍部隊に降り注いだ。
- 2月8日、魚雷艇T8、T28、T33に護衛されながらフランエンブルク=エルビングの間でソ連軍の最前線を攻撃。2月19日には再びピラウへ寄港し、迫り来るソ連軍部隊を砲撃している。3月3日、作戦海域をシフィノウィシチェ沖に変更。3月6日にシュヴィーネミュンデへ入港。弾薬と燃料の補給を終えるとすぐに前線へ復帰した。3月23日にはゴーテンハーフェンとヘラ半島の対地支援に従事。ダンツィヒに迫るソ連軍をプリンツ・オイゲンとともに砲撃。かなりの戦果を挙げたものの、ダンツィヒは3月30日に陥落した。
- 続いてゴーテンハーフェンを包囲するソ連軍を砲撃。この街には無数の負傷者、軍人、婦人、子供が取り残されており、退く訳にはいかなかった。リュッツォウは不休で戦った。乗組員も一睡すらせず奮闘。孤立した人々を救うため、ノルウェーから船が手配され、少しずつ安全な場所へと退避させた。水路には見渡す限り商船が投錨。列を成して難民を収容していた。日に数回、ソビエトの爆撃機IL2が飛来したが錬度不足により爆弾は命中しなかった。決死の砲撃はソ連軍の動きを鈍らせ、守備隊に立て直す時間を与えたが、こちらも4月7日頃に陥落。拠点として使えるのはヘラ半島のみとなった。ヘラ半島で孤立した陸軍の撤退支援を行うべく砲撃。ソ連軍の攻勢を退けながら、脱出する兵員を乗せた小型艦艇の護衛に従事。リュッツォウの献身的な砲撃支援により、ハンニバル作戦はドイツ海軍最後の輝きとなった。実に27万以上の市民が東プロイセンからの脱出に成功し、陸軍と海軍の連携をより緊密なものに仕立て上げた。しかし、連戦に次ぐ連戦でリュッツォウは限界を迎えつつあった。砲身はただれ、砲弾も尽きかけていたのである。4月8日、弾薬が欠乏したため補給に戻った。
- 一方で連合国軍もドイツ海軍にとどめの猛攻を加え、4月9日にはシェーアがイギリス空軍の爆撃により戦没。リュッツォウは、ワシントン条約の定義で主力艦となるドイツ軍艦としては最後の一隻となった。連合軍の爆撃は苛烈を極め、毎日のようにUボートが沈められた。そしてその魔手はリュッツォウにも迫った。リュッツォウの奮戦を見たイギリスは、強大な敵を判断。諜報機関に位置情報を探らせ、その所在を把握した。さっそくイギリス軍は、航空攻撃を開始(ソ連軍からポーランド占領の障害であるリュッツォウの排除を依頼されたとも)。4月10日、燃料と弾薬を補給しにシュヴィーネミュンデに入港。敵の雷撃を警戒して、水深の浅いカイザーファールト運河に停泊した。4月13日、イギリス軍のアブロ・ランカスター爆撃機34機が飛来。プリンツ・オイゲンとリュッツォウを狙ってきたが、雲に遮られて不成功に終わる。諦め切れないイギリス軍は気象学者に天気を予報させ、天候が晴れる4月16日を次の攻撃日に定める。
- 難を逃れたのも束の間、4月16日17時15分にイギリス軍第617爆撃機中隊のランカスター爆撃機15機が襲来。この部隊は精鋭中の精鋭で、これまでドイツ国内のダムやUボートブンカー、そして戦艦ティルピッツを破壊してきた猛者だった。護衛の駆逐艦が対空戦闘を始め、猛烈な射撃を浴びせた。1機が撃墜されたが、敵も精鋭。弾幕をかいくぐって、投弾。リュッツォウの付近30mに1発のトールボーイが落下し、至近弾となる。爆発の衝撃で竜骨を損傷、艦底に穴が開いて浸水が始まる。更に2発のトールボーイが前部砲塔と後部砲塔に突き刺さるが、幸運にも不発弾だった。艦内は激しい揺れに襲われ、乗組員の一部が海に飛び込んで岸まで泳いだ。様々な場所から絶叫や悲鳴が上がり、動ける者は上甲板に避難し始めた。