艦種別リスト > 扶桑
基本情報 †
プロフィール |
 | 名前 | 扶桑 IJN Fuso |
レアリティ | R→SR |
艦種 | 戦艦→航空戦艦 |
陣営 | 重桜 |
CV | 小清水亜美 |
イラスト | Rain Lan |
耐久 | B→B | 火力 | A→B |
雷装 | E→E | 回避 | D→D |
対空 | D→C | 航空 | E→C |
速力 | 23 | 運 | 13 |
装甲 | 重装甲 |
SD |  |
自己紹介 |
重桜最初の超弩級戦艦、扶桑です。 生まれついた厄(わざわい)を祓うため、妹と同じく日々神々に祈りを捧げ、厄に負けぬよう精進してまいりました。 レイテ沖のあの悲劇だけは絶対に二度と起こさせません。どうかどうかお殿様からもお力添えいただければ幸いです。 |
ステータス |
LV | 好感度 | 耐久 | 火力 | 雷装 | 航空 | 対空 | 対潜 | 装填 | 回避 | 命中 | 消費 |
125改 | 200 | 7832 | 413 | 0 | 214 | 326 | 0 | 143 | 34 | 84 | 13 |
100 | 7431 | 394 | 0 | 205 | 309 | 0 | 136 | 32 | 80 |
125 半改 | 200 | 7832 | 447 | 0 | 0 | 254 | 0 | 153 | 34 | 72 |
100 | 7431 | 425 | 0 | 0 | 242 | 0 | 145 | 32 | 68 |
120改 | 200 | 7658 | 409 | 0 | 211 | 320 | 0 | 141 | 33 | 82 |
100 | 7266 | 390 | 0 | 202 | 303 | 0 | 134 | 31 | 78 |
120 半改 | 200 | 7658 | 442 | 0 | 0 | 249 | 0 | 151 | 33 | |
100 | 7266 | 420 | 0 | 0 | 237 | 0 | 143 | 31 | 66 |
100 | 100 | 6255 | 370 | 0 | 0 | 203 | 0 | 131 | 27 | 58 |
1 | 50 | 1143 | 74 | 0 | 0 | 41 | 0 | 51 | 5 | 20 | 4 |
装備枠 | 初期装備 | 補正(MIN/MAX/全改造) | 最大数*1 |
戦艦主砲 | 356mm連装砲T1 | 100%/130%/165% | 3 |
(改造)戦艦主砲 | - | 165% | 2 |
駆逐副砲 軽巡副砲 | - | 200%/200%/200% | 3 |
(改造)艦載機 | - | 200% | 3 |
対空 | 25mm三連装対空機銃T1 | 80%/80%/85% | 1 |
設備 | - | - | - |
設備 | - | - | - |
艦船技術 |
艦級 | T4 扶桑型 |
解放条件 | 効果 | 技術Pt |
入手 | 【巡戦】【戦艦】【航戦】耐久+2 | +11Pt | +49Pt |
突破MAX | - | +22Pt |
Lv.120 | 【巡戦】【戦艦】【航戦】装填+1 | +16Pt |
スキル名 | 効果 |
 | 砲火制圧 | 戦闘中、自身の火力値が10.0%(20.0%)アップ |
 | 予備攻撃隊(要改造) | 航空攻撃後、航空弾幕Lv.1(MAX10)を発動する。1度の戦闘中に1回しか発動できない |
上限突破 |
初段 | 主砲砲座+1/主砲補正+5% |
二段 | 副砲砲座+2/主砲補正+10% |
三段 | 主砲砲座+1/主砲補正+15% |
主砲攻撃 | 特殊弾幕スキル |
 | - |
大陸版wikiのページ:https://wiki.biligame.com/blhx/
改造 †
総計 | 耐久 +350 火力 +30 航空 +20 対空 +15 装填 +5 主砲補正 +50% 対空補正 +5% 習得:予備攻撃隊 | 戦艦改造図T1 ×17 戦艦改造図T2 ×11 戦艦改造図T3 ×3 空母改造図T3 ×2 艦載機パーツT3 ×60 | 16600 | 85 | ★★★★★ |
改造内容 | 詳細 | 必要な設計図その他 | 費用 | 必須レベル | 必須レアリティ |
艦体改修I | 耐久 +100 | 戦艦改造図T1 ×2 | 200 | 1 | ★★ |
装填強化I | 装填 +5 | 戦艦改造図T1 ×2 | 300 | 5 | ★★ |
主砲改修I | 主砲補正 +5% | 戦艦改造図T1 ×3 | 400 | 20 | ★★★ |
火力強化I | 火力 +10 | 戦艦改造図T1 ×3 | 500 | 25 | ★★★ |
対空砲強化I | 対空補正 +5% | 戦艦改造図T1 ×3 | 600 | 35 | ★★★★ |
対空強化I | 対空 +15 | 戦艦改造図T1 ×4 | 800 | 40 | ★★★★ |
艦体改修II | 耐久 +100 / +150 | 戦艦改造図T2 ×1 / ×2 | 1000/1000 | 50 | ★★★★ |
主砲改修II | 主砲補正 +5% / +5% | 戦艦改造図T2 ×2 / ×2 | 1200/1200 | 55 | ★★★★ |
火力強化II | 火力 +5 / +15 | 戦艦改造図T2 ×2 / ×2 | 1400/1400 | 70 | ★★★★★ |
小計(半改) | 耐久+350 火力+30 対空+15 装填+5 主砲補正+15% 対空補正+5% | 戦艦改造図T1×17 戦艦改造図T2×11 | 10000 | 70 | ★★★★★ |
近代化改修 | 艦種が「戦艦」→「航戦」に変更 習得:予備攻撃隊 主砲砲座-1&主砲補正+20% 装備スロット2が「水上機」に変化 航空攻撃発動可能 | 戦艦改造図T3 ×3 艦載機パーツT3 ×60 | 5000 | 75 | ★★★★★ |
航空強化I | 航空 +20 | 空母改造図T3 ×2 | 1600 | 85 | ★★★★★ |
改造後のキャラ絵 †
改造後ボイス †
+
入手時 | 指揮官様、ありがとうございます〜ううん、改造だけでなく、色々感謝してるんですよ。うふふ、扶桑も山城も、指揮官様に出会えて本当によかったと思っていますよ |
ログイン | 指揮官様、おかえりなさいませ。おみくじでは「今日良いことが起きる」とのことですよ |
詳細確認 | 試してみたいことはいっぱいありますね。例えば山城のようにぴょんぴょんっと……えっ、「刺激的すぎる」…ですか? |
メイン1 | 「扶桑が前向きになった」…ですか?……ふふ、きっと指揮官様のおかげですよ |
メイン2 | まだ悪運に憑りつかれている感じがしますけど、指揮官様と一緒なら、悪運だって幸せによって薄められますよね |
メイン3 | 山城から「姉さまには幸せになってほしい」とよく言われますけど、扶桑はもう幸せになっていますよ。うふふ |
タッチ | お淑やかな扶桑とお茶目な扶桑、どっちがお好みですか? |
任務 | 指揮官様、扶桑も新しい任務にご一緒してもいいですか? |
母港帰還 | 指揮官様、少々お待ちいただけますでしょうか?実は美味しいお料理を作っておいたんです。今持ってきますね |
失敗 | くっ……呪いのせいにしては…ダメですっ! |
着せ替え(春の祝い)ボイス †
+
入手時 | そろそろ姉さまにも新しい衣装を着てほしいって、山城が用意してくれた服です。もうあの子ったら……指揮官様?この装いは……私に似合っていますか? |
ログイン | 指揮官様の最近の運勢は上々ですね。きっとカミさまもお喜びになっているからですわ |
詳細確認 | 指揮官様、一緒にお散歩でもいかがですか? |
メイン1 | 指揮官様、雪が降ったら私の傘にお入りくださいませ |
メイン2 | お返しに山城に服を作ってあげたほうがいいでしょうか……指揮官様、どんな服がよろしいですか? |
メイン3 | 今のような幸せはきっとお祈り……ううん、指揮官様のおかげですね |
タッチ | このプレゼントは指揮官様のために用意したのですよ |
タッチ2 | 指揮官様?いくらお祝いの日でも、こういうことは…! |
着せ替え(モフモフ内助)ボイス †
+
入手時 | こうして部屋着姿で気になる人を心待ちしているなんて…指揮官様と出会ってから、私も随分とかわりましたね。うふふ |
ログイン | 指揮官様。扶桑、お菓子を作りました。お召し上がりになりますか? |
詳細確認 | 指揮官様と一緒にいると、悪運もどこかに飛んでいったような気がします…指揮官様、ありがとうございます |
メイン1 | あ、やだ、もうこんな時間…指揮官様と一緒にいると時の流れが早いようで、山城と買い物にいく約束を忘れるところでした…… |
メイン2 | 指揮官様も花札がわかりますか?蒼龍さんに教えてもらったのですか?じゃあ……一緒に遊びませんか? |
メイン3 | 指揮官様、干した布団はいい匂いがしますね。これで寝るときっと気持ちよく眠れますよ |
タッチ | 一緒にお出かけですか?いいんですか?そうですね……私も指揮官様と一緒に行きたい場所がいっぱいありますよ。ふふふ |
タッチ2 | し、指揮官様…… |
