#title(荒潮の詳細・評価・オススメ装備)

[[艦種別リスト>キャラクター/艦種別]] > ''荒潮''
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#contents

*基本情報 [#o602c0d6]
|CENTER:450|CENTER:84|CENTER:90|CENTER:84|CENTER:90|c
|>|>|>|>|~プロフィール|
|&ref(荒潮全身.jpg,zoom,450x525);|~名前|>|>|&ruby(アラシオ){荒潮};&br;IJN Arashio|
|~|~レアリティ|>|>|R|
|~|~艦種|>|>|駆逐|
|~|~陣営|>|>|重桜|
|~|~建造時間|>|>|建造不可|
|~|~CV|>|>|蒼乃輝|
|~|~イラスト|>|>|Alic|
|~|~耐久|D|~火力|D|
|~|~雷装|A|~回避|A|
|~|~対空|D|~航空|E|
|~|~速力|>|>|42|
|~|~SD|>|>|&ref(荒潮SD.gif);|
|>|>|>|>|~自己紹介|
|>|>|>|>|わたしは朝潮型の四番艦、荒潮です。大潮と満潮、それから朝潮ちゃんと一緒に第八駆逐艦隊に所属していました。&br;今度こそ……みんなで一緒にいられるといいですね|
|>|>|>|>|~入手方法|
|>|>|>|>|春の特別ログインボーナス(2019/4/4〜2019/5/15)|

|>|>|>|>|>|>|>|>|~ステータス(MIN/MAX)|
|CENTER:61|CENTER:95|CENTER:95|CENTER:61|CENTER:95|CENTER:95|CENTER:61|CENTER:95|CENTER:96|c
|~耐久|312|1614|~装甲|>|軽装甲|~装填|72|171|
|~火力|12|54|~雷装|98|463|~回避|71|185|
|~対空|28|129|~航空|0|0|~消費|2|8|
|~対潜|46|168|>|>|>|>|>|~ |
|~運|>|32|>|>|>|>|>||
|~装備枠|~初期装備|~補正(MIN/MAX)|~最大数((各行動時に攻撃を行う砲座数や艦載機数))|
|CENTER:120|CENTER:369|CENTER:160|CENTER:160|c
|駆逐主砲|[[127mm連装砲]]T1|70%/75%| |
|魚雷|[[610mm四連装魚雷]]T1|130%/150%| |
|対空|-|70%/75%| |
|設備|-|-|-|
|設備|-|-|-|

|>|~スキル名|~効果|
|CENTER:60|CENTER:150|LEFT:610|c
|&ref(img/衝突禁止_icon.png,nolink,70%,衝突禁止);|衝突禁止|味方前衛艦隊が敵艦隊と接触したときに受けるダメージを15.0%(30.0%)軽減する|
|&ref(img/全弾発射_icon.jpg,nolink,70%,全弾発射-朝潮型);|全弾発射-朝潮型|自身の主砲で15(10)回攻撃する度に、全弾発射-朝潮型I(II)を行う|

//スキルアイコン→&attachref(img/スキル名_icon.jpg,nolink,70%);
//改造時に習得するスキルは色変え→BGCOLOR(#e9eefd):

|>|~上限突破|
|CENTER:60|LEFT:771|c
|~初段|全弾発射スキル習得/魚雷補正+5%|
|~二段|魚雷装填数+1/開始時魚雷+1/魚雷補正+10%|
|~三段|全弾発射弾幕強化/武器補正+5%|

|~全弾発射スキル|~特殊弾幕スキル|
|CENTER:415|CENTER:416|c
|-|-|

//&attachref();


***MAXステータス [#u72a5c0d]
//ゲームデータではなくよそから情報を持ってくる場合何レベルで好感度がいくつの数値なのかよく調べてから記載するように。
//確認しない人が多すぎるため大陸版wikiからの転載禁止
|CENTER:216|CENTER:216|CENTER:216|c
|>|>|~LV120好感度200|
|~耐久|~装甲|~装填|
|2047|軽装甲|208|
|~火力|~雷装|~回避|
|66|538|202|
|~対空|~航空|~消費|
|157|0|8|
|~対潜|>|~ |
|198|>||

//▼改造が実装されたら公開する
//**改造
//|CENTER:100|CENTER:200|CENTER:250|CENTER:70|CENTER:100|CENTER:120|c
//|~改造内容|~詳細|~必要な設計図その他|~費用|~必須レベル|~必須レアリティ|
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||
//|||||||

//▼改造が実装されたら公開する
//***改造後MAXステータス
//|CENTER:216|CENTER:216|CENTER:216|c
//|>|>|~改造後MAXステータス|
//|~耐久|~装甲|~装填|
//||||
//|~火力|~雷装|~回避|
//||||
//|~対空|~航空|~消費|
//||||
//|~対潜|>|~ |
//||>||

//▼改造が実装されたら公開する
//***改造後のキャラ絵
//#region(改造後のキャラ絵を開く)
//|&attachref();|&attachref();|
//#endregion

//▼改造ボイスが実装されたら公開する
//***改造後ボイス
//#region(クリックでセリフ一覧を開く)
//|60||c
//|~入手時||
//|~||
//|~||
//#endregion

//▼ケッコン衣装が実装されたら公開する
//*ケッコン
//#region(ケッコン衣装の絵を開く)
//|&attachref();|&attachref();|
//#endregion

//▼着せ替え衣装が実装されたら公開する
//*[[着せ替え>着せ替え一覧]]
//#region(着せ替え画像を開く)
//|>|~○○○|
//|&attachref();|&attachref();|
//|>||
//#endregion

//▼着せ替え衣装ボイスが実装されたら公開する
//**着せ替え後(着せ替えの名前)ボイス
//#region(クリックでセリフ一覧を開く)
//|60||c
//|~入手時||
//|~||
//|~||
//#endregion

*ボイス [#q0d1e494]
#region(クリックでセリフ一覧を開く)
|60||c
|~入手時|駆逐艦荒潮、指揮官様の艦隊に入ります。みんなのことは、わたしがしっかり支えてあげますね|
|~ログイン|わたしの格好、変ではありませんか?指揮官様を迎えるときは、やはり笑顔が一番ですね!|
|~詳細確認|飛んでいる飛行機を見ると、少し落ち込みます……まぁでも、もう昔のことです。それよりも今大事なのは笑顔でいること、ですよね。指揮官様|
|~メイン1|朝潮ちゃんとは昔からずっと一緒でしたの。そうそう、寝ているときもずっと。朝潮ちゃん、寝ているときもとても静かなんですよね|
|~メイン2|もしみんなについていけなくなっても、見捨てられることはないって信じています……ですから、ここがわたしの一番の居場所です|
|~メイン3|お茶ができました。ごゆっくりどうぞ。それとわたしの腕前、如何でしたでしょうか?|
|~タッチ|ん……みんなが離ればなれになった原因はあまり考えないようにしています。それに、こうしてまた会えたのですから、このまま楽しく過ごしていきましょう|
|~タッチ2|キャッ――!これは、大人になるために必要なこと、でしょうか?|
|~任務|新しい任務がありますね。指揮官様、わたしも手伝います|
|~任務完了|任務が完了しました。指揮官様もお疲れ様ですね!|
|~メール|メールがありますね。指揮官様、早く見に行きましょうか|
|~母港帰還|お疲れさまです。膝枕しますので休みませんか?|
|~委託完了|指揮官様、委託組のみんなが帰ってきたようですよ。早く迎えに行きましょうか|
|~強化成功|これでもっとケガをしづらくなりました。ありがとうございます、指揮官様|
|~戦闘開始|みんな、なるべく怪我をしないようにね……|
|~勝利|あら、わたしがMVPですか……うーん、こういうのも悪くないかもしれませんね|
|~失敗|気にする必要はありません、今度は勝てますから!|
|~スキル|わたしがみんなのことをお守りしますね|
|~損傷大|こういう時は落ち着いていきましょう。荒潮は大丈夫です|
|>|BGCOLOR(#FFFFFF):COLOR(GRAY):CENTER:~▼好感度系|
|~失望|朝潮ちゃん?よしよし、こわくないよ……指揮官様、先に失礼させていただきますね、朝潮ちゃんのそばにいてあげないと――|
|~知り合い|指揮官様のこと、もっと知りたいですね。ふふっ、まずはどこから始めましょうか?|
|~友好|また悪い夢を見たのですか?大丈夫、全部よくなりますよ、指揮官様|
|~好き|おしゃべりをしていたらもうこんな時間……とても楽しかったです!指揮官様、ずっと座っていて、肩が凝っていませんか?お揉みしますよ|
|~ラブ|今は二人きりですね。さっきから胸のドキドキが…指揮官様、ほんの少しだけ、胸に寄り添っても、いいでしょうか?|
|~ケッコン|指揮官様、あまり恥ずかしいことは言えないのですが、聞いてほしいことがあります……ええと……これからも、わたしは指揮官様のことを支え続けます。指揮官様の隣こそが、わたしの唯一の寄る辺ですから|
//|>|BGCOLOR(#FFFFFF):COLOR(GRAY):CENTER:~▼特定編成時台詞|
//|~(編成艦名)|(台詞)|
#endregion