船体は左舷へと傾斜、艦首を水上に突き出しつつ艦尾が水没した。ダメージコントロール要員と対空要員を除いて、乗組員は総員退艦。続いて第二波のランカスター18機が襲来。15分間に渡って爆撃を仕掛けていった。この空襲でリュッツォウは大破着底。身動きが取れなくなる。大破着底の報はベルリンにも届き、在独日本大使館員の新関氏は「袖珍戦艦リュッツォウ号撃沈さる」と日本に報告している。4月16日の時点でポーランドにおけるドイツ軍の勢力圏は、僅かシュヴィーネミュンデとその周辺を残すのみ。それ以外の戦線では既にドイツ国内への侵攻が始まっており、多くの避難民や敗兵がシュヴィーネミュンデに集まっていた。
- 翌17日、第二戦闘グループの司令ティーレ中将がアラド水上機で来訪。リュッツォウの損傷具合を視察し、いずれ起こるであろうシュヴィーネミュンデ防衛戦にリュッツォウを投入できるかどうか尋ねた。当日の報告によれば死者7名、行方不明者14名、負傷者13名だったという。4月19日、第2白ロシア戦線が攻勢に出る。残された時間は少ない。4月22日に着任した新艦長ランゲ中佐の指示により船体の応急修理が行われ、生じた破孔は多数の材木で塞いだ。工作艦の手で2発の不発弾が取り除かれ、救難船の助力によって左舷に傾斜していた艦体も復元。だが機関室が水没していたため、機関要員は任を解かれた。トールボーイが突き刺さっていた前部主砲の応急修理が完了し、同日中に試験砲撃を行った。一方で後部主砲は最早使い物にならなかった。不断の努力により、27日には一台の発電機が再稼動。どうにか前部主砲と副砲群が使用可能になった。これがリュッツォウの全武装だった。
- 4月28日午前4時、パーゼヴァルクの防衛線が破られ、ソ連軍がシュヴィーネミュンデに進入。早朝に警報が鳴り響き、リュッツォウ最後の戦いが幕を開けた。数多の戦車隊や歩兵部隊が堰を切って雪崩れ込んでくる。対するリュッツォウは生き残った砲で砲撃を行い、突入してきた敵の重戦車を次々に破壊。市街地の占領を許さなかった。砲撃は突入部隊に留まらず、後方のシュチェチンにあった重戦車をも破壊。ソ連軍の将兵にはV1飛行爆弾が撃ち込まれたと考えたものもいたと言われる。射程距離30kmの長大な砲が咆哮を上げ、赤き津波を押しとどめる。翌29日、シュチェチンに侵攻した砲兵部隊が砲撃の餌食となった。4月30日、リュッツォウから対空砲が取り外され、要員とともに陸上戦闘へ送られた。また273名の乗員が小型貨物船で西方へ撤退した。28cm主砲で盛んに砲撃し、実に350発もの砲弾をソ連兵に撃ち込んだ。ヒトラーが自殺した後も戦い続けていたリュッツォウであったが、5月1日夜に発電機で火災が発生。砲塔が沈黙してしまう。砲員が慌てて弾薬を転がし、火元から離す。しかし対空機銃の弾丸が誘爆し、弾け飛ぶ。鎮火は困難とされ、ランゲ中佐は総員退艦命令を下す。乗組員は艦から脱出し、付近の林へ逃げ込んだ。退避が完了した頃、主砲弾に引火して激しい爆発音が轟いた。次々に弾薬が引火し、連鎖的に爆発が生じる。甲板に散らばっていた砲弾にも飛び火し、使う予定だった弾薬は火炎の渦に飲まれた。