任務 | 指揮官様、任務をこなす時間ですよ。扶桑もご一緒します |
メール | 指揮官様、メールを持ってまいりました |
母港帰還 | 指揮官様、さっきの戦闘は大変だったでしょう?ええ、こちらで横になって、お休みになってくださいね |
勝利 | 指揮官様とともにいる時間は大切な宝物です |
▼好感度系 |
失望 | 指揮官様、扶桑のことをお嫌いになったのでしょうか… |
知り合い | 「デート」という言葉は不思議ですね。指揮官様と知り合って久しいのに、この言葉を聞くと胸がドキドキして… |
好き | 指揮官様、一つお願いが…聞いても笑わないでくださいね?じ、実は明石ちゃんのように指揮官の胸の中で甘えるのにあこがれていますが、中々こう…口にすることができなくて……ええと…… |
ラブ | 指揮官様とこうして毎日を過ごしていると、なんだかふ、ふうふっぽくて……い、いえ、なんでもありません! |
ボイス †
+
入手時 | お初にお目にかかります。あなたは指揮官様でいらっしゃいますね?はい、扶桑ずっとここにお待ちしておりました。 これも何かのお導きです。今後ともよろしくお願い申し上げます。 |
ログイン | 指揮官様、おかえりなさいませ。一つお御籤でもいかがでしょうか? |
詳細確認 | 指揮官様、一緒にお茶でもしませんか? |
メイン1 | 不幸な運命は努力で変えられます。 神々に祈りを捧げると同時に、自身の鍛錬も怠るべきではない……と、私はこう存じております。 |
メイン2 | 山城さえ何事もなく育てていれば満足です。 |
メイン3 | この主砲は火力に特化したもので、発射すると、いつも身体がすごく揺れてしまいます…ちょっと困ります |
タッチ | 指揮官様?こちらにおいでくださいませ、お耳掃除させていただきますね。 |
タッチ2 | あの、これは…! |
任務 | 新しい任務が通達されました。ご確認いただけますか? |
任務完了 | 任務を放置するのはよくはございませんよ。 |
メール | 新しいお手紙です。指揮官様、ご確認を。 |
母港帰還 | 指揮官様、お疲れ様でございます。扶桑のところでごゆっくりお休みくださいませ。 |
委託完了 | 委託組の子たちが戻りました。一緒に出迎えにいきませんか? |
強化成功 | これでもっと力になれます。 |
戦闘開始 | 立ちはだかるものには容赦しません! |
勝利 | そなたたちの魂に故郷の安らぎがあらんことを… |
失敗 | これは……弾薬庫がまた呪いを受けてましたの? |
スキル | 祓い給い、清め給え! |
損傷大 | 神さま、私達を守り給え……! |
▼好感度系 |
失望 | 指揮官様はマガツカミの化身ですか! |
知り合い | 指揮官様は重桜神々にご興味ありますか? うふふ、ご興味がなくても結構ですよ。私、お殿様の分も合わせて神々に祈りを捧げております。 |
友好 | 指揮官様は最近お疲れのようですね…仕事のし過ぎはお体によくございません。 疲れた身体をお祓いいたしますので、こちらにおいでください。 |
好き | 神楽ですか?あれは神前に捧げる踊りですが……そうですね、では指揮官様のために巫女舞の一つでも、いかがでしょう。 他のみんなに見られると恥ずかしいので、どうか二人だけのヒミツとして、ご内密に… |
ラブ | ご存知ですか?実は重桜の巫女たちは神を奉る身ではあるものの、色事に関する制限が特にございません。 むしろ、お社を継ぐ方を探すためにも、夫探しに励むことも……指揮官様、……どうかお聞かせ願えませんか? |
ケッコン | 高砂の尾上の松の相生に立並びつつ玉椿八千代を掛けて、家門広く、家名高く、弥立栄えしめ給へと、恐み恐みも白すーー これで私と指揮官様とは一心同体……不束者ですが、よろしくお願いします。 |
▼特定編成時台詞 |
山城と出撃 | 山城、あまり離れすぎないでね? |
ゲームにおいて †
重桜所属の戦艦。通常海域でのドロップ場所は限られているが、紅染の来訪者の常設によって非常に掘りやすくなった。
旧式戦艦だけに性能は低めだが、近代化改修をすると航空戦艦というオンリーワンな特性を得る。
しかし戦艦の枠組みからは外れてしまうので、状況に合わせた改装が必要になる。
性能 †
妹の山城と並び、同レアリティのユニオンR戦艦組に比べると若干耐久が下がる。
また、対空倍率が80%と駆逐艦並に低いのもやや痛い。
所持スキルは恒常的に自身の火力値を上昇させる砲火制圧。これによりSSR艦並の火力を持つに至る。
同格であるペンシルベニア、カリフォルニアのような突出した爆発力は無い分、安定した高火力を供給する戦艦。
モデルとなった扶桑はやたらと改造の施された艦でもあり、妹である山城と同様に航空戦艦への改造が可能。
改造後の使い勝手は妹とほぼ同じ。副砲が装備できなくなることで前述の長所が消えることもあり、一概に強化されたとは言えない点に注意。
ドロップ場所は155mm三連装砲T3の落ちる6-2、自動装填機構T3の6-3、夕立を求めるなら必ず回る6-4と、入手には困らないだろう。
紅染の来訪者ではイベント限定艦の暁を狙える。
オススメ装備/編成 †
主砲 †
副砲 †
- 152mm三連装砲T3A
榴弾6発の扇形発射。射程が長いように表記されているが、152mm連装砲T3Bと同等。
複数の自爆ボートをまとめて迎撃する事もあるが、拡散範囲がアダとなり、弾丸の間を抜けて来られる事も稀にある。
対空 †
設備 †
- 消火装置T3
6章以降、戦艦榴弾砲による被弾が増えるため、Lv次第ではあると安心。
6章ハードや9章辺りまで敵のレベルが上がって来ると、あるなしで露骨に差が出る。
キャラクター †
好きなもの・こと:甘酒、お掃除
苦手なもの・こと:電子機器、ゲーム
一人称 :私
趣味 :巫女の舞
特技 :不屈
(「びそくぜんしんっ!」)より
6章に入って、ようやくドロップする重桜の戦艦だったが、イベントの常設でかなり緩和された。
和服に身を包んだ、大和撫子を髣髴させる容姿。黒髪には重桜特有の獣耳が生える。モチーフは巫女のようだ。
とある神社から出張してきたようで祈祷まで行っているところを見るに、世にも珍しい女性の神職者と思われる。
(戦前の国家神道では女性は宮司になることが出来なかったが、戦後は解禁されている)
台詞のマガツカミ(禍津神)は、災厄をもたらす邪神を意味する。アマツマガツチではない。膝神のほう。
性格や言動はとてもたおやか。指揮官を立て、奉仕する姿は人間の鑑である。
髪型はサイドテールと思われる。一方で、ファンアートによっては両おさげとして描かれている物もある。
本国版では中共の規制で、名前が魟(エイ)に置き換わる。
- ケッコンセリフにある「高砂の尾上の松の相生に〜」とは祝詞の一文。知り合いで神前式をやる方が居れば聞ける。
兵庫県高砂市にある高砂神社、そして加古川を挟んだ対岸、加古川市の尾上神社にある相生(あいおい)の松の事。
雄株と雌株の幹が寄り添って生える様子から、夫婦円満や和合、長寿、縁結び等の象徴とされる。↑の二社に生えているものは特に有名。
続く「玉椿八千代を掛けて」にもかかっており、砕けて言えば夫婦仲良く長生きして子宝にも恵まれますように、と言っている。ラブセリフに続きド直球投げてる。
2017年12月15日より開始された小イベント「愛と平和の聖夜祭」では、妹にサンタ衣装を薦めている。
12月26日開始の「謹賀新年」イベントでは初詣のためだけになんと姉妹で神社を作ってしまった。高速建造剤のちょっとした応用なのだろうか・・・。
テレビCM「働き方改革」では、愛宕より身長が低い事が判明した。
本人とはまったく関係ないが、キズナアイとのコラボイベント『仮想繋げし共時性』の海域にて、敵に量産型フソウが登場。
これまでの敵ユニットと比べても極めて大型であり、例の艦橋もしっかり再現されている。
見た目は他の敵艦と同様、キズナアイ由来のホワイトピンクな色合いになっていて可愛い。
キャラストーリー「桜流しの日のあとで」 †
扶桑を秘書官に設定し、タップするとキャラストーリー開始。
+
| 任務内容 | 報酬 |
1 | 魚雷天ぷらを5個準備する(消費) | 資金100 |
2 | 任意の艦を10回強化する | 資金100 |
3 | 扶桑を含めた艦隊で出撃し、20回勝利する | 資金100 |
4 | 扶桑を含めた艦隊で3回デイリーチャレンジをクリア | 資金100 |
5 | 扶桑の親密度が100に到達 | 資金100、家具コイン5、教科書T2×1 |
6 | 扶桑を3回限界突破する | 資金100、家具コイン10、改造図T2×1 |
7 | 扶桑のレベルが100に到達 | 資金100、家具コイン10、改造図T3×1 |
※ストーリーは、図鑑→思い出より確認可能
元ネタ †
日本が初めて独自開発した超弩級戦艦扶桑型の1番艦。2番艦に山城がいる。
1903年度計画で建造が決定するも、1910年に日本海軍の師匠であるイギリス海軍が超弩級戦艦オライオン級の建造に着手。
これに対抗するため1911年度計画で設計を変更し、第三号甲鉄戦艦の仮名が与えられる。そして第三次海軍拡張計画に基づき、1911年度予算で建造される。
+