*ゲームにおいて [#y943775b]

[[中国版では2018年9月のログインスタンプ報酬>http://wiki.joyme.com/blhx/%E6%AF%8F%E6%9C%88%E7%AD%BE%E5%88%B0]]として先行実装された重桜駆逐艦。
順当に行けば日本版でも姉妹艦同様にログイン報酬となるはずだったが、不運にも荒潮の手前でログイン報酬で撤廃されてしまい、入手手段が無くなってしまう。
長らく重桜イベントが途絶えてしまった事も手伝って、しばらくの間は実装の機会すら無かった。落胆に暮れる諸氏は枕を血涙で濡らした。

数ヵ月後に吉報が届いた。[[2019年1月29日のお知らせ>https://www.azurlane.jp/news-item.html?i=1074]]にて将来のキャンペーンで配布する事が決定。闇夜を払う曙光の如き快報を糧に、諸氏は次なるアナウンスを待った。
そして遂に、2019年4月4日〜2019年5月15日の「春の特別ログインボーナス」にて日本版でもついに実装。ログインボーナス最終日の景品に据えられたため、最速でも二週間(4月17日午前0時まで)掛かる。
このイベントでは[[満潮]]も入手できるほか、同時開催の[[「墨染りし鋼の桜」>イベント71_(2回目)墨染まりし鋼の桜]]にて[[朝潮]]、[[大潮]]が入手できるため、「第八駆逐隊」を揃えられるようになっている。
ただし前衛は3人までしか出せないので、誰か1人が犠牲になる。

[[大潮]]のキャラストーリーにて、実装に先立ってその姿が登場。またスキル「第八駆逐隊」([[朝潮]]) の効果対象に名前が挙がっていた。~
2019年5月9日のアップデートで、声が実装された。声優は[[大潮]]と同じ蒼及輝兄貴である。妖艶さを醸し出す魅惑の声で、聞く者の心をとろかす。
**性能 [#bf41d1f4]

//ゲームにおいての役割、使い勝手などの評価をレビューする項目
雷撃が高く、対空が低い典型的な重桜艦。全艦中2隻しか所持していない「接触ダメージを軽減する」効果を持つスキル、「衝突禁止」を習得している。
接触ダメージが致命傷になりかねない深奥の海域で、その真価を発揮する。接触でダメージを稼ぐ(通称[[頭突き艦隊>編成考察/頭突き艦隊]])編制では不可欠の逸材。
***スキル [#o81c932c]
-「衝突禁止」
接触ダメージを最大で30%軽減する。
敵のLvが高くHPも多くなる後半海域で結構助かるスキル。9-4BOSSのニイヅキ戦など接触しやすいボス戦でもあると嬉しい。
同じく接触ダメージ軽減効果もあるグローウォームのコメットヘッドスマッシュとの競合具合がどうなるか心配されていたが、
なんとコチラとは加算で効果が出る事が判明した。二人共スキルLv10だと接触ダメージが60%軽減出来る。

**オススメ装備/編成 [#rdb1030b]
***主砲 [#z9332681]
***魚雷 [#w0db95fc]
***対空 [#mc64486b]
***設備 [#f6095f79]
***編成 [#jb45dabd]
**キャラクター [#j2f3dc02]
-羞月閉花のKAN-SEN。とてもかわいい。高貴な紫色の召し物に身を包んだ、貴重な黒髪ロング駆逐艦。首元の鈴といい猫耳といい、猫がモチーフなのだろうか。
-清楚な優等生。冷静沈着で姉たちを慮り、指揮官のためにお茶を淹れてくるなど、気が利く一面もある。帰還するたびに膝枕をしてくれる女性の鑑。
-幾度となく航空機に襲われたからか、航空機に対し恐怖を抱いている節がある。実際、これでもかと言うくらい空襲を受けており、死因も爆撃によるもの。
-スキルの名前が「衝突禁止」なのは、ビスマルク海海戦で特務艦野島と衝突して艦首を大破した事に由来する。
-彼女の台詞から、指揮官が悪夢に苛まれている事が判明。重圧と責務に押し潰されているのだろうか……。
-[[大潮]]のキャラクターストーリーにも登場。茶会に招かれた指揮官とともに花見をしていた。正座が苦手な指揮官のために座布団を用意するなど、優しい。

//▼キャラストーリーが実装されたら公開する
//**キャラストーリー「タイトル」
//を秘書官に設定し、をタップするとキャラストーリー開始。
//" src=
//#region(任務と報酬一覧を開く)
//| |~任務内容|~報酬|
//|~1|を5個準備する(消費)|資金100|
//|~2|任意の艦を10回強化する|資金100|
//|~3|を含めた艦隊で出撃し、20回勝利する|資金100|
//|~4||資金100|
//|~5|の親密度が100に到達 |資金100、家具コイン5、教科書T2×1|
//|~6|を3回限界突破する|資金100、家具コイン10、改造図T2×1|
//|~7|のレベルが100に到達|資金100、家具コイン10、改造図T3×1|
//" src=
//※ストーリーは、図鑑→思い出より確認可能
//#endregion

