開戦前は大西洋艦隊に配備。1939年9月3日に第二次世界大戦が勃発すると、兄貴分のイギリスを支援し始める。が、1941年12月8日に日本海軍による真珠湾攻撃。
太平洋にも戦線が構築されたため太平洋方面へと進出。1942年3月6日、第11任務部隊に編入され、暴れ回る日本海軍を迎え撃つ。
まず手始めに占領されたラエ、サラモアを空襲。停泊していた軽巡夕張や仮装巡洋艦金剛丸、駆逐艦朝凪を撃破する。5月1日、レキシントンと合流。
5月3日にはレキシントンと別行動をとって、単独でツラギの日本軍に攻撃を加え、駆逐艦菊月と掃海艇3隻を撃沈した。
アメリカは暗号解読によって、日本海軍のポートモレスビー攻略作戦を察知しており、参加部隊の中には有力な空母機動部隊がいることを把握していた。
この時サラトガは潜水艦の攻撃で修理中、エンタープライズ(空母)とホーネットは日本本土へのドゥーリットル空襲の帰りであり、
唯一動ける対抗戦力としてヨークタウンとレキシントンを中核とした第17任務部隊(司令官フランク・ジャック・フレッチャー少将)が派遣されることとなった。
5月7日に生起した珊瑚海海戦にて、敵の空母翔鶴及び瑞鶴と交戦。世界史上初の空母同士の対決となり、日米共に索敵ミスが相次いだものの、
レキシントンと共同で祥鳳を撃沈し、翌日には翔鶴を中破させる戦果を挙げる。しかし敵の攻撃で7日に駆逐艦シムスと給油艦ネオショーが沈められ、
8日にはレキシントンが撃沈され、ヨークタウンも被弾により大きなダメージ受ける。飛行甲板へのダメージは軽微ですぐに使用可能な状態に復帰したものの、問題は至近弾による燃料タンクの損傷だった。
これはドックに入渠しなければ完全修理不可能で、前日の攻撃で給油艦ネオショーも失っていたため、次にいつ補給できるかもわからない状態であり、戦線離脱が決められた。
沈んだレキシントンの乗員を回収して敵の追撃を警戒しながらの撤退となり、途中で燃料が尽きたためディーゼル油まで使い、
トンガタプ入港時にイギリス船から燃料を購入(硫黄か何かの混ざった質の悪いものだったらしい)するなどしてなんとか真珠湾へ帰投する。
この時正規の補給無しでの外洋航海101日という米海軍の歴史に残る記録をつくっており、愛称の「ワルチング・マチルダ」の由来となった。
一方で日本側も航空隊の消耗で敵への追撃を断念していた。
ポートモレスビー攻略も中止となり、連合軍は開戦以来続いていた日本の快進撃を初めて食い止めることに成功した。
帰還後すぐに入渠すると、アメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督が直々に損傷具合の視察に訪れている。
修理には90日やあるいはそれ以上か応急修理なら2週間以内にできるかもしれないという見込みだったが、
この時米海軍は暗号の解読で日本海軍のミッドウェー方面への大規模作戦が近いことを把握していた。
しかしレキシントンを失い、サラトガとヨークタウンが損傷していたため、太平洋で動ける米空母はエンタープライズとホーネットの2隻のみで戦力的には不安があった。
そこでニミッツ提督はヨークタウンをわずか3日で応急修理して出撃させることに決める。
3日間夜通し行われた突貫工事によって船体の穴が塞がれて戦闘可能な状態にはなったが、乗組員に言わせると「いい加減な間に合わせ」とのことで、
ボイラー9基中3基は損傷されたままで、艦内各所でゆるんだり外れたりしていた防水扉にもほとんど手が付けられておらず、水密性が悪化していた。
修理と並行して必要物資の積み込みが行われ、珊瑚海海戦で大きく消耗した航空隊は修理のため下ろされていたサラトガの航空隊などから補充した。
出撃準備の整ったヨークタウンはミッドウェー島へと向けて出撃し、先に出撃していた姉妹達と合流する。
一方の日本海軍では、ヨークタウンと同じく珊瑚海海戦で搭載機を消耗した翔鶴・瑞鶴らのミッドウェー作戦への参加が中止されていた。
これによりアメリカは最悪の場合空母数2vs6という絶望的な戦力差となっていたところを、3vs4にまで縮めることができていた。
また日本海軍は作戦当日になるまで、ミッドウェー方面に現れる敵米空母の正確な数を把握できていなかった。
6月5日のミッドウェー海戦では4隻の日本空母と対峙。事前の暗号解読や基地航空隊との連携、相手の戦力消耗があってなお、数でも質でも不利なことには変わりがなく、ヨークタウン姉妹達にとっても厳しい戦いとなった。