- 既に国内で建造された準弩級戦艦河内型や金剛型などの艦型を参考にして設計し、一部最新技術を導入。日本戦艦では初となる大型模型を使用した実験を経て、建造に着手している。従来の艦とは比較にならないほど巨大な扶桑を建造するため、呉工廠では超巨大なドックを用意。大和型が出現するまで、大きさに不都合しなかったと言われる。
- 1912年3月11日、呉工廠の建造船渠で起工。3万トン級の戦艦を船渠で建造するという世界初の試みであった。ところが国会での与野党対立の余波から建艦予算が削減。更にシーメンス事件の混乱が加わり、建造計画が大きく狂わされている。1914年3月28日、軍艦扶桑と命名され進水。式典には伏見宮が列席。進水を記念して、扶桑の写真が組み込まれた絵葉書が数枚発売されている。呉郵便局では期間限定で、進水記念の消印が押された。8月24日、公試が行われ23ノットを記録する。1914年11月8日、竣工。初代艦長として佐藤大佐が着任し呉鎮守府へと編入される。日本初の超弩級戦艦はこうして誕生する事となった。艦内神社には扶桑も山城も石清水八幡宮から分祀を受けている。また、1934年には伊勢神宮からも分祀を受けている。
- 要目は排水量3万662トン、出力4万6313馬力、速力23ノット。金剛や比叡に載せられていた35.6cm主砲の改良型を6基装備し、前級の金剛型を遥かに上回る火力を獲得した。また、排水量が世界で初めて3万トンを突破。アメリカがニュヨーク級やネヴァダ級を建造していたため、これに対抗するための火力特化であった。計画段階では、三連装砲4基か四連装砲3基を搭載する案があった。帝國海軍が伝統としてきた個艦精鋭主義により、列強海軍の新鋭戦艦を圧倒できるよう特に火力が求められていたのだ。が、交互撃ち方を主砲射撃法として採用していたため連装砲に落ち着いた。艦首はクリッパー型で、両舷にフレアを持つ。船型は長船首楼型を採用。前甲板両舷側面は副砲の射界を確保するため、細くなっていた。魚雷防御の水中防御隔壁を持っていたが、区画が大きかったため防御力に不安があった。羅針艦橋には航海用の武式1.5m測距儀を2基、司令塔には副砲用の武式3.5m測距儀を2基装備。主錨は左右に1基ずつあり、右に副錨1基を持つ。最上甲板は厚さ76mm・幅229mmのチーク材張りだった。水平防御は上甲板が34mm、下甲板が30mmで、ニッケル鋼を使用。舷側防御は水線部が305mm、その上部が203mm、上甲板から最上甲板にかけてが152mm、水線部の下は102mmとなっている。主機はブラウン・カーチス式高中低圧直結蒸気タービン2組、主缶は宮原式混焼水管缶24缶を用いる。イギリス戦艦を手本として建造されたため、厠は英国式を採用。当時一般的ではなかった洋風トイレが設置されたが、仕切りや扉が全く無い仕様であった。この様に竣工時は世界最大で重武装・最速の最高の戦艦である筈だったが、実際に動かしてみると問題が次々と浮上する事に…。
- 青森県三戸郡階上町にある扶桑牧場は、この戦艦扶桑から名前が取られている。その扶桑牧場から輩出され、第四回安田賞(現在の安田記念)の優勝場となったフソウの由来も、戦艦扶桑である。馬主の中村正行氏の親族が扶桑の艦長をしていた事から、そう名付けられた。トラックやバスの製造会社である三菱ふそうも、戦艦扶桑から取られた。
- イギリスが戦艦ドレッドノート…いわゆる弩級戦艦を開発したことにより各国で建艦戦争ともいえる競争が始まった。当時の日本もこの競争に参加し、金剛型巡洋戦艦で得たノウハウを元に超弩級戦艦『扶桑』の建造に成功した。主砲だけは英国製だったものの実質初の国産超弩級戦艦だっただけに、建造当初は大和や長門と同等の期待を持たれていた。
- 1916年5月31日、扶桑が建造されて間もない頃に生起したジュットランド沖海戦によりイギリス戦艦は上部からの攻撃に弱い事が判明。そのイギリス戦艦を参考にして建造された扶桑型は、いきなり弱点が露呈してしまったのである。異説によると英巡洋戦艦クイーン・メリーが装甲板不足で撃沈された事により「超弩級戦艦ではダメだ、ポスト・ジュットランド級だ!」という声が上がり、扶桑型を見限ったとするものがある。第三、第四砲塔の火薬庫で機関部が離れてしまい、出力発揮に支障が発生。後の大改装でも機関の増設が出来ず、24ノット程度で甘んじる結果となっている。とはいえ、仮想敵国アメリカの戦艦群と比べたら速力に勝っていたため、それほど問題視されなかったと言われている。だが前級の金剛型に劣る速力のせいで使い勝手が悪く、後の大東亜戦争では殆ど出番が与えられなかった。また防御面にも大きな不安を抱えており、主砲を分散配置したため全長の約半分が被弾危険箇所というやべー艦に成り果てた。船体にも捻れが生じ、操舵や直進が難しくなる障害が発生。初期設計の稚拙さを露呈する形となってしまった。これらの欠陥により、同時期に建造された列強の戦艦に大きく水をあけられ、失敗作の烙印を押されてしまう。主砲を一斉射した時、砲塔6基を水平に並べた弊害で艦全体が猛烈な爆風に包まれる欠陥もあった。実際、上部構造物や機器が損傷した事もある。しかしこの欠陥は後の近代化改装で改められ、無くなったとされる。のちに艦長に就任する鶴岡信道少将は「実に良いフネになった」と証言している。
- 扶桑型が示した欠陥は教訓となって後続の伊勢型や長門型の建造に活かされていったが、その欠陥は生涯背負っていかなければならなかった。それでも完成当初は新鋭戦艦として大いに活躍。扶桑型の就役に伴い、アメリカは対抗馬としてペンシルベニア級、ニューメキシコ級、テネシー級を建造。建艦競争に火を付けている。
- 1915年9月1日、連合艦隊旗艦の座に就く。12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式では筑波で大正天皇と側近を乗せ、横浜西埠頭に送り届けた。その後、主力艦20隻からなる第一列を率いた。午後12時50分からは大正天皇が乗艦されて御召艦となり、午餐(天皇の食事会)の場を提供した。12月13日、主力中の主力である第一戦隊に編入された。
- 1916年4月9日、佐世保を出港して第一次世界大戦に参加。敵国ドイツの租借地がある中国の沿岸を遊弋。29日に呉へ帰投した。敵になるはずのドイツ東洋艦隊は既に南米を通って撤退しており、本格的な海戦は生起しなかった。8月17日、相模湾で射撃訓練を実施。9月初旬、訓練のため連合艦隊とともに陸奥湾へ回航。当時の写真が残されている。10月1日より連合艦隊旗艦を務める。10月13日、夜間射撃訓練を実施。12月19日、館山沖の試験で23.3ノットを記録した。1917年1月25日、榛名が試験的に運用していた方位盤照準装置を扶桑にも搭載する事に。4月9日、佐世保を出発して中国沿岸をパトロール。
- 1918年2月27日、山城、河内、摂津とともに馬公を出撃。再度中国沿岸を警備。3月3日、佐世保へ帰投。続いて呉工廠に入渠し、8cm副砲を4基搭載。7月22日、暴風が吹き荒れる徳山湾にて、軍艦河内の遭難者を救助するべく兵備品取扱主任主計長代理飯田源三郎が毛布を準備して救難活動を行っていた。しかし強風で毛布9枚が吹き飛ばされ、亡失。飯田主計長代理はこの事を報告し、経理部の秋山衣糧科長が報告書をしたためた。そして11月11日、ドイツが降伏し第一次世界大戦が終結。これに伴って扶桑は予備艦になる。12月1日、呉工廠で修理。1919年4月28日から7月1日にかけて、呉工廠で発電機の修理を行う。8月1日、第一戦隊に復帰。ロシア革命を脅威に感じた日本政府は海軍に「ウラジオストクやソビエト沿岸の警備にあたれ」と命令。任務に従事するため扶桑は8月29日、館山を出撃。ウラジオストク沿岸の警備を実施した。9月27日、小樽へ帰投。10月22日、皇太子殿下が扶桑に来艦。翌23日から始まる特別大演習に参加し、10月28日からは観艦式に参列。1920年8月29日、シベリア出兵を支援するため館山沖を出港。比叡、榛名、伊勢、日向等とともにロシア沿岸を警備。9月7日に小樽へ帰投した。1921年3月3日、欧州へ外遊される裕仁皇太子を乗せた御召艦香取と伴走艦鹿島の見送りを行うべく横浜港を出港。浦賀沖まで追随した。5月18日、出渠する際に20番ブイと接触し損傷。すぐに入渠させられている。8月17日、呉を出港。東シナ海と黄海のパトロールを実施する。途中で金剛、榛名、長門と合流している。8月30日、志布志湾に帰投。
- 1922年2月、ワシントン海軍軍縮条約締結により日本は英米に対し、不利な制限を付けられた。このため現行の艦艇を魔改造する方針を定め、扶桑にも度重なる改装が施されていく事になった。10月7日、呉工廠にて羅針盤艦橋にガラスを設置する工事を行った。12月20日からは主砲の仰角を30度に引き上げ、主砲塔の装甲を15.24cmに増量。ボシュロム距離計とバー&ストラウド製距離計を新たに設置した。