*元ネタ [#o6161fc6]
//荒潮は非常に資料が少なく、戦歴の充実が難しい状況にあります。資料や書籍をお持ちの方は加筆御願いします。

-朝潮型駆逐艦四番艦。川崎重工神戸造船所にて1935年10月1日に起工し、1937年5月26日に進水、同年12月20日に竣工した。
-[[朝潮]]、[[大潮]]、[[満潮]]と第八駆逐隊を編成し、大東亜戦争緒戦の南方作戦に参加。輸送船団の護衛に従事する。
バリ島沖海戦では絶対的優位に立つ連合軍艦隊相手に奮戦し、撃退して上陸船団を死守する活躍を見せ、
ジャワ島攻囲の際にはオランダ海軍の大型掃海艇ヤン・ファン・アムステルを撃沈する戦果を挙げた。
-続くミッドウェー海戦、敵中に孤立した[[最上]]と[[三隈]]を献身的に援護。数の暴力から必死に2隻をかばい続け、廃墟と化した[[三隈]]より乗員を救出。
自身も傷ついたが[[朝潮]]ともども介錯に立ち合い、[[三隈]]を雷撃処分した。一方、大破していた[[最上]]は最後まで守り切り、本隊まで届けた。
-修理後はソロモン戦線に転戦。無数の敵がうごめく危険な海域を縦横無尽に駆け巡り、輸送任務に従事。ガダルカナル島撤退作戦には三回とも全て参加し、
それでいて無傷で乗り切るという男らしさを見せた。
-ところが神重徳大佐の駆逐艦一掃セールにより、生還の見込みが無い強引な輸送任務に参加させられ、1943年3月3日のビスマルク海海戦において撃沈された。
実に短く、儚い命であった。そのせいか荒潮を取り扱った資料や書籍が殆ど残っておらず、アジ歴にも申し訳程度にしかない有様である。幻の存在かな?
~
-主な戦果
--バウエアン島近海で敵潜水艦を[[朝潮]]とともに撃沈(1942年3月1日)
--オランダ海軍大型掃海艇ヤン・ファン・アムステル撃沈(1942年3月9日)
--巡洋艦[[三隈]]から乗員を救助し、大破した[[最上]]を守り抜く(1942年6月7日)
--ソロモン方面にて輸送任務多数成功
--米魚雷艇1隻撃破(1943年1月10日)
--敵爆撃機1機撃墜(1943年2月2日)

#region(戦歴よくばりセット)
&size(18){蓋世不抜の駆逐艦};

-大日本帝國海軍が建造した[[朝潮]]型駆逐艦四番艦。元々は[[白露]]型として生まれるはずだった。荒潮は、荒海の潮流もしくは荒い潮流を意味する。古い文献では荒汐と記載されている事も。
-1934年度第二次補充計画にて第78号甲型一等駆逐艦として建造が決定。1935年9月28日、駆逐艦荒潮と命名。艦艇製造費(676万2000円)により、10月1日に川崎神戸造船所で起工した。
船台の上にキールが据え付けられた。呼応する形で在英、独、仏、伊、米武官に写真が送付された。
同月16日、イギリス大使館附海軍武官ヴィヴィアン大佐から、荒潮起工の際に送られた写真の返礼書簡が届いた。
ところが起工直前に発生した第四艦隊事件によりトップヘビーの危険性が示され、急遽改白露型(朝潮型)に設計を変更する事になる。
それに伴って建造計画に変更が生じ、予定より遅延が発生している。
-1937年2月下旬より諸物資の積み込みが、3月下旬からは主機械の搭載が行われた。5月4日、進水式の際に配る絵葉書用に油絵が寄贈される。
航行中の艦を斜め前方45度から見た図で、川崎造船所の造船部設計課所属伊藤安次郎氏が描いた。竣工後は艦内に飾られたという。

-5月26日に進水式を迎え、神戸造船所内で荘重裏に挙行された。呉鎮守府司令長官代理の豊田中将や中山陸軍大阪砲兵工廠長、熊野の須賀艦長、
伊63、伊59の水兵、阪神地方官民ら約5000名が出席した。午前6時50分、豊田中将が進水命令書を朗読。午前7時に吉岡所長が銀斧を一閃し支綱を切断。
海軍旗で飾られた荒潮の船体はするすると滑っていき、海の上に浮かんだ。進水式の様子は翌27日の大阪時事新報で報道された。
見出しは「無条約の大洋へ新鋭二艦晴の進水」であった(もう1隻は駆逐艦夏雲)。進水を記念して、川崎造船所の銘が入ったペーパーナイフが造られた。
進水記念葉書も配られ、表面には荒潮が航行する姿が、裏面にはスペックと荒々しく猛る海面が描かれている。

-進水後も工事は続いたが、艤装員事務所の設置が遅れていた。このため艦の保安を不安視され。早々に設置するよう命じられている。
6月15日発刊の神戸新聞では「海の隼、新鋭駆逐艦」と紹介された。工事を担当する造船士たちは緊張な面持ちで荒潮と向き合っていた。
-6月中旬より主砲と魚雷発射管の積み込み工事が始まる。7月15日、艤装委員長に山隈和喜人少佐が就任。艤装中は艦内に宿泊出来ず、昼食も作業着では工廠外に出られなかった。
完成が近づくにつれ様々なテストが行われ、消耗品や暗号表、備品、燃料等が積み込まれていく。環境が整った事で宿泊も可能になり、工事が一挙に進む。
最終工事は舞鶴工廠に委託された。9月上旬、終末を除く公試を実施。11月中旬までに第一及び第二工事が完了。11月11日、消耗品として乾燥剤4個を補給。
11月20日、海軍への引渡し式が行われた。それから最終試験を実施。
-そして1937年12月20日に竣工。佐世保鎮守府に編入された。竣工後、油絵は額縁に入れられて、艦内に飾られている。両舷には識別のため、「アラシホ」と右書きされていた。
初代艦長として艤装委員長の山隈少佐が着任した。通信略語は「アシホ」。
--ワシントン及びロンドン海軍軍縮条約脱退を見越し、船体を大型化。船型に問題があって旋回半径が大きくなってしまったため、中部舷側のフレアを廃止し、
艦尾水線下船底と舷側との取合部にナックルを設け、舵を変更している。艦内電源を直流から交流に変更し、電気設備を小型化。更に陸上給電を可能とした。
事前に耐振耐衝撃型自動電圧調整装置を開発し、負荷に適応した電動機型式の選択や直入起動範囲の選定を行っていたが実験段階の域を出なかったため、
電力は220ボルトに制限された。交流電源は一定の成功を収め、後続の新型駆逐艦の標準装備となった。具体的には、従来の直流方式と比べ25%の電気部重量が軽減したという。
列強海軍より5年先に実装した形となった。
--基本的なスペックは[[白露]]型と同一だが、追加建造される[[朝潮]]型駆逐艦用の機関が足りなかったため、急遽新造する事になった。よって機関を新型へ変える事になり、
4万2000馬力から5万馬力へアップしている。圧力22キロ、温度摂氏300度の高圧高温蒸気をタービンへ送れるようになったため、低燃費化を実現。特型駆逐艦と比べて11%の軽減に成功した。
本来なら排水量の減少を見込めるのだが、要求航続距離を達成するためにはどうしても580トンの燃料が必要と造船側が力説。結果、満載排水量は2600トンに達し、
当初予定していた排水量を上回った。魚雷は最新鋭の93式魚雷を搭載。いわゆる酸素魚雷で、航跡を残さない画期的な装備であった。
特型と比べて魚雷発射管の数は減少(9門→8門)したが、次発装填装置を搭載した事で雷撃力が向上している。特型の泣き所だった復元性や船体強度は当然強化されている。
--朝潮型は、帝國海軍からほぼ完璧であると評価された艦隊型駆逐艦であった。唯一の弱点は航続距離が短い事だった。[[白露]]型より重油搭載量を増やしたが、改善できなかった。
この点を改良した[[陽炎]]型が後に続く訳だが、朝潮型と大して変わらない性能となっている。いかに朝潮型が高い性能を持っていたかを、静かに物語っている。
--要目は排水量2000トン、全長118m、全幅10.39m、速力34.85ノット(全力時35.17ノット)、出力5万馬力、乗員219名。内訳は士官8名、特務仕官2名、准士官2名、下士官61名、兵146名。
武装は50口径12.7cm連装砲3基、25mm機銃2基、61cm4連装魚雷発射管2基、90式魚雷16本、91式爆雷36発。
~
-1937年12月21日(竣工の翌日)、荒潮は神戸を出港。舞鶴へと向かった。
-1938年1月8日、佐世保警備隊第25駆逐隊に編入。生まれて間もない荒潮に、早速災難が訪れる。ネームシップの[[朝潮]]にタービン翼破損の欠陥が見つかったのである。
既に支那事変が勃発している現在、海軍期待の新鋭艦に欠陥などあってはならない。朝潮型の駆逐艦を至急調査した結果、やはり荒潮や他の姉妹艦にも破損が認められた。
海軍全体を揺るがす臨機調事件の幕開けである。
-海軍は海軍次官・山本五十六中将(当時)を委員長とした臨時機械調査委員会を、1月19日に設置。タービン翼破損の原因を追究した。朝潮型には、第四艦隊事件をきっかけに
再設計された新型タービン(改設計艦本式タービン)が搭載されていた。どうやらこの設計がまずかったと委員会は結論付け、設計を担当した渋谷隆太郎少将と他数名が懲罰を受けた。
3月末、佐世保工廠でタービン機関の改正工事を実施。朝潮型4隻が揃って佐世保工廠送りにされてしまったため、第25駆逐隊の活動は遅れた。
--故障箇所は右舷高圧タービン各動翼列と右舷中圧タービン第1、第2段落動翼列。高圧・中圧ともに軽微な傷が認められた。
謎の損傷に、関係者は慣れない外国語の辞書を手に寝食を忘れて原因究明に全力を挙げた。
推定された原因は、公試後の開放検査復旧の際に異物が混入したものとされた。臨機調は対策を講じると同時に、高圧タービン翼を手直し。
ピッチ円径を大きくし、タービンブレード高を短縮してブレード自体を増厚。円周方向二節振動共鳴点を安全側にずらして対処した。
最終的に解決したと判断され、臨機調は1938年11月2日に解散。
-もしかすると朝潮型だけに留まらず、他の艦艇にもタービン翼破損の疑いがあるかもしれない。そこで海軍は全ての艦艇のタービンを交換するという壮大な計画を立てた。
実施予算の検討が始められたが、これを疑問視する軍務局第3課の長久保田芳雄大佐が意見具申をし、交換の前に実艦実験を行った。結果、全艦艇異常なし。
朝潮型だけの問題だと判明し、交換は中止された。