- 5月2日朝、炎に焼かれたリュッツォウの船体は黒く焦げていた。煙突から薄い煙を吐き、各所で炎が燃え盛っている。特に艦首の火災が激しかった。上部構造物は張り裂け、ひん曲がり、電気回路も焼失。これにより前部主砲が使用不能となってしまった。脱出した乗員はモーターボートでシュヴィーネミュンデに向かったが、徹底抗戦を命じられ艦に戻った。5月3日朝。不思議な事に、激しかった火災は自然と鎮火していた。最後まで戦いたいというリュッツォウの意志が感じ取れる。既に主砲弾は底をついていたが、依然使用可能な副砲を以って抗戦を再開。既に首都ベルリンが陥落していたが、死闘は続いた。死にゆく祖国のため、死力を尽くして戦うリュッツォウ。だが5月3日深夜、とうとうソ連軍が目と鼻の先にまで迫った。敵が持つ機関銃の射程圏内にまで肉薄されたのだ。22時15分、ランゲ中佐は船体の鹵獲を防ぐため爆破処分を決意。主砲身は余っていた装薬で破壊され、船体にも余っていた弾薬やイギリスの不発爆弾といった爆発物が集積された。その頃、水位が急激に上昇。水面を漂っていた油に引火し、再び艦上で火災が発生。乗組員の大半が近くの森に避難していたため、消火は不可能だった。
- 5月4日午前0時12分、集積が完了する前に爆発の炎がリュッツォウを包んだ。爆発音は1.5km離れた退却中の小型船にまで届き、今際の悲鳴の如く轟いたのだった。リュッツォウの処分を以ってドイツ海軍の主力艦は全滅。乗組員が退却した後、その日のうちにソ連軍が到達。破壊された甲板上で記念撮影を行っている。爆破処分は行われたが、完全な破壊には至らなかった。奇しくもこの日は、ドイツ軍が降伏文書に調印した日となった。オランダ、北ドイツ、デンマーク、ノルウェーのドイツ軍が降伏し、組織的な抵抗は終了した。ドイツ海軍初の戦艦は激戦を戦い抜き、そして一番最後に力尽きたのだった。また、ドイツ海軍が最後に失った水上艦となった。
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- リュッツォウの行方は、戦後しばらくの間は不明とされていた。後年の歴史家が資料を調べた結果、その行方が判明。1946年春、ソ連軍によって残骸が引き揚げられ、ロシア語読みのリュッツオフに改名し、レニングラードへ回航。9月26日にバルト海艦隊へ編入し、モスボール。1947年、第77救助隊がリュッツオフの船体を調査。可能ならば修復して、自軍の補強に充てようと考えていた。全ての対空砲と魚雷発射管はドイツ軍によって撤去されていた。艦内には弾薬やディーゼル燃料が残っていた他、生々しい爆発跡が五箇所確認された。ダイバーによって船底の調査も行われた。後方の機械室が水没していたため、破孔を塞いだ上で排水用のモーターポンプを使用。リュッツオフは浮揚された。
- その後も調査が続けられたが損傷の度合いが激しく、1947年7月20日に修理不能と判断される。ソ連は標的艦として海没処分する事に決め、リュッツオフは破氷船に曳航されてレニングラードを出発した。7月22日、バルト海で爆弾の標的艦にされた。艦内に爆弾が仕掛けられ、その爆発効力を調査するというのが目的だった。艦橋基部に設置された250kg爆弾は装甲や測距儀を破壊し、艦橋を損傷させたが、前後の主砲身の下に設置されていた100kg爆弾は不発だった。2度目の実験では前部主砲の下の爆弾が250kg爆弾に変更され、爆発の結果火災が発生した。しかし後部主砲の100kg爆弾はまたしても不発だった。想定より実験に時間がかかるため3度目と4度目は省いて船を沈めることになり、排水ポンプは取り外され、二度分の爆弾、計1.5トンがまとめて設置された。大爆発により浸水が始まり、船体は徐々に海中へ没していった。およそ40分後に完全に水没したのち、搭載されていた対空砲弾の誘爆とみられる小爆発が連続した。対空砲弾庫付近に仕掛けられていた250kg爆弾が全て不発で、それによりリュッツォフはしばらく海面上で持ちこたえることができたのだった。
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