- 1923年9月1日、関東大震災が発生。帝都及び横浜方面が壊滅し、多くの臣民が被災した。横須賀鎮守府長官から救援の緊急電を受け、呉鎮守府は扶桑と第4、第14駆逐隊の増派を決定。乗組員の緊急招集が行われ、燃料や食糧、衣料の積み込みが始まった。呉海軍軍需部はさながら戦時のようだったという。被災者向けの白米と缶詰め3万缶を積載し、9月3日午後0時5分に呉を出港。その道中で大阪に寄港し、救援物資の食糧やロウソク10万本、マッチ1万箱、大阪医大の医療班23名と医薬品、東京出身の海軍兵学校の生徒を乗せて、品川港に急行した。9月6日、現場へ到着。震災により各地で延焼が続き、負傷者が10万人に達し、地震の影響で海底が隆起して入港が難しくなるなど絶望的な光景が広がっていた。だが大型艦の扶桑が見せる威容は、被災者の心を勇気付けた。9月16日、被災したフランス大使館に向けて、食糧品が送られたが若干抜き取られた形跡があった。このため9月20日、扶桑が改めて食糧を輸送。横浜停泊中のフランス艦アルコルに引き渡した。12月1日、練習艦に指定される。
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- 1924年9月6日午前6時、廃艦として砲撃処分される戦艦安芸を曳航して館山を出港。曳航を担当する扶桑、射撃を担当する長門及び陸奥、観測する駆逐艦は最後の奉公をする安芸に登舷礼を行った。野島崎沖へ移動すると、砲撃の準備が始まった。この日の天候は曇天で視界が悪かった。扶桑は晴れ間を探して動き回ったため、予定時刻を過ぎてしまった。ようやく適切な場所を見つけ、16時50分に砲撃開始。標的艦と化した安芸は戦艦長門と陸奥から砲撃を受ける。初弾命中、次々に被弾して安芸は傾斜を始める。危険防止のため、開始から14分30秒後に扶桑は舫綱を切断して退避。安芸は沈没し、貴重なデータをもたらした。9月下旬から10月中旬にかけて、青軍と赤軍に分かれた対抗演習を実施。扶桑は御召艦として演習を見守った。12月1日、横須賀工廠で近代化改修を受けた。マストの改修・無線機能強化に伴う艦尾の延長・主砲指揮所や観測所の増設が行われている。この時に砲塔上へ滑走台が装備されたらしいが、すぐに撤去された模様。写真が残っておらず仔細不明。山城と違って本格的に航空機を運用する事は無かった。1925年2月22日に出渠。
- 1925年3月30日、山城、日向とともに佐世保を出港。秦皇島方面をパトロールし、道中で霧島と合流。4月4日、旅順に戻った。5月1日、高松宮宣仁親王が扶桑に配備。1年間勤務した。11月12日、呉に停泊しているところにアメリカ海軍のフランツ・B・メレンディ少佐が乗艦している。1926年3月30日、中城湾を出港。長門率いる第一艦隊の一員として、4月2日にアモイへ入港。乗艦していた高松宮殿下がアモイに上陸し、御遊覧している。4月5日に馬公へ向けて出港。基隆を経由して舟山列島を航海し、4月26日に寺島水道に帰投した。1927年8月10日、御召艦山城の供奉艦として同行。連合艦隊の戦闘射撃及び爆撃実験を観覧した。10月30日、横浜沖で挙行された大演習観艦式に参列。第一列に連なった。1928年、昭和三年度軍艦扶桑写真帖が作られた。いわゆる写真集で非売品。ちなみに一度限りの発行ではなく、年度別に作られている。4月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列。去年同様に第一列に連なった。
- 構造的欠陥を解決する為、再び1930年と1934年に二度の近代化改修が施された。1930年4月12日、第一次改装が横須賀工廠で開始された。バルジの増設や機関部の改修、使用砲弾を八八式から九一式に変更し装填装置を改良、砲塔上面装甲厚を150mmに強化する等の改良が行われた。また、煙突は1本にまとめられ防雨対策を施している。水中防御も強化され、舷側水線部にバルジを装着した。弾薬庫や機関室上の防御装甲には51?〜102?の甲板が追加された。更に厚さ64?〜76?の縦隔壁を新設している。1931年1月13日、改装用推進器水槽試験を受ける。1932年9月26日からは呉工廠が工事を担当。まず連装高角砲と機銃が増設された。機関にも手が加えられ、主機を艦本式ギアード・タービン四基に、缶をロ号艦本式専焼缶四基、ハ号艦本式専焼缶二基の計六基に換装。出力を7万5000馬力に底上げし、速力が24.5ノットに微増した。重油搭載量は5100トン、航続距離は16ノットで1万1800海里に増大。改装戦艦の中では最も長大な航続距離だった。上部構造物も近代化され、前マストが改修されている。主砲の仰角が43度に引き上げられ、副砲も仰角30度にまで引き上げている。これにより1万5000m以上の砲撃戦が可能となった。1933年5月に工事完了。大改装により排水量は3万4500トンに増加した。この頃は満州事変や上海事変、米艦隊のハワイ集結等により日米関係は一触即発の状態だった為、すぐにも出撃できるよう工事は切り詰められて行われた。
- 1933年6月1日、増減速装備を新たに搭載。8月25日、横浜沖で挙行された大演習観艦式に参加。第五列に連なった。10月4日、榛名から電気冷蔵庫1個を受領。翌5日には缶外部掃除用蒸気噴射器を装備。10月19日、工作機械装備を換装すると同時に第三、第四号缶遠距離水面計装備を搭載する。12月20日、機械室清水取入管装置の一部を改造。1934年1月24日、日本光学工業株式会社の社員が見学に訪れる。8月18日、呉工廠で電動機付電気溶接器を装備。25日、株式会社北辰電機製作所の人員が扶桑に便乗する事に。九一式探信儀の機能低下の原因を探るためであった。調査中、扶桑は横須賀を出港。室蘭へ向けて航行した。
- 1934年9月16日、第二次改装が開始。この改装は扶桑のみに実施され、防御面の改良・主機の改装・主砲仰角の引き上げ・航空兵装の追加・射程距離増大・艦尾を7.3m延伸する等の改良を受けた。この時の改装で扶桑の艦橋がジェンガの如く積み上げられ、あの特徴的な姿となった。防空指揮所や見張所、測距儀を続々と備え付けていったため見ている方が不安になるほどのアンバランスな艦橋となってしまっている。一方、妹の山城はすらりと伸びる艦橋となっており、見分け方は容易である。高さは50m以上。もはや海に浮かぶ高層ビルである。さすがに海軍側も不安になったのか、重心査定公試を行っている。何故このようないびつな形にしたのかと言うと、艦橋を挟むように第二、第三砲塔があるため横に拡張する事が出来ず、上へ積み重ねる方法しか取れなかったからである。致命的な設計ミスが生み出した船上の高層ビルと言えよう。改装の結果、最大速力は24.7ノットに微増。戦艦の枠組みであれば決して低速ではないが、運動性には問題があり、大きさの割に旋回圏が広く、転舵による失速も大きく、艦隊運用では
問題になったと言われる。1935年2月19日、工事完了。ここまで大規模な改修を行っても根本的な解決には至らず、その後も大小の改修工事を受けた。強烈な見た目だが臣民からの人気は高く、国民的人気のあった長門型に次ぐ大人気っぷりだったと伝わる。1935年10月11日、呉工廠で雑用石炭庫を機関科主倉庫に改造。同月19日、後部注排水管制所隔壁及び防音装置を新設。25日からは飛行科倉庫通風装置の改正工事を実施。
- 1936年2月12日、呉工廠で海面台間伝声管を新設。2月14日、宿毛湾で演習中に航空事故が発生。飛行長の川崎大尉が事故死している。2月22日、兵員烹炊室装置の一部改正のため、ハ六斗炊綱板製三重釜を一個増設する。予算は550円(当時)であった。2月26日、二・二六事件が発生。陸軍の青年将校率いるグループがクーデターを起こし、要人らが襲撃を受ける。更に首相官邸、警視庁、国会議事堂など帝都の要所が次々に占領され、雪が降りしきるなか混乱状態に陥る。この事態を受けて、昭和天皇は鎮圧を命令。扶桑は第一艦隊に所属して、17時に宿毛湾を出港。東京湾のお台場沖に展開。反乱が鎮圧されない場合は国会議事堂を砲撃する予定だったという。だが29日に反乱軍が降伏した事により事件は終息した。10月29日、神戸沖で挙行された特別大演習観艦式に参加。東第一列に連なった。11月12日、測深儀室、転輪羅針儀室、中部発電機室等通風装置の改正工事を実施。1937年10月23日、呉工廠で潤滑油格納庫の改正工事を受ける。12月30日には溶接工場及び鋳物工場排気装置を新設している。
- 1939年12月15日、予備艦となってまた大規模な改修を受ける。応急注排水装置や舷外電路・機銃射撃装置2基などを搭載し、新鋭の零式水上観測機を装備。またそれを運用するために左舷へ電動式クレーンを導入し、防空指揮所も新設された。1940年、出師準備発令に伴って航空兵装を艦尾へ移設。1940年12月から翌1941年1月にかけて、新兵が艦務実習のため乗り込んだ。厳冬の中、新兵たちは係留されている扶桑の甲板を清掃する。陸の水や井戸水を使ってモップをこするのだが、あまりの寒さに水はすぐ凍ってしまう。ゆっくり動かしているとモップまで凍ってしまう始末である。更にその上を裸足で歩かなければならず、新兵の辛い思い出となっている。
- 1941年4月、開戦直前のこの時期に全ての工程が完了する。8月18日、海兵団より新兵約100名を迎え、約一ヶ月間の三等兵教育が始まった。10月中旬、別府湾で航空機の標的艦を務める。これは真珠湾攻撃に向けた訓練だった。陸岸から500m離れた所に停泊する扶桑に、魚雷の沈度が12m以内になるよう投射する雷撃機。真珠湾攻撃の肝となる雷撃訓練は何度も繰り返された。魚雷の発射訓練が終わると、扶桑からボートが発進し日没まで魚雷の回収作業を行った。10月16日から24日にかけて呉工廠に入渠し、応急注排水装置の装備やバルジ内への水密鋼管の充填、磁気機雷対策の舷外電路の装着を実施して戦備を整えた。まだ課題は残っていたが、大和型戦艦や翔鶴型空母の建造で、扶桑に回せる予算が最早残っておらず、欠陥を残したまま出師せざるを得なかった。11月3日、呉軍港へ回航。危険物や内火艇、私物に至るまで不要なものを陸揚げする。乗組員は、毎日弾薬に信管や傅火薬を付けて常時発砲できるように準備をした。