-1939年8月16日から9月26日まで、荒潮艦長の鈴木正明少佐が[[満潮]]の艦長を兼任。11月1日、官房5587号により海軍大臣から横須賀鎮守府への転属が令達。
''第8駆逐隊''に改称し、第2艦隊第2水雷戦隊の指揮下に入る。そして支那方面で活動。新鋭駆逐艦と錬度の高い乗員が集まる精鋭部隊であった。
復帰は1940年初頭。修理を終えた[[朝潮]]型から逐次艦隊へと復帰していった。1月中旬から始まる連合艦隊前期の訓練に参加し、台湾方面へ航海。
~
-1940年3月26日、[[金剛]]や[[五十鈴]]、[[阿武隈]]等とともに有明湾を出港。沖縄の中城湾に入港する。翌27日に出港し、華中方面で作戦行動を実施。
4月2日、第8駆逐隊は[[金剛]]等とともに台湾の基隆に入港。当時の光景を収めた写真が現存している。8月25日、[[五十鈴]]等とともに横須賀を出港。9月21日に帰投した。
-9月23日、帝国陸軍はフランス領インドシナに進駐。これを支援するため第8駆逐隊は出動し、南方方面で活動している。
-10月11日、横浜沖で挙行された紀元2600年特別観艦式に参列。他の姉妹艦とともに第三列に加わり、その威容を臣民に見せ付けた。
参加艦艇は98隻で62万2000総トン、航空機は527機と最後にして最大の観艦式となった。
午後1時30分、御召艦[[比叡]]が抜錨。横浜港内に入ってきた。この時、荒潮は他の参列艦とともに皇礼砲を発射し、出迎えている。
-10月15日、対米戦備として出師準備第一着手作業が発令。機関長が加藤武夫機関少佐から稲田領機関少佐に、航海長が太田耕(予備)大尉から中山四郎中尉に変更となった。
11月15日には水雷長が渋谷隆大尉(第18号掃海艇の艇長に異動)から和田睦夫大尉に変更となっている。

-1941年2月24日、佐世保を出港。華南方面で活動する。3月3日に馬公に入港。6日に出港した。同月25日、有明湾を出港して華中方面で活動。
4月23日午前10時、長い訓練航海を終えて東京の石川島造船所に入渠。4月24日、横須賀鎮守府より辞令が出された。
5月3日までに荒潮に配属される転入者が石川島造船所内に集結すると書かれていた。5月13日、再び訓練航海に出る。
-6月1日より、第8駆逐隊は支那事変の戦況変化に備えて内地待機。所期の目的を達したと判断され、勲功丙の評価が与えられた。
水面下で開戦が決まると次第に訓練も激しさを増してきた。その苛烈さは月月火水木金金の言葉が流行ったほど。6月21日から29日まで連合艦隊後期訓練に参加。
その最中の6月23日、連合艦隊第16回応急訓練終了直後に起きた姉妹艦峯雲と夏潮の衝突事故を目撃。そこへ更に[[黒潮]]が衝突し、玉突き事故に発展した。
-8月15日、出師準備第二着手作業が発令。支那方面の作戦や訓練を中止し、急速戦備準備が始まった。
~
-戦雲渦巻く1941年9月1日、戦時編制が発令。大規模な人事異動が行われた。阿部俊雄大佐が着任し駆逐隊旗艦となる。同月20日、久保木英雄少佐が艦長に着任する。
人員がごっそり入れ替わってしまったため新陣容での訓練が求められたが、出師準備によって各艦が戦備に追われて不可能だったので、やむを得ず開戦日を延期した。
11月5日、第2水雷戦隊は南方作戦に参加する事になり、高橋伊望中将率いる第3艦隊(比島部隊)へ編入されてフィリピン方面の作戦を受け持つ。
同月12日、岩国沖へ回航。岩国協定や打ち合わせを行ったのち、呉へと回航して臨戦準備を行った。
--11月15日、大海令第一号が発令された。同時に作戦命令第一号を発令し、各部隊に作戦開始前の準備地点への進出を命じた。
-11月23日、比島部隊第5急襲隊に部署。11月26日、寺島水道を出港しパラオへと向かうが道中の29日、菲島部隊電令第1号により
第8駆逐隊か第5駆逐隊を南方部隊本隊に転出させる事になった。結果、第8駆逐隊が転出する事になり、パラオ行きの艦隊と別れて台湾に向かった。

-12月2日午前8時、朝もやが包む馬公に進出。[[愛宕]]や[[金剛]]と合流し、近藤中将率いる南方部隊本隊の指揮下に入る。
外港には徴用船56隻が停泊し、物々しい雰囲気を醸し出していた。進出の目的や作戦内容は明かされておらず、乗組員は朧気ながら「大きな作戦がある」とだけ分かっていた。
--南方部隊本隊は旗艦[[愛宕]]に座乗する近藤中将が率いる艦隊で、[[金剛]]、[[榛名]]、[[高雄]]、第4、第6、第8駆逐隊によって編制されていた。
本隊の任務は、全作戦の支援である。

-最後の戦備を整え、主力隊に先立って12月4日午後12時45分に出港。先発したマレー部隊の後方に付き、第25軍主力を乗せた輸送船17隻と病院船1隻を護衛して南下した。
先頭艦から最後尾の艦まで、7kmという巨大な船団であった。船団は二列縦隊となり、目的地に向かって突き進んだ。
-目標地点まで約2000km。船団はインドシナ半島に沿って南下し、ボルネオ海を突破してタイランド湾へと進入した。
既にイギリス空軍の勢力圏内に入っており、第三飛行集団の援護を受けながら隠密裏に進んでいく。
12月6日13時30分頃、イギリス空軍の大型偵察機1機に発見される。第12、第22航空戦隊の戦闘機が仏印から飛び立つも、
捕捉できずに逃がしてしまう。先行きを不安にするには十分な出来事だった。
--この接触により、シンガポールのイギリス軍は日本船団の進入を察知した。しかし開戦前という事もあり、
攻撃を加えると開戦の口実を与えるとして偵察・監視だけに留めた。ところが悪天候により見失ってしまう。
イギリス側は日本船団の動向を掴もうとカタリナ飛行艇2機を送り込んだが、成果は無かった(1機は哨戒の零式水偵に撃墜された)。
このため何の敵情も得られないまま、迎撃する羽目になる。