ミッドウェー島の基地航空隊の応戦が終わって、ヨークタウンの攻撃隊より先に敵艦隊の上空に着いたホーネットとエンタープライズの雷撃隊が敵空母に向かうも、戦闘機の護衛が無い状態だったため、
敵の戦闘機隊により戦果を挙げられないまま雷撃機3機だけが残存して壊滅させられてしまった。続くヨークタウンの戦闘機隊と雷撃隊も同じく阻まれ、敵空母に損害を与えられない。
しかし敵の戦闘機隊はこれらの相手に回ったために母艦の上空が手薄となっており、その絶妙なタイミングで到着したヨークタウンとエンタープライズの爆撃隊が、敵空母4隻中3隻にほぼ同時に攻撃を加えた(赤城・加賀・蒼龍の3隻)。
攻撃を受けた空母達は攻撃隊の発艦準備中という、彼らからすると考えられる限り最悪の被弾タイミングであった。
飛行甲板を貫通した爆弾が艦載機格納庫内に積まれていた多数の爆弾や航空燃料に引火し、3空母は激しく大破炎上して行動不能となった。
この時ヨークタウンの第3戦闘機隊は、指揮官のジョン・S・サッチ少佐が考案した編隊空戦術で1機被撃墜に対して5機撃墜という戦果を挙げている。
ミッドウェー海戦が初実戦となったこの空戦術は、後にサッチ・ウィーブと呼ばれ、一撃離脱戦法と合わせて有効な対零戦戦術として導入されていった。
しかし、ヨークタウンも無事ではなかった。生き残った最後の日本空母・飛龍の艦爆隊から攻撃を受ける。
戦闘機隊と対空砲火、艦長エリオット・バックマスター大佐の指揮の下、必死の操艦で応戦するも、珊瑚海海戦での損傷もあり、爆弾3発の命中による火災発生と煙路の破損で機関が停止し、航行不能に。
フレッチャー少将ら第17任務部隊司令部は艦を降りたものの、艦長以下総員必死の応急修理作業が行われ、ヨークタウンは戦闘が可能な状態に復帰する。
その後敵空母の第2次攻撃隊は損傷から回復したヨークタウンをまだ無傷な同型空母と誤認し、再度の攻撃を加えた。
先の損傷で速力が低下していたこともあり、2発の航空魚雷が直撃して艦内に海水が侵入。船体が左舷に傾斜し、機関も停止して戦闘不能となってしまう。
再び応急修理しようにも、傾斜で機関が動かせず、全電力が失われていたため、海水を排出するためのポンプも使えない…という手詰まり状態であった。
また浸水に伴う傾斜によっていつ沈んでもおかしくない状態と判断され、総員退艦の指示が下された。
同じころ、1回目の攻撃を受ける前に飛び立ったヨークタウンの索敵機が最後の敵空母・飛龍を発見しており、この知らせを受けて出撃したエンタープライズの爆撃隊24機が飛龍に攻撃を加え、戦闘不能にした。
この時の爆撃隊のうち14機は、母艦の損傷のためエンタープライズに着艦していたヨークタウンの第3爆撃隊であり、きっちりと反撃することに成功した。
空母4隻の壊滅後、後方に布陣していた連合艦隊司令部は作戦の中止を決定し、日本艦隊の撤退と米艦隊の追撃の後、ミッドウェー海戦は終結した。
米海軍は戦力的に不利な中、航空隊などに大きな犠牲を払いながらも、奇跡的な大勝利を収めることに成功し、以後の戦いで攻勢に転ずることとなった。
翌6日になってもヨークタウンは沈没しておらず、艦長は救助隊を集結。駆逐艦ハムマンを横付けさせ再度復旧作業を開始した。
6月7日、接舷したハムマンからの援助を受けながら復旧作業が行われ、曳航の準備も始められた。徐々に傾斜が回復しつつあったヨークタウンだったが、
日本潜水艦『伊168』に発見されてしまう。
そして『伊168』は複数の駆逐艦による厳重警戒をかいくぐり、発見から8時間後にヨークタウンに向け4発の魚雷を発射。
うち一発はハムマンに直撃し、二発がヨークタウンへと命中。
ハムマンは轟沈し、この際の汽缶の水中爆発や爆雷誘爆の衝撃がヨークタウンの船体底部を損傷させ、皮肉にもその沈没を助長することとなってしまう。
浸水により復旧作業は断念され、翌日遂にヨークタウンは海の底へと没することとなった。
ミッドウェー海戦では姉妹で唯一2度にわたって空襲され、最後は潜水艦によって沈められた最後はやや不幸と言えるかもしれないが、珊瑚海海戦で戦果を挙げつつ損傷を押してまでミッドウェー作戦に参加したヨークタウンの存在は、日米の趨勢を決するのに大きく貢献したと言えるだろう。
緒戦での奮闘したヨークタウンは戦功で3つの従軍星章が贈られ、その名は建造中のエセックス級2番艦(CV-10)に継承された (当初の名「ボノム・リシャール」から1942年9月26日に改名)。
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