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1941年
- 1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。その引鉄となったハワイ作戦(真珠湾攻撃)の支援の為に午前8時30分、山本五十六長官直率で柱島を出撃。戦艦と基幹とした主力艦隊とともに活動する。これは味方空母が損傷していた場合、敵が追跡してきた場合に備えるための出撃だった。豊後水道を警戒航行しながら通過し、太平洋に進出。開戦日の昼食頃に全空母が無傷で作戦に成功したとの情報が入った。翌9日より速力を14ノットに落とし、針度90度に変針した。午後4時、母島の南40浬に到達。しかし低気圧の影響で雨となり、視界不良に陥る。おかげで父島航空隊の哨戒機が主力艦隊と敵と誤認する一幕があった。母島南方で敵潜水艦を発見攻撃したとの報告が入り、緊張が走る。これを攻撃するため主力艦隊も捜索に参加。交信量から察するに敵は4隻いると判断された。夜間収容のため鳳翔と駆逐艦3隻が艦隊から分離したが、無線封鎖の影響で所在不明となる。12月11日朝、鳳翔が遠く離れた場所にいる事が確認された。主力艦隊は機動部隊の帰投に支障が無いと判断し、12月11日午前6時に反転。柱島へ引き返した。12月13日、柱島へ帰投。機動部隊の帰投場所を秘匿するための狙いも含まれていた。乗組員の功績評価は「甲功労」とされた。
- 扶桑は低速かつ老朽艦である事から最前線に出されず、少尉候補生や訓練生に実習の場を与える練習艦として運用された。このためか戦艦でありながら磨耗した砲身の交換が行われなかった。同時に南方作戦の全支援を実施している。停泊しているにも関わらず乗員への上陸許可は下りず、しばらくは艦内に押し込められる形となった。
1942年
- 敵の通信を傍受したところ、真珠湾の敵機動部隊が出撃の予兆を見せた。このため2月7日、内地に残っていた艦艇で迎撃部隊を編成し、小笠原諸島沖で迎え撃つ計画が立てられた。扶桑も戦艦伊勢、日向、山城、軽空母瑞鳳、鳳翔等とともに迎撃部隊に加えられ、敵の襲撃に備えた。しかし2月10日に襲撃の危機は去ったとして迎撃部隊は解散された。2月21日から25日にかけて、呉工廠で主砲身の交換を実施。3月5日、東京に向かう不明機13機を確認した事から扶桑と山城に即時待機命令が下された。3月12日、通信解析の結果、ウェーク島の北方に敵空母が潜んでいる事が判明。これを迎撃すべく柱島を出撃するが、3月15日に誤報と判明。翌日に伊勢湾に寄港し、柱島まで戻った。3月21日、瀬戸内海西部で長門や陸奥とともに砲撃演習と機動訓練を実施。
- 4月18日、ドゥーリットル空襲が発生。ホーネットから発進したB-25が日本本土が初空襲した。この時、扶桑は瀬戸内海西部に停泊していた。大本営は瀬戸内海に停泊していた警戒部隊に対し、追撃を行う前進部隊の支援を行うよう命じた。これを受けて扶桑は出港し、北東方向を捜索。翌19日、扶桑の艦載機が1隻の不審な貨物船を発見。停船を求める通信筒を落とした。午前10時、扶桑と山城を基幹とするグループが不審船に接近。相手は4761トンのソ連貨物船アンガーストロイであった。第31号哨戒艇が臨検のため兵を送ると、サンフランシスコからウラジオストクに7555トンの砂糖を運んでいる事が判明。敵国からの物資を輸送しているので船体は拿捕され、串本に連行された。扶桑と山城は南東に舳先を向けて捜索を続行したが、敵を発見できず。4月20日に追撃中止命令が下り、4月22日に横須賀に帰投。即日柱島へと回航された。5月5日、伊予灘で砲撃訓練中に日向の五番砲塔が爆発する事故が発生。手傷を負った日向を呉まで護送し、再び訓練に加わった。翌6日、伊勢とともに呉へ戻った。5月19日、外洋での本格的な機動訓練を実施。翌日、派遣勤務員として三浦潤氏が乗艦した。5月23日に柱島へ帰投。その後、ミッドウェー作戦への参加が決定。柱島泊地には73隻の艦艇が集結。世界最大の戦艦大和と肩を並べるように、第二戦隊の伊勢、日向、山城、扶桑が停泊。その外周には魚雷防御用の鉄線の網が張り巡らされ、付近には対潜・対空を担当する補助兵力が待機していた。5月27日午前8時、軍艦旗が掲げられた。主力艦隊に先立って先鋒の南雲機動部隊が次々に抜錨し、豊後水道へと抜けていく。それを甲板の乗組員が帽振れで見送った。数日後には、自分達が出撃する番だ。
- 5月29日午前6時、ミッドウェー作戦参加のため柱島を出撃。山本五十六長官率いる主力艦隊の一員となり、警戒を担当。主力部隊は6月7日に行われる予定の上陸作戦を支援し、米艦隊出現の際は迎撃する役割が持たされた。また空母が被弾・航行不能に陥った際は曳航する役割もあった。6月5日、扶桑と山城はアリューシャン諸島へ向かう。待ち伏せて敗走する敵艦隊を討つ手筈だったが、逆に味方の機動部隊が壊滅してしまい結局作戦中止となる。翌6日、護衛の第二四駆逐隊と合流。母港を目指して退却し始めたが、嵐に遭遇する。風速40mの風と大波に襲われ、駆逐艦は2ノットの速力しか出せなかった。一方扶桑は腐っても戦艦、12ノットの速力で航行する事が出来た。「荒天のため、速力を12ノットに減速する」という旗流信号を掲げ、暴風雨の中でも平然と航行する扶桑と山城。そんな2隻を見て、第24駆逐隊側は羨ましがった。6月7日、嵐は去ったものの戦艦と駆逐隊が離れ離れになってしまう。互いに無線連絡を取り合いながら帰路を辿る。6月17日、何とか横須賀に帰り着いた。
- 6月22日に横須賀を出港し、柱島へ回航。実弾発射訓練に従事した。ミッドウェー海戦で喪った航空母艦を補うために空母へ改造する案が出たが、丁度日向が砲塔爆発事故を起こしていたため伊勢型のみに留まった。結局1943年6月に完全に頓挫し、実行には移されなかった。予算不足と設備不足、そして何より艦の老朽化が大改装を阻んだ原因とされている。9月4日から9日にかけて呉工廠に入渠。どんな整備をしたかについては資料が残っておらず不明。10月28日、周防灘にて射撃訓練。山城、長門、陸奥、伊勢、日向が集結し、中央に瑞鶴を配置して護衛する。敵役の佐伯航空隊が豊後水道から出現し、瑞鶴を守りつつ防空演習を行った。今まで空母が戦艦に守られる事は殆ど無く、時代の主役は戦艦から空母へ移った事を如実に物語っていた。11月15日からは少尉候補生の訓練艦兼標的艦となり、柱島で訓練。内地で待機する扶桑に優秀な士官は充てられず、肺病上がりだったり能力的に問題がある者ばかり乗り込んでいたという。
1943年
- 1月15日、訓練艦の任を解かれる。しかし前線に投入される事はなく、ひたすら内地で停泊する日々を送る。4月1日、再び訓練艦として起用。低速戦艦は使い物にならないが、対空兵装を強化すれば使えるとして予備兵力扱いにし、瀬戸内海西部で待機させる事にした。5月17日(6月1日とも)、鶴岡信道大佐が艦長に着任する。
- 6月8日、霧が深い柱島に停泊していた扶桑。午後12時10分、約1000m右隣に停泊していた戦艦陸奥が突如爆発事故を起こして沈没した。事故を目撃した扶桑は「陸奥爆沈す」の電文を戦艦長門に送信。数分後、「以後、陸奥に関する発信やめ」という緊急電が柱島在泊の全艦艇に送信された。扶桑の鶴岡艦長はただちに「救助艇用意!」と発し、あるだけのボートをまだ浮いていた陸奥後部に派遣、およそ150名の乗員を救い出した。生存者は重油にまみれていたので、彼らには入浴と乾いた服が与えられ、日本酒が振る舞われた。しかし爆発の圧力で臓器をやられている者が多く、翌朝までに100名が死亡した。当初は潜水艦による攻撃が疑われ、潜水艦警報が発令されていたが後に解除された。事故の翌日である6月9日午前、潜水士が到着。扶桑は陸奥の救助本部となった。6月17日16時45分、潜水士によって沈んだ陸奥から艦長三好大佐の遺体が引き揚げられた。そして扶桑に搬入され、同艦の軍医長が検死を行った。死因は爆発で生じたであろう高圧とガスだった。後頭部の打撲以外に外傷は無く、遺体は綺麗だったと浜田潜水士は述懐している。6月25日より通常の業務が再開され、扶桑も訓練を行った。7月初旬、長門とともに航空隊の標的艦となる。7月18日、呉工廠に入渠。二一号対空電探と対空兵装の強化を受ける。同時に戦艦比叡を失った戦訓から、舵機室と舵柄室に対20cm砲弾防御用のコンクリート壁を追加する事に。工期の延長や排水量の増加を避けつつ、コンクリート壁が新造された。更に艦内の火災防止対策としてカーテンや机といった可燃物を陸揚げし、リノリウムを廃止。7月24日、工事完了。