-12月7日午前10時、船団から淡路山丸・綾戸丸・佐倉丸の3隻が分離。日没後、加藤隼戦闘隊の通称で知られる飛行第46戦隊所属の3機が発進。
タイランド湾を航行する輸送船団の護衛に就く。ところが南シナ海の台風により天候が悪化。船団は激しいスコールに見舞われる。
夜陰に紛れて西進する船団を見届けた後、帰路についたがフコク島を発見できず、燃料不足により不時着水。いきなり殉職者を出してしまっている。
不幸が続いたものの、船団はイギリス軍の妨害を受ける事無く、上陸地点のコタバル東岸に辿り着いた。
~
&size(21){1941年};
-1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。午前7時49分、連合艦隊より開戦を伝える電文が届いた。いよいよ戦争に突入したのである。
南方部隊本隊はプロコンドル島東方に展開し、全作戦の支援を行っていた。まずマレー作戦の支援が行われた。コタバル沖やカモー岬南方で活動。
--コタバルへの上陸作戦は、真珠湾攻撃よりも先に行われた。意外な事に事前の艦砲射撃は一切行わず、強襲上陸を実施。
コタバル上陸部隊である侘美(たくみ)支隊の発進準備が完了し、支隊長の発進命令によって各舟艇は一斉にマレー東岸を目指した。
海岸まで約500mまで近づいたところで、岸辺からイギリス軍による機銃掃射や砲撃を受けた。陸岸になるほど攻撃は激しくなり、
途中で舟艇を降りる陸兵が出始めた。自力で陸岸に泳ぎ着く者、波とともに浜辺へ打ち上げられる者、潮流に流されて沖合いにまで放り出される者。
各々が死に物狂いで上陸を目指した。機銃の射線を潜り抜け、12月8日午前2時15分に歩兵第一大隊が上陸。
--沖合いの船団では、第二陣の準備を開始する。悪天候に邪魔され、出発時間は予定より大幅に遅れた。
午前3時30分頃、イギリス軍機が飛来し爆撃を加えてきた。輸送船の陸兵たちも機関銃や高射砲で支援した。
しかし午前5時頃、イギリスのハドソン爆撃機3機が飛来。淡路山丸が被弾炎上、綾戸山丸が爆破された。
火の手が上がる2隻は、闇夜の中でもよく見えたという。イギリス空軍の攻撃は次第に激しくなり、
海軍側は侘美支隊長に船団退避を要請。しかし支隊長は上陸状況を見て作戦続行は可能とし、午前6時30分までに
予定兵力の上陸と物資の揚陸を完了させる事を条件に、作戦続行を決断する。
午前6時30分、侘美支隊は第二次上陸を一旦終了。被弾した綾戸山丸と佐倉丸は荒潮たちの護衛を受けてパタニー方面へ退避。
--12月8日の日没後、2隻とともに反転し再びマレー沖に接近。翌9日未明から上陸を再開し、同日夕刻には全ての兵士と物資を
揚陸させる事に成功した。上陸した侘美支隊は、コタバルの入り組んだ地形やインド軍守備隊の砲弾に悩まされながらも、
当面の目標であるコタバル飛行場占領を目指して猛進した。
~
-12月9日、帝國海軍に最初の試練が訪れる。陸偵の報告により、イギリスの主力艦艇がシンガポールに停泊中と知り、午後3時に補給のためカムラン湾に回航しようとした。
その時、イギリス軍が誇る新鋭戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ]]と[[レパルス]]を基幹としたZ艦隊がシンガポールを出港。17時30分、伊65潜からの報告を鬼怒経由で知った南方部隊本隊は
カムラン湾への帰投を中止。直ちに速力14ノットでプロコンドル島東方へと向かった。しかし距離が想像以上に離れていたため、近藤中将はマレー部隊に
「翌10日午前10時にプロコンドル東方に到着するので、敵艦隊を誘引せよ」と命令。正面から艦隊決戦を挑もうと考えたのである。
[[プリンス・オブ・ウェールズ]]は強大だが、補助戦力の面では我が方が有利である。戦艦相手だろうが、魚雷なら倒せる。
-しかし伊65潜は接触を失い、巡洋艦から飛んだ偵察機は触接すら出来ていない状況だった。マレー部隊、航空隊、護衛本隊等が血眼に探すが、一向に見当たらない。
荒潮が所属する南方部隊本隊は翌10日午前3時20分、護衛編隊と合流した。その後、伊58潜がZ艦隊を捕捉し、通報。午前4時41分、南方部隊本隊にも発見の報が届いた。
Z艦隊は反転してシンガポールへ向かっているとされ、近藤中将は追撃のため午前5時に艦隊速力を24ノットに増速。潜水部隊と航空隊に位置情報を伝えた。
午前7時44分、28ノットに増速したが、あまりにも敵艦隊との距離が離れていたので午前8時15分に追撃を断念。航空隊と潜水部隊に委ねた。
-数時間後にマレー沖海戦が生起。サイゴンやサンジャックかに飛来した味方の航空隊によって[[レパルス]]と[[プリンス・オブ・ウェールズ]]は仕留められた。
あっけない最期であったが、ともあれ南方作戦最大の脅威は取り除かれた。