- 8月14日、聯合艦隊電令作第665号によりトラック島への進出を命じられる。8月15日、扶桑が収容していた陸奥の生存者は長門に移乗。翌16日、戦艦山城、長門、駆逐艦初風、天津風とともに柱島を出港。八島泊地に立ち寄り、陸奥の生存者を含む第41警備隊の人員を乗艦させた。8月17日午前8時、ラバウル向け物資を積載して瀬戸内海を出発。長門、大和、大鷹、愛宕、高雄、能代、駆逐艦7隻とともに約1年ぶりの航海を行う。8月23日午前7時45分にトラック諸島へ到着し、筥崎丸に物資を移乗させた。敵軍の新鋭戦艦5隻に対抗するための戦力配置だったが、ここでも扶桑の役割は変わらなかった。航空隊の標的艦として訓練に従事し続けた。9月3日午前5時30分、特設運送艦鶴見が横付けし燃料補給を受ける。午後3時に作業が完了した。9月17日、連合艦隊は総力を結集し、米艦隊に決戦を挑むべくトラックを出港。Z作戦が発令された。しかし扶桑は泊地での待機を命じられ置いていかれる。おそらく鈍足が祟って不参加になったと思われる。10月17日、トラックを狙った敵軍の空襲から退避するため一時的にブラウン島へ進出。危機が去った10月23日、トラックに戻った。10月25日、内地から出発してきた伊勢や山城等がトラック島に到着。運んできた扶桑用の36cm主砲弾を陸揚げした。12月25日、特設病院船高砂丸から治療品5点の補給を受ける。
1944年
- 1944年1月7日、春島東方にて輸送船1隻が沈没。各艦艇に救助の汽動艇派遣の命令が出されたが、扶桑だけ名指しで除外されていた。何でやねん。1月17日、給油船日栄丸が右舷に横付け。三号重油1325トンの補給を受けた。1944年に入ると、中部太平洋方面の戦局は一段と悪化した。1月30日にはアメリカ軍によるクェゼリンへの上陸が始まり、ここが失陥すればトラック島が爆撃圏内に収まってしまう。更に空襲の予兆である敵の偵察機も出現し、もはや安全な基地とは言えなくなって来ていた。ここで古賀連合艦隊司令は新たな防衛線を敷き、トラック在泊の主力艦を退却させる事にした。
- 2月1日、戦艦武蔵や長門、多数の護衛艦艇とともに扶桑はトラックから離れ、パラオへと向かっていった。航海中、対潜警戒は厳重になされた。敵の潜望鏡を発見した事もあったが、実際にはビール瓶だった。扶桑ら主力艦隊が去って行った後、敵軍の本格的な反攻が始まった。ルオット、ナウル、ブラウン、クェゼリンが相次いで陥落し、トラック島も大空襲を受けて再起不能の大打撃をこうむっている。まさに間一髪と言えよう。道中では敵潜パーミットに発見されたが、高速航行していたおかげで敵は接近できなかった。2月4日、パラオ着。ところがここにも敵機動部隊の魔手が迫ったため、パラオを脱出。より安全な東南アジア方面へ移動するが、既に敵潜水艦の跳梁が始まっており、移動中の扶桑を米潜ガーナードとレイに発見されている。2月16日、シンガポールへ入港。2月20日に出港し、リンガ泊地へと向かった。敵潜パファーに発見されたものの、雷撃される前に振り切った。翌21日にリンガ泊地到着、訓練を開始する。2月23日、最後の艦長である阪匡身大佐が着任。2月25日、扶桑が所属していた第二艦隊は解隊。単艦で連合艦隊に所属するという宙に浮いた存在となってしまった。作戦指導案でリンガ残留が決定し、なかなか本土に戻れない日々が続く。3月14日午後、泊地を出港。単艦で訓練に従事する。最前線の南方で作戦行動可能な戦艦が扶桑と長門しかいない心細い状況だったが、翌15日に本土から出発してきた金剛と榛名が合流。とりあえず4隻体制となった。
- 4月3日、扶桑の入渠準備が始まる。4月8日正午、シンガポールに入港。扶桑は既に8ヶ月近くも外地で過ごしており、本来なら内地で整備を受けるのが普通だが、戦況がそれを許さなかった。過酷な外地で過ごす扶桑と内地待機で腐る山城。姉妹の境遇は正反対であった。4月13日、長門と入れ替わりで入渠し、艦底の清掃を受ける。乗組員はシンガポールに上陸して羽を伸ばした。4月19日、息を吹き返した敵東洋艦隊が敵アメリカ軍と協同でスマトラ島サバンを空襲。この危急を受け、シンガポールに停泊している扶桑らに警戒配置が命じられた。幸い敵はリンガ泊地の日本艦隊には気付かず、1日だけの攻撃で引き上げていった。後方のはずのシンガポール方面も決して安全ではなかった。4月27日にシンガポールを出港し、リンガ泊地に戻った。5月1日、投錨したまま応急訓練を始める。翌2日まで続けられたが、準備も訓練も不十分だった。5月5日14時、戦艦大和、長門、扶桑の3隻で合同訓練。陣形運動、夜間射撃、防雷航行、飛行機発艦揚収訓練を逐次実施した。しかし錬度不足が露わになってしまった。5月11日、あ号作戦発令に備えてリンガ泊地を出港。シンガポールから飛来した第936航空隊の対潜哨戒を受けながら、前進拠点のタウイタウイ泊地へ進出した。
- 5月27日、連合軍がビアク島への上陸を開始する。敵のフィリピン侵攻の足掛かりにもなりうるビアク島を死守するため、陸軍第二旅団の増派が決定。5月29日に輸送作戦こと渾作戦が立案され、扶桑はその実行戦力に選ばれた。ようやく実戦の場が回ってきた訳だが、その実態は囮に過ぎなかった。南部フィリピンと西部太平洋の制空権を守るべく、厳しい戦いに赴く事になった。5月30日正午、渾作戦に参加すべく第五戦隊の妙高、羽黒、駆逐艦6隻とともにタウイタウイ泊地を出港。敵潜カブリラとブルーフィッシュに出港の瞬間を目撃されるが、振り切っている。翌31日午前8時57分、今度は敵潜水艦ガーナードとレイに発見されたが、こちらも雷撃される前に逃走成功。敵潜が跋扈する海域を突破し、6月1日にダバオへ到着。青葉艦上で作戦会議が行われた。ビアク島守備隊からの報告によると、敵戦艦3隻が確認されているという。実際には誤報で、実在していなかったのだが扶桑1隻だけでは不利と判断された。特設運送船北上丸より生鮮食品の補給を受け、戦備を整える。扶桑の出現を知った敵軍は潤沢な戦力から米豪混合の第7艦隊を抽出し、差し向けてきた。
- 6月2日23時30分、扶桑は第10駆逐隊の風雲、朝雲を随伴して出撃。輸送船団の囮になるべく行動を開始した。翌3日午前11時、増援の玉田旅団を乗せた輸送船団や駆逐艦、重巡青葉が出撃。霧の中、ビアク島を目指して東進を始める。護衛を務める駆逐艦春雨では、大型艦が参加すると聞いて士気が上がった。扶桑にはビアク島南岸に築かれた敵軍の拠点を夜間砲撃する任務が与えられていた。しかし午前11時、ワクデ基地から発進したB-24爆撃機2機に触接されてしまう。敵はRを連送していた。20時25分、連合艦隊司令部は渾作戦の中止を命令。どうやら敵空母2隻を含む機動部隊が遊弋中という情報が入ったようだ。中止に伴って扶桑と2隻の駆逐艦はダバオに引き返す事になった。6月4日、ハルマヘラ島東方でB-24爆撃機4機の襲撃を受ける。ここで扶桑は初めて砲弾を発射、対空戦闘を行う。B-24爆撃機1機を撃墜し、敵襲を無傷で切り抜ける事が出来た。同日夜、連合艦隊は扶桑と第五戦隊にパラオへ回航するよう命じたが、渾作戦が再開されるという事で予定通りダバオに向かった。6月5日、ダバオ到着。以降、戦況は不利と判断され、大型艦は後方の基地に留め置かれるように。次の渾作戦は高速の駆逐隊のみで行われ、扶桑の参加は1回だけで終わってしまった。6月7日、タウイタウイにて北上丸から食糧の補給を受ける。
- 6月13日午後12時45分、ダバオに給油艦速吸、国洋丸、日栄丸、成洋丸が入港。扶桑の燃料を4隻の給油艦に供出する事になり、30分間の送油が行われた。この補給により扶桑の燃料は無くなり、作戦参加が不可能になる。6月17日、扶桑はダバオの西側にあるマララグ湾に移動。現場で待機が命じられ、サイパンに向かう敵艦隊が出現した時には迎撃をする予定だった。6月19日、マリアナ沖海戦が生起。扶桑が停泊しているマララグ湾に入ってきた輸送船に燃料補給を施す。翌20日、待機命令の取り消しによりマララグ湾を出発し、ダバオに入港した。7月1日午前4時45分、給油のためダバオを出発。護衛には第四駆逐隊の満潮、野分、山雲がついた。道中、ボルネオ島の東で駆逐艦と対潜哨戒機に守られた扶桑を敵潜ロバロに発見され、追跡されている。敵に位置情報を通報されたが大過無く、駆逐艦の威嚇投射で追い払われた。ダバオ基地から飛来した第901航空隊が前路哨戒を実施。その甲斐あって、7月2日16時にタラカン着。7月3日午前7時、扶桑への燃料補給が開始される。ちなみにロバロは扶桑の位置情報通報を最後に消息を絶ち、喪失と認定されている。
- 7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕し失陥。これを受けて軍内部では奪還論が出始めた。特に昭和天皇が奪還に意欲的だった事もあり、具体案が練られた。連合艦隊の参謀こと神重徳大佐は「扶桑型2隻と陸戦隊2000名をサイパン島に突っ込ませ、座礁させたのち固定砲台として運用」という
トンデモ案を提起し、各方面に説いて回った。ところが成功の打算無しと一蹴され、神大佐は一度引っ込んだが今度は大和型を突っ込ませると言い出してきたとか。