-12月19日午後6時、馬公を抜錨。[[足柄]]や[[摩耶]]等とともに第14軍主力と野砲、山砲、戦車約100輌を満載した陸軍の輸送船76隻と、海軍の輸送船9隻を護衛する。
敵前上陸に備えて200隻近い上陸用舟艇が用意された。翌20日16時33分、連合艦隊参謀長より「独伊の潜水艦の戦法から爆雷攻撃を受けた際、意図的に気泡や重油を放出して逃走を図る可能性あり」との
忠告を受けている。12月22日黎明、荒潮はリンガエン湾上陸を支援。悪天候に苦しめられながらも、午前5時30分には台湾歩兵第一連隊と
山砲砲兵第48連隊第三大隊の主力が上陸完了。その2時間後には4km南のサンチャゴに上島支隊が上陸した。海上に敵影は認められず。
モンスーン期によって空には暗雲が立ち込め、風浪が水上艦を木の葉のように揺らした。12月22日午後2時、哨戒機1機が飛来したが攻撃や増援は無かった。
~
-12月23日、第二期作戦に応じるため、軍隊区分を変更。この日に陸海軍協定が成立すると16時30分、小沢治三郎司令は第8駆逐隊を含む関係部署に要旨を報告した。
この時、[[大潮]]と[[朝潮]]が不在だったため、[[吹雪]]が穴埋めに投入されている。南方部隊電令第24号に従い、12月25日に荒潮は第6駆逐隊第2小隊や[[榛名]]とともに南方部隊本隊から分離。
[[榛名]]艦長高間完(たもつ)大佐の指揮下に入り、東方支援隊を編成。フィリピンや東部蘭印の攻略に従事させる事になった。ただし第8駆逐隊は第二期作戦初期に限り、
マレー部隊に編入、護衛兵力の強化が図られた。馬公への回航を命じられ、馬公入港後、マレー攻略部隊の傘下に入る。
-12月31日からはシンゴラ行きの第15軍や第25軍を乗せた輸送船団を護衛する。午前8時、船団出発に先立って湾外の対潜掃討を実施。30分後、[[摩耶]]や名取、第6駆逐隊第1小隊に護衛された
輸送船団が出発した。重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦船1隻、陸軍輸送船56隻の合計77隻に達する大船団だった。
船団は第一警戒航行隊列を組み、荒潮は最後尾についた。この日の天候は曇り。船団はカムラン湾に向けて突き進み続けた。
~
&size(21){1942年};
-1942年の元旦を洋上で迎える。1月3日午後3時30分、輸送船の明光丸に火災発生。原因は大連で積載した焼夷弾の自然発火とされている。本船にはパレンバン油田占領のための
空挺部隊こと第1挺進団第1連隊1500名が乗っていた。この危急に香椎、[[綾波]]、荒潮、[[吹雪]]、辰宮丸は救助活動に向かった。
ところが火災によって次々に弾薬が引火。手の施しようが無くなって、午後6時43分に沈没した。乗船していた第1挺進団第1連隊や船員は海へ飛び込んだ。
当時は風速8mの風が吹き、かなり海が荒れていた。それでも各艦は隊員や船員の救助に努め、全員を救助する事に成功。
陸軍の輸送隊司令は原少将に「今次の明光丸の事故に対し、貴隊の絶大なる御尽力を謝す。特に人員全部を救助せらる、感激に堪えず」と謝電を送った。
第2護衛隊司令は20時、この功績をマレー部隊、第7戦隊司令、南方部隊に伝えた。しかし兵器や資材は全損し、油田占領の任務は第2連隊329名のみで実施される事になる。
-1月4日、南方部隊電令第51号により、作戦後は馬公への回航が決定。午後、セシル・ド・メール島付近にて特設運送船小西丸が潜水艦の攻撃を受けつつあると報じた。
これを受けて原少将は午後4時17分、針路を180度に変えて迂回した。
-1月6日正午、近藤中将から蘭印部隊電令第5号を受け、マレー部隊から南方部隊に復帰。19時57分、原少将より解列とカムラン湾回航を命じられた。
1月8日に南方部隊本隊が蘭印作戦支援の目的でカムラン湾を出港するので、その直衛に充てようと考えたようである。1月8日17時、カムラン湾に到着。
同月12日に馬公付近に到達したが、特令により香港への寄港を命じられる。香港から転戦する伊東支隊をダバオへ護送する事になったが、軍無線や諸資材の到着が遅れ、
第16軍の斎木参謀と西浦参謀が苦慮。結局、出発日を1月12日にずらす羽目になった。
-1月12日、[[朝潮]]と[[大潮]]は伊東(乙)支隊を乗せた三池丸、帝洋丸、良洋丸、あふりか丸、山浦丸を護衛して香港を出発。翌13日、[[満潮]]と荒潮は馬公を出港。
台湾南方で船団と合流した(戦史叢書第003巻 蘭印作戦より)。輸送船は12ノット以上の速力を出せたが良洋丸だけは出せず、船団は鈍足の良洋丸に合わせなければならなかった。
やがて良洋丸は遅れ気味になり、落伍。[[朝潮]]が護衛として寄り添った。
-1月18日午後5時19分、司令部より良洋丸の護衛を命じられ、先行する船団から分離。[[朝潮]]と護衛を交代した。遅れる事一日、1月19日午後7時30分にダバオへ到着した。
黒潮丸から重油の補給を、運送艦鳴戸から食糧品の補給を受ける。現地で第2水雷戦隊司令の田中頼三少将と伊東支隊長が打ち合わせを行い、協定を締結。1月21日に調印された。
--次なる目標はアンボン島であった。アンボン島はセラム島の脇にある小さな島だが、セレベスとニューギニアの中間にある要衝で、
さらにアンボイナ港という深い水深を持つ良港があった。しかし連合軍の防備は極めて固く、強固な要塞が群立していた。
事前に知り得ていた情報は、アンボンには1000名の蘭印軍が駐留していたが、オーストラリア軍兵2000名が新たに増派された事、アンボン湾口及びバゴアラ湾に機雷源がある事、
アンボン湾口南北両陸地に対水上砲台があり、ハロング水上基地とラハ飛行場に対空陣地がある事。島全体が要塞化されていると結論付けた。
--開戦前の計画ではハワイ作戦の成功、イギリス海軍が誇る二大戦艦の撃沈、香港作戦の進展が達せられてから攻略に踏み切る事になっていたが、
その機会は予想より早く訪れた。帝國海軍は露払いを行うべく、第2航空戦隊による空襲を2回に渡って実施。しかし天候不順により上手く行っておらず、
苦しい戦況で敵陣に臨む事になった。

-1月22日午後6時、ダバオを出港。ケンダリー攻略で[[長良]]と[[初春]]が衝突事故を起こし、2隻と護衛の子音、[[若葉]]が離脱してしまった事から
アンボン上陸作戦の成否を危惧する声が上がったが、駆逐艦[[電]]と[[雷]]を増援に加える事で予定通り実施された。
-香港を陥落せしめ、荒潮の護衛を受けてダバオに進出してきた伊藤支隊の船団を再び護衛。人員5300名、軍馬400匹、自動車110台と
約半年分の食糧及び諸資材、弾薬半会戦分を積載していた。航行中は朝潮型が交代しつつ哨戒に当たり、荒潮は1月25日の哨戒を担当。
27日、[[神通]]の直衛を終了し反転。泊地より出発してきた輸送隊の前路哨戒を[[朝潮]]とともに実施し、19時頃にサマール島南方で会同した。
-1月31日未明、アンボン攻略戦を支援。駆逐隊と掃海隊はオランダ軍が敷設した機雷源の掃海を行った。
--陸軍部隊と海軍陸戦隊が南北から強行上陸を実施するが、海岸には遮るものが無かった。
敵の陣地は丘陵の上にあり、上陸を知るや猛烈な射撃を加えてきた。敵の猛攻に、砂に身を伏せたまま先へ進めない。
夜が明けると敵の砲撃は正確さを増し、犠牲者は増える一方。沖合いからでも分かる劣勢に、護衛艦艇の水兵たちは
いてもたってもいられなくなり、銃を取って上陸部隊に参加。斃れた陸兵の代わりに引き金を引いた。
灼熱の炎天下、飲まず食わずで必死に耐え、日没を迎えると壮絶な突撃を敢行。夜が明けると再び熱砂に身を伏せる。
これを三日三晩繰り返し、やっとの思いで敵の要塞を奪取。2月2日にはアンボイナ市と飛行場を奪取し、
全島の制圧が円滑に進められた。翌3日、アンボンは占領された。
-2月5日、[[長良]]や水上機母艦瑞穂、第8駆逐隊、第15駆逐隊等がスターリング湾に集結した。次はセレベス島の要衝マカッサルを攻略するのである。
しかし本作戦は海軍単独で進める事になり、更に攻略船団は前日から米潜水艦スカルピンに追跡されていた。
翌6日夕刻、攻略船団はスターリング湾を出港。前路哨戒を担当していた[[満潮]]がスカルピンに爆雷攻撃を行い、撃退。

-2月8日、マカッサルに接近するが天候不良となる。旗艦[[長良]]座乗の久保九次少将は各艦艇に悪天候下での上陸方法を伝える。
何とか入港し、各艦相互に通信を行って識別灯をつけた。そのせいで対潜警戒が疎かになり、そして海中からは船団が丸見えだった。
22時15分、敵潜水艦S-37の雷撃により同型艦の夏潮に魚雷1本が直撃し大破・航行不能と化す。僚艦の[[黒潮]]に曳航され、ケンダリーに避難する事になったが道中で沈没。
上陸作戦自体は成功している。マカッサル占領後、オランダ軍人や官僚たちは監獄へ収容された。