- 7月8日午前6時45分、第四駆逐隊に護衛されて出港。激しくなる敵軍の攻撃によりタラカンの維持が出来なくなり、本月を以ってタラカンは実質放棄された。敵の潜水艦が跳梁跋扈する危険な海域を突破し、本土に少しずつ近づいていった。7月14日午前8時25分、扶桑と第四駆逐隊は宿毛湾で仮泊し、随伴の駆逐艦に燃料補給を施した。同日深夜に出発。横須賀を目指す駆逐艦とはここで別れ、扶桑は単独で豊後水道を目指す。しかし翌15日午前1時12分、豊後水道南方で敵潜水艦ポンフレットに捕捉される。浮上したポンフレットは3隻の駆逐艦に護衛される扶桑を確認し、追跡を行う。狙いは扶桑だった。約1800mにまで肉薄され、ポンフレットは雷撃の準備に取り掛かる。あわや絶体絶命と思われた午前3時7分、扶桑から探照灯が照射され、的確にポンフレットを捉えた。続いて主砲が火を噴き、驚いた敵潜は急速潜航。漆黒の海に隠れた。潜航後も執拗に追跡を続けたポンフレットは午前3時33分に6本の魚雷を発射。扶桑側からは3本の雷跡を確認し、全て回避。命からがら窮地を脱した。7月15日、呉に帰港。ほぼ1年ぶりに母港へと帰ってきた瞬間だった。この活動期間の長さは、日本戦艦の中でも随一である。
- 7月22日、柱島に回航された扶桑は日栄丸から給油を受ける。8月2日、呉工廠に入渠。マリアナ沖海戦の戦訓から対空兵装の強化と一三号対空電探の装備を実施。また艦内の火災対策として居住区等からカーテンや木材といった可燃物を陸揚げし、リノリウムも廃止。塗料を剥離して不燃性塗料アートメタルベトンを使用。これに伴って居住区の簡略化が行われた。日常の不便や整備手入れのしにくさを忍んで、下方区画の水密性を強化した。更に赤外線味方識別装置2基、新たに搭載した。8月14日、出渠して柱島に向かった。この姿が最終型になるが、写真や資料が残っておらず歴史家やモデラーを悩ます。8月22日、給油船日栄丸から燃料補給。9月10日、山城と合流し第二戦隊を編成。
- 9月17日、宇品へ寄港し独立混成第二五旅団の兵員2131名を乗せる。彼らは満州北部から北ボルネオに転出される部隊だった。本来なら輸送船で運ぶのだが、シンガポール行きの船が無かったため扶桑へ乗せる事になった。戦艦に乗せてもらい、部隊長を始め兵員は安心していた。夜遅くに宇品を出発し、呉へ回航。護衛を担当する第17駆逐隊の到着を待った。9月23日午前7時、朝霧が包む呉を出港。伴走者は山城だけと寂しい出港だった。乗艦している陸軍の家村部隊の将兵約1200名が、露天甲板に腰を下ろす。彼らは物珍しそうに巨砲や副砲、高角砲に目を見やっている。安下庄で第17駆逐隊の雪風、磯風、浦風と合流し、南東方面へ舳先を向ける。警戒航行序列をしつつ、戦闘訓練を実施した。ところが9月24日午前7時16分、敵潜プレイスは霧の中から出てきた2隻の戦艦を発見。追跡を受ける。午前7時42分、宝島沖南南東の地点でプレイスは魚雷6本を扇状に発射。爆発音5回を聴き取ったが、実際は全て外れていた。安心したのも束の間、9月26日午後12時40分、ルソン海峡を航行している時に潜航中のポンフレットに発見される。対潜哨戒機はいなかったので浮上して追跡を行い、14時34分には肉眼で視認された。しかし扶桑は20ノットの高速航行でジグザグ運動をしており、手出しが出来なかった。16時20分、敵味方不明の潜望鏡を確認したポンフレットは急速潜航。次に浮上した時には扶桑は去っており、攻撃の機会を逸した。やむなく近海を遊弋していた米潜スヌークとコビアに位置情報を通報し、包囲網の形成を図った。だが2隻とも扶桑を捕捉する事に失敗した。9月27日午前5時32分、ルソン島沖で敵潜フラッシャーが出現。雷撃のため接近してきたが、フラッシャーを振り切る事に無事成功している。度重なる敵潜の襲撃を振り切り、9月29日にボルネオのラブアン島に寄港。陸兵の一部を揚陸し、同日中にブルネイへ回航。一晩を明かす。9月30日にブルネイを出発し、シンガポールに向かった。
- 10月2日14時、シンガポールへ入港。現地で1200名の陸兵を揚陸し、雄鳳丸から給油を受ける。セレター軍港に投錨したあと、ジョホールの街に半舷上陸が許された。これが実質最後の上陸だった。10月5日の早朝に抜錨。第17駆逐隊の護衛を受けながらリンガ泊地へ向かった。リンガには夕刻に到着した。夕暮れが迫る泊地には戦艦大和や武蔵の姿があり、これを中心に30隻以上の艦艇が停泊していた。内地と違って燃料が豊富だったため、10月6日から十日間ほど猛特訓を行った。まさに月月火水木金金である。連日、夜戦のため夜に叩き起こされ、朝方まで砲撃訓練を行った。そして日の出と同時に入港した。扶桑と山城は昼夜逆転の訓練を繰り返した。赤道南下の地だけあって、昼間の陽光は地獄のような暑さをもたらした。居住区で休むことが出来ず、若い水兵の殆どが重度の皮膚病を患った。10月17日、スルアン島の海軍見張り所から緊急電が飛んだ。マッカーサー率いる大軍と、それを支援するキンケイド艦隊が出現し、フィリピン奪還を狙う米軍がレイテ湾の島々に橋頭堡を築く。これを受け、大本営は捷一号作戦を発令。生き残った艦艇をかき集め総力戦を挑んだ。
- 10月18日午前3時、扶桑は主力艦隊とともにリンガ泊地を出港。燃料補給を行うためブルネイに向かった。旗艦愛宕に率いられ、リオー水道を突破するまでは単縦陣で航行。敵潜水艦に対する警戒のため、全艦が無灯火だった。整然と隊形を保ちながら、12ノットの速力で波を蹴る。南シナ海に進出した後、愛宕からの命令で第1警戒航行序列に隊形を変更。活発化する敵潜水艦に対抗すべく、速力を21ノットに上げつつジグザグ航行。この間にもレイテ方面からは戦況が伝わってくる。10月20日、ブルネイ入港を目前に控えた艦隊は、矢矧の先導を受けながら機雷源を突破。港の入り口へ辿り着き、各々指定された錨地へと向かった。ところが出発前に指定した油槽船が未だ到着しておらず(翌21日午後5時着)、仕方が無いので駆逐艦は重巡から、重巡は戦艦から補給を受ける事にした。こうすれば油槽船が到着したあと戦艦にだけ給油すれば良いのである。給油を受けると同時に作戦の打ち合わせをする。扶桑は西村祥治中将率いる艦隊に編入された。本来、速力が重要視されるこの作戦に扶桑は不参加のはずだった。だが戦艦の火力が欲しい西村中将の切望で参加が決定。スリガオ海峡からレイテ湾に突入する任務を与えられ、ミンダナオ海へと向かう。弾薬兵器の整備点検が徹底され、各々戦備を整えた。10月21日、駆逐艦朝雲に燃料補給を施した。
- 10月22日午前8時、乗組員は前甲板に集合し、登舷礼によって栗田艦隊の出撃を見送った。次はいよいよ自分達の出番である。午後3時、「25日未明レイテ湾に突入し、上陸しつつある敵船団と上陸部隊を撃滅すべし」と命令を受ける。15時30分、ブルネイを出撃。道中でマニラから出撃してきた第五艦隊と合流し、西村艦隊になった。扶桑最後の戦いが始まろうとしていた。10月22日と23日は平穏な航海となった。予想されて敵潜水艦や敵機の襲撃は無く、邪魔をされずに北上し続けた。10月23日夜、西村艦隊はレイテ湾とタクロバンの偵察を行うと電報を打った。
- 10月24日午前2時、最上から艦載機が発進した。午前6時50分にレイテ湾上空に達し、湾内に戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、輸送船80隻を認めた。更にドラッグ方面には水上機母艦1隻、魚雷艇14隻、駆逐艦4隻を発見。この情報は陸上のブーラン基地を経由して各艦隊に通達された。午前6時、スールー海を進撃中の西村艦隊は針路を北東に向ける。そこで日の出を迎えた。午前9時、哨戒中のB-24に発見される。これを皮切りに敵機動部隊の空襲が始まった。午前9時45分、28機の敵艦上機がこちらに向かってくる。発見が早かったため、まず距離約2万mから主砲による対空射撃が行われた。三式対空弾3、4発を撃ったが命中せず。距離を詰めた敵機は一気に急降下してくる。こうなると主砲はもう役に立たない。機銃員が配置に就くが、敵機は太陽を背に降下しており正確な射撃を妨げる。急降下する敵の轟音、機銃掃射の音、対空射撃の音が耳をつんざき、艦を揺さぶる。しんがりを務めていた扶桑に攻撃が集中し、グラマンの急降下爆撃により後甲板が被弾。装甲を貫通し、前部水圧機室上で炸裂。爆風で防水隔壁がひしゃげ、一番副砲員や弾火薬庫員、医務室士官、前部応急員の殆どが即死した。また水圧機室が破壊された事で一番・二番砲塔の操作に支障が出る。搭載機が炎上するも、すぐに射出投棄され事無きを得た。午前11時に火災も鎮火し、事なきを得る。だが老朽艦なのが祟り、どこからともなく浸水。船体が右に2度傾斜したが、復元する事は叶わず応急修理だけで済ませた。やがて敵機は引き上げていった。気を取り直し、対空警戒をしながら進撃を続ける西村艦隊。敵は栗田艦隊に攻撃を集中させたため、空襲はそれっきりであった。敵が去ったのを確認してから、戦死者の搬出と負傷者の手当てを行う。密閉された艦内で爆発したためか、死体は散乱。惨澹たる光景が広がっていた。後部士官浴室を仮の死体収容所とし、遺体を毛布に包んで運んだ。午後12時35分、栗田艦隊が所定の位置にいない事に気付いた西村中将は、艦隊の速力を14ノットに落とした。夕刻、はるか前方に島影が黒く映った。ミンダナオ島の北端だろうか。次第に宵闇は深くなり、夜の帳が下りる。生きて帰れる保障が無い作戦にも関わらず、扶桑にはコック長や理髪師、洗濯屋など軍属が乗っていた。彼らは甲板の片隅に集まって隠れていた。
- 敵の魚雷艇が潜むリマサワ島への偵察を行うため、18時30分に西村中将は最上と駆逐艦3隻に分離先行を命じた。残った扶桑、山城、時雨はボホール島沿いにミンダナオ海を進撃。前方に時雨を配置し、突き進んでいた。20時頃、ボホール島ナウコ角の南方で変針、スリガオ海峡南口へ舳先を向けた。22時50分、カミギン島北方でいよいよ敵と遭遇。前衛の時雨から「魚雷艇3隻発見」と連絡があり、直後に扶桑と山城は一斉回頭を行う。護衛の駆逐艦が照明弾を打ち上げ、周囲を明るく照らす。22時58分、時雨の探照灯に照らされたPT-130を山城が副砲で射撃して損傷を与える。群がる敵魚雷艇群を集中砲火で撃退し、何とか生き延びた。西村中将は時雨に魚雷艇の探照灯照射を命じたが、距離が遠くて失敗に終わる。その後、敵魚雷艇は一定の距離を保ちながら触接を行ってきた。何やら頻繁に交信をしているらしい。翌25日午前0時15分、斥候に向かった最上隊が魚雷艇と交戦したあと本隊へ戻ってきた。扶桑は最上隊を敵と誤認し、砲撃を開始。最上の後部に命中弾を与える。ここで最上が味方識別灯を付けた。これを受け扶桑側は「ワレフソウ」と返信し、同士討ちは終わった。誤射された最上の乗員からは「あれは扶桑じゃなくてクソーだ」と罵られた。山城の後ろ4000mに扶桑が続き、その後ろ1000mに最上が続いた。
- 10月25日午前1時30分、ついにスリガオ海峡に突入。単縦陣の隊形で北上を開始した。南方の夜は常に明るいものだった。しかし突入時は暗く、もやが出ていた。まるでこの後の悲劇を予見するかのように。おかげで視界は悪く、敵艦の姿は無かった。スリガオ海峡を突破すれば、目的のレイテ湾まで後少しだ。しかし扶桑の最大速力の26ノットで走っても、南口から北口へ出るには2時間を要する。午前1時33分、PT-132とPT-137が出現。山雲と時雨が迎撃する。午前2時、西村中将は速力20ノットでの北上を命令。速力をグンと上げた。間もなく敵魚雷艇群30隻が出現。午前2時3分、PT-134は扶桑を狙って肉薄。扶桑の左舷副砲が火を噴き、ドドーンという轟音が鳴り響く。やがて右舷の副砲も射撃を開始。魚雷艇は左右に分かれて攻撃してきているようだ。航海長が「面舵一杯」を命じ、扶桑は左へ回頭。PT-134は3本の魚雷を発射したが、扶桑の回避運動により命中せず。再三の襲撃にも怯まず、西村艦隊は陣形を維持したまま整然と突撃を続ける。西村中将は午前2時7分に右45度の緊急回頭を命じ、1分後に二度目の回頭を行った。駆逐艦の探照灯に照らし出されたPT-490に命中弾を与える事に成功、PT-493の護衛を伴って後退した(PT-490は後に沈没)。午前2時11分、最上と扶桑を狙って4隻の魚雷艇が6本の魚雷を発射。いずれも命中せず。扶桑と山城の副砲により3隻を撃沈すると、敵は慌てて撤退して行った。敵魚雷艇群は戦闘を優先したばかりにオルデンドルフ少将への報告を怠り、魚雷艇だけで戦闘を挑む形となっていたのだ。敵魚雷艇を退けた後、しばらくは敵襲は無かった。だが、その先には戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦30隻以上、魚雷艇46隻以上からなる数の暴力が、手ぐすね引いて待っていたのである。主砲弾を三式弾から一式徹甲弾に換装し、発射の命令を待つ主砲分隊。
- 1944年10月25日午前3時7分、大量の敵駆逐艦が出現して交戦開始。「右砲戦、右45度、向かってくる駆逐艦!」「撃ち方始め!」と砲塔長が叫ぶ。午前3時9分、バチーンという破裂音が聞こえた。敵駆逐艦より一斉に魚雷が放たれ、27本(120本以上とも)もの魚雷が西村艦隊を貫き、そのうちの1本が扶桑の右舷中央に命中したのだ。火柱が立ち、たちまち炎上する。速力が低下し、艦隊から落伍。更に敵巡洋艦群が出現し、砲撃まで飛んでくる。破孔より大量の海水が流れ込み、艦内電灯の右半分が消失。船体が右へと大きく傾斜していく、注水作業により次第に復元していくが、すぐに2本目の魚雷が命中し電力が失われる。砲塔内は真っ暗になり、更に弾火薬庫への浸水によって砲撃不能となる。岩井弾庫長と伊藤火薬庫長から浸水の報告が届く。やがて西村分隊長から第一、第二分隊及び火薬庫員は非常ラッタルを伝って砲室へ避難するよう命令される。浸水は艦を蝕み、今や艦首は沈没。後甲板が大きく浮かび上がっている。炎を背景に浮かび上がる特徴的な艦橋が、少しずつ傾斜を深めていく。不思議なことに、群がっていた魚雷艇や敵駆逐艦の姿は無く、周囲には穏やかな海が広がっていた。艦橋でも総員退艦が出されたのか、妙にざわついている。中部右舷では数名の乗員が海へ飛び込む気配を見せている。午前3時20分、瀕死の扶桑はゆっくりと西へ回頭し、10ノットの速力で南進を始める。艦内から脱出してきた約100名の乗員は左舷に集まっていた。その瞬間、ギギーという不気味な音が響く。金属か何かが折れる音だ。右へ転覆すると思われた扶桑の船体は、突如左に傾いた。そして艦首を海中に突っ込んで、逆立ちし始めた。午前3時45分、弾薬庫に引火し大爆発。船体が真っ二つに折れ、漂流。あとから突入してきた志摩艦隊が燃え盛る残骸を視認している。後部はしばらく浮いていたものの、やがて前部が沈没。午前5時20分、浮いていた後部も敵重巡ルイスビルの砲撃を受け沈没。扶桑の生存者は敵軍に救助された10名のみであった。他の乗員は大爆発を起こした際に大半が死亡、生き残った者もサメや原住民に襲われて死亡している。1945年8月31日に除籍された。
- 扶桑の最期には諸説あり、歴史家のオーストラリア人は引火による大爆発は無く、徐々に転覆して沈没したと指摘している。潮書房光人社出版「日本戦艦の最後」でも「艦首から海底に突っ込んでいったのだ」と記載されており、引火爆発の事は書かれていない。西村艦隊は敵の集中攻撃を受け、壊滅。7隻中生還したのは時雨だけだった。ところが敵艦隊に全力を出させたため、敵は弾薬を大半を消費。栗田艦隊がレイテ湾に接近してきた時には恐怖に包まれたという。
- 戦後の1979年10月、扶桑沈没の際に新郎(24歳)を失った西崎幸代氏の事が新聞記事に載った。わずか二ヶ月の新婚生活で夫を亡くし、彼が教えてくれた「海ゆかば」を鎮魂歌のように幾度と無く唄っている。1980年9月22日、呉海軍墓地に慰霊碑が建立された。合祀者1637柱。
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艦橋の形状が話題に上る戦艦である、見たことがない方は、画像検索で実艦の写真で艦橋を見て欲しい。
いびつに積み重なった階層が折れ曲がっており、「違法建築」とか「ジェンガ」とか言われている。
パッと見て歪な格好だが、もちろん設計ミスではなくちゃんと理由がある。
第三砲塔が艦橋のすぐ後ろに設置される設計となり、前向きに設置されたため必然的に砲塔の旋回部分が後ろ寄りになった。
砲塔が旋回する時に砲身が艦橋にぶつからないように艦橋基部を拡張することができず結果的に「く」の字のように抉れた形になってしまった。
だから設計ミスではなく意図してあの形なのだ。いやもっと他にやり方があっただろ。
また艦橋は全14階建て(一時期は15階)でスペック表では長門が41mに対して扶桑は50mとかなり差を付けている。
一度見たら忘れられないあの形状は海外では非常に人気で、大和に匹敵するファンを持っている。
実際Wargaming.netの新作ゲーム「World of Warships」のトレーラームービーでは日本艦どころかゲーム内のどの艦より真っ先に登場している。
カメラが艦橋の根っこと第三砲塔に寄りすぎてて一回見ただけじゃ分かんねえよ!
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扶桑は竣工時世界最大の戦艦で常備排水量が3万tを越える超大型戦艦だった。
このため大きく舵を切った時の減速が著しく、被弾確率が高くなると危惧された。
また35.6cm45口径連装砲を6基も装備していたため被弾危険区画が広くなったこと、当時の日本の製鋼技術では厚く強い装甲を作れなかったことで防御力の確保ができなかった。
更に主砲斉射時に船体が大きく傾き爆風で甲板や艦橋付近に被害が出たり砲煙が指揮所を覆い視界の邪魔になった。
更に更に主砲弾の散布界(狙った地点と実際に着弾した地点のブレの範囲)が広く攻撃精度も問題に挙がった。
ただし戦艦6隻(長門、伊勢、山城、比叡、霧島、扶桑)で行われた射撃演習では扶桑が最優秀成績を収めている。
山城も公式ではないが優秀な成績を残しているため、これについては実際には問題なかったと言われている。
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大和、長門、伊勢、山城etc…戦艦の命名法則を見ると旧国名から取られているのが分かる。
では扶桑が現在のどの辺なのかというと、ずばり日本という国そのものを指す。
扶桑とは中国の古書に出てくる「東の彼方にある大樹」のことで、その樹の下にある国を「扶桑国」と呼ぶ。
『山海経』によると、はるか東の海の果てにある伝説上の大樹であり、太陽はこの扶桑から昇ると言われている。
これが時間を経て伝わり「日本=扶桑」という形になった。
余談だが、扶桑の副長が上層部に艦名の由来を尋ねた事があり、上記と同様の回答が返ってきている。
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