-オランダ軍の本拠地ジャワ島攻略の支援として、大本営は1月28日に予定に無かったバリ島の攻略を決定。バンジェルマシンより
ジャワ島に近いバリ島に飛行場を造る事で、円滑に攻略が進められると第11航空艦隊が主張したからだった。
投入戦力には旗艦[[長良]]、第21駆逐隊、そして荒潮が所属する第8駆逐隊等が選ばれた。作戦参加のため、2月10日午後4時にホロ島に入港。
-ホロ島ではリンガエン湾から来た金村支隊が戦備を整えていた。既に本隊は出発しており、荒潮が護衛する事になる部隊は飛行場用の資材を詰んだ後詰めである。
バリ島攻略はハ作戦と呼称された。
~
&size(18){熾烈!バリ島攻略作戦};
-2月18日午前1時、陸軍第48師団や台湾歩兵第一連隊を乗せた笹子丸と相模丸は[[大潮]]、[[朝潮]]、荒潮に護衛されてマカッサルを出港。相変わらず荒天であり、
蘭印部隊の司令官は「18日早朝の天候飛行不適なら引き返せ。この場合、バリ島作戦を更に一日延期す」と送ってきたが、現場の指揮官は強行を決心した。
-第23航空戦隊や讃岐丸の戦闘機が上空援護についた。敵の注意を引き付けるため、スラバヤを空襲している。荒潮は対潜哨戒のため単独先行。
午前4時頃、タナケケ島南西海域にて本隊と合流。カンゲアン島東端を目指し、速力16ノットで進撃を続けた。早朝、敵飛行艇の攻撃により輸送船1隻が小破するも
大局に影響せず(戦史叢書第003巻によると触接を受けただけとされている)。特設水上母艦讃岐丸、第36号哨戒艇、漁船2隻がマカッサル付近のバラバ海岸に水上基地を設置したため、
上空掩護を受けられるようになった。午前7時15分頃、讃岐丸の飛行機隊と三式戦の上空を援護を受ける。
-15時30分、カンゲアン島東端に達し、ロンボック海峡に舳先を向ける。日没を迎えた19時頃、予定通りスラバヤの200浬圏内に到着。ここで荒潮が先行し、泊地掃討を実施。
拘束機雷の類は発見されなかった。

-2月18日23時、船団がバリ島サヌール泊地へ到着。翌19日午前0時15分より上陸が開始された。第8駆逐隊司令部は「予定地点に上陸成功、敵の抵抗無し。19日〇一〇〇」と報じた。
上陸部隊は引き続き、人員と機材の揚陸を進めた。至近の陸岸に上陸してもなお、敵の反撃は無かった。金村支隊は闇夜と荒天を上手く利用し、デンパッサル兵営を奇襲して占領。
連合軍の抵抗を排除し、午前11時30分にはゴータ飛行場を占領した。
-ところが連合軍は空から執拗に攻撃してきた。午前7時22分に迎えた夜明けとともに少数のB-17が飛来。午前8時、3機のB-17が船団を爆撃したが被害無し。
30分後、敵重爆(機種不明)が襲来し、相模丸の中部に直撃弾が出て機械が使用不能になる。午前10時頃、敵爆撃機4、5機が襲来するが被害無し。
午前10時30分から午前11時にかけて、敵飛行艇3機と重爆5機が空襲。これも被害無し。以降は常に1機か2機の触接機が旋回し、少数機による反復爆撃を繰り返してきた。
このため、機銃員は常に機銃座にしがみ付く羽目になった。加えて海中からは敵潜水艦シーウルフの魚雷まで飛んできた。午後4時30分、[[大潮]]が雷撃を受けたが回避。爆雷で制圧している。
猛攻は日没まで続き、相模丸と笹子丸が被弾した。17時、揚陸作業は殆ど終了。第8駆逐隊は二手に分かれ、荒潮は[[満潮]]とともに相模丸を護衛。
17時25分、相模丸と笹子丸は敵潜の襲撃を警戒してロンボック海峡北方へ一時退避した。
-2月20日午前0時、上陸作戦を終えて出港。7ノットの速力で、マカッサルへ帰投を始めた。月齢4、曇天の暗夜だった。ところが潜水艦からの通報で出撃していた連合軍の艦隊が接近。
距離6000mにまで近づいていた。内訳は蘭軽巡3隻に米駆逐艦6隻と、完全に第8駆逐隊の戦力を上回っていた。
別行動中の[[大潮]]と[[朝潮]]が敵艦隊と遭遇、報告を受けた第一根拠地隊司令久保少将から援護に向かうよう命じられ、護衛を中止。午前1時45分に荒潮と[[満潮]]は反転し、
ロンボック海峡へ急行。相模丸は単独でマカッサルを目指した。

-午前3時前、蘭軽巡1隻と米駆逐艦4隻がサヌール泊地へ侵入し、バリ島沖海戦(第二ラウンド)が始まる。敵は蘭軽巡トロンプと米駆逐艦スチュアート、ビルスバリー、パロット、エドワーズで、
米駆逐艦群を先頭に進んでいた。25ノットで遁走中の午前3時6分、サヌール泊地へ向けて魚雷を発射。しかし当然の如く外れる。そこへ追撃中の[[朝潮]]と[[大潮]]が追いつき、交戦を再開。
やや遅れること午前3時40分、バリ島近海のバタン海峡東口に戻ってきた荒潮と[[満潮]]は左舷前方にて閃光を確認する。これは[[朝潮]]と[[大潮]]が連合軍艦隊と交戦している光だった。
2隻は応援に駆けつけるべく、戦場となっているバドゥン海峡を目指す。すると突然、右舷前方のバリ島の陰から敵駆逐艦2隻が出現する。米駆逐艦スチュワートとジョン・D・エドワースである。
午前3時47分、距離3500mで砲撃戦が始まった。砲戦開始直後に敵の一番艦轟沈を確認するも、間もなく左舷距離1600mに反航する敵駆逐艦ビルズバリーが出現。
知らず知らずのうちに左右を挟まれてしまう。その後ろには[[朝潮]]と[[大潮]]が追跡している蘭軽巡洋艦トロンプの姿もあった。不運にも、[[朝潮]]たちが交戦していた敵が
荒潮たちの方へと逃げてきたのである。
-午前3時47分、ビルズバリーへの砲撃が始まる。荒潮と[[満潮]]は敵駆逐艦ビルズバリーに接近し、一時は1600mにまで接近して攻撃した。
ビルズバリーはメチャクチャに砲撃を放ち、前方を走っていた[[満潮]]の機関室に命中、航行不能となる(異説ではスチュワートの砲撃とも)。
短い交戦の末、ビルズバリーは砲煙の中に姿を消した。続いて荒潮は左舷前方3000mに敵巡洋艦2隻を認め、午前5時に砲撃開始。敵艦からも砲撃され、反航戦となる。荒潮は2〜3斉射を行ったが、
互いに決定打は与えられなかった。だがトロンプに命中弾を与えて左舷探照灯を破壊。既に[[朝潮]]や[[大潮]]とも交戦していたトロンプは中破した。
更に右舷反航の駆逐艦も大破と認められる。すれ違った後、連合軍艦隊は離脱。連合軍は魚雷艇5隻による第三陣を編制し、海峡へ突入させたが、結局発見できず通過しただけに終わった。
こうしてバリ島沖海戦は終結した。サヌール泊地には沈没したピートハインの乗組員が漂着。士官1名、下士官9名が第8駆逐隊の各艦に収容された。尋問の結果、敵の詳細な陣容が明らかになった。
--連合軍側の被害は蘭駆逐艦ピートハイン沈没、蘭軽巡トロンプが中破。日本側の被害は[[満潮]]大破に留まった。
数の上では劣勢だったにも関わらず、上陸船団を守りきった事で海戦は日本側の勝利となった。
--主要海戦に参加できず、反航戦のみの戦闘で終わったため荒潮は主砲を73発発射(12斉射)しただけだった。
第8駆逐隊司令部からの報告を受け、大本営は2月21日に、敵駆逐艦2隻撃沈、1隻大破、我方駆逐艦1隻損傷と発表した。
宇垣連合艦隊参謀長は「バンダ海峡における第8駆逐隊の海戦振りは誠に見事なり。蘭巡洋艦2、蘭米駆逐艦3撃沈その他2に大損害を与えたり。
これをバンダ海峡夜戦と銘打って世に問うべき。一駆逐隊を以って誠に立派なる夜戦なり」と称賛の言葉を贈った。

-2月20日午前10時、荒潮は[[満潮]]を曳航。サヌール泊地を出発した。8ノットの速力でマカッサルを目指すが、道中でB-17爆撃機の空襲を受ける。
回避運動の際に曳索が切断され、更に至近弾によって[[満潮]]の浸水が悪化する。[[大潮]]もまた至近弾で浸水し、10ノット以上は出せなくなった。
久保少将は艦隊を三つのグループに分けた。荒潮は[[朝潮]]とともに行動。それぞれ[[満潮]]と子日を曳航していた。13時過ぎから7機の重爆が襲撃し、
夕刻までに延べ26機から空襲を受けたが幸い被害は無く、スラバヤの200浬圏外へ脱した。22日午前1時30分に無事マカッサルへ入港。
蘭印部隊司令高橋中将は22日午後、第8駆逐隊を主隊へ編入。マカッサルで待機するよう命じた。
-すぐにバリ島へ向かう輸送船団を護衛する事になったが、連合軍の抵抗が予想以上に激しかったため護衛戦力を増強。輸送船4隻を、旗艦[[長良]]、駆逐艦5隻、駆潜艇5隻、敷設艦筑紫で護衛する。
洛東丸、興津丸、とよさか丸、第三日の丸、嘉東丸には機材が満載された。
--本来、2月21日より第8駆逐隊は旗艦[[足柄]]を護衛する予定だったが、[[満潮]]と[[大潮]]の戦線離脱により、急遽第6駆逐隊第2小隊([[電]]と[[雷]])が代理を務めた。
-2月23日18時、第二次輸送隊を護衛してマカッサルを出港。翌24日午前10時、敵1機の触接を受けたが攻撃は受けなかった。17時、船団がスラバヤの約230浬圏内に達した頃、
味方航空機が敵艦隊を発見。バリ島の飛行場を砲撃すると予想され、[[長良]]、[[朝潮]]、[[若葉]]、[[初霜]]、子日とともにカンゲアン諸島とバリ島の中間に進出し、索敵。
しかし会敵出来ず、連合軍の妨害も無かった。2月25日午前8時、輸送船団はバリ島泊地に到着。2月末までに揚陸と掃討を完了させた。敵機若干数から空襲を受けたが、被害無し。
また敵水上艦も何隻か出現したが、いずれも及び腰で攻撃を加える事無く逃げ去った。バリ島の占領は時間の問題となった。
3月5日、バリ島攻略作戦は完了。第8駆逐隊は山本五十六長官から感状を賜った。
-2月24日午前2時50分、南方部隊司令よりジャワ島付近への進出を命じられる。「ジャワ一帯の敵兵力を漏れなく包囲殲滅し、南方作戦大局の戦果を拡充大成すべし――。」
~
&size(18){ジャワ島攻囲};
-損傷した[[大潮]]と[[満潮]]が戦線離脱し、マカッサルで修理中となったため、[[朝潮]]と激次元タッグを組んでオランダ軍の本拠地ジャワ島攻略作戦に参加する。
味方航空隊や潜水艦隊とともに海上封鎖を実施し、島から脱出してくる敵艦艇を求めて遊弋した。重油の取り引きを懇願する日本を足蹴にし、低品質の重油ばかり高値で売っていた
傲慢なオランダは今や、日本艦隊に包囲され風前の灯と化していた。

-3月1日午前0時21分、5000m先に浮上中の敵潜水艦を発見。追跡を行ったが、敵は潜航。爆雷攻撃を実施したものの効果不明。午前1時2分、蘭印部隊に報告した。
午前9時28分、[[神通]]がバウエアン島近海にて敵潜水艦から雷撃を受ける。2本の魚雷が伸びて来たが回避に成功し、魚雷は[[神通]]の艦尾1000mをすり抜けた。
ただちに荒潮と[[朝潮]]が制圧に向かい、午前9時35分に爆雷を投射。潜水艦1隻を撃沈した。艦名は不明だが、撃沈確実の戦果として記載されている(第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報)。
3月5日午前2時5分、第8駆逐隊司令の指揮下に第21駆逐隊を加える。
-3月9日午前0時45分、バリ島北方のマドゥラ海峡にて、スラバヤからオーストラリアへの脱出を図ったオランダ海軍の大型掃海艇''ヤン・ファン・アムステル''((ヤン・ファン・アムステル級掃海艇一番艦。あらゆる局面に対応できるよう船体を大型化し、武装も強化されている。ジャワ島に配備されていたが、3月6日の空襲で23名の乗員が死亡している。))を
砲撃で撃沈する戦果を挙げる。午前2時30分、第8駆逐隊司令部はこの戦果を第2水雷戦隊司令に報告した。午前3時、田中少将は荒潮にマカッサルへの回航を命じる。
現地で速やかなる補給を受けたのち、サヌール泊地から出港するクーパン行きの船団を護衛するよう下令。荒潮が抜けた穴には駆逐艦初風が充てられ、
荒潮が帰還する翌10日まで[[朝潮]]と初風が警備を担当した。
--そして同日中にジャワ島のオランダ軍は降伏。本拠地を攻め落とした事で、蘭印作戦は成功に終わった。脱出を図った駆逐艦3隻、小艦艇・商船14隻を撃沈し、商船4隻が拿捕された。
3月13日21時10分、第2水雷戦隊は蘭印部隊から除かれ、南方部隊本隊に復帰。速やかに所属軍港へ回航し、整備に従事するよう命じられた。

-3月14日、駆逐隊司令に小川莚喜中佐が着任した。19時57分にマカッサル到着。3月15日午前7時、マカッサルにてタンカー玄洋丸から重油の補給を受ける。午前8時45分、完了。
修理のため午前9時にマカッサルを出港。[[朝潮]]とともに[[神通]]を護衛しながら中継点のパラオを目指す。速力14ノットで、昼間は之字運動を行った。
-暗礁に乗り上げて損傷した[[加賀]]は修理のため、パラオから内地へ回航する予定になっていた。その護衛は第15駆逐隊が請け負っていたが、3月16日13時10分に第15駆逐隊は
「[[加賀]]の護衛に第8駆逐隊([[朝潮]]と荒潮)が適当」と二水戦や[[加賀]]に伝達。二水戦は18日午前11時にサンオーガスチン岬沖で[[加賀]]と合流、護衛を交代するよう命じた。
しかし燃料の都合上、本土近海までは14ノット以上の速力が出せない制約が付いた。第2艦隊もこれを承認し、第15駆逐隊から引き継ぐよう命じたが、[[加賀]]側から任務に不適と言われ、急遽中止。
-3月18日午前10時30分、パラオに到着。[[黒潮]]と合流した。燃料補給を受け、翌19日午後5時に出港。横須賀に向かった。24日午前9時、[[朝潮]]とともに横須賀帰港。3月25日から4月15日まで修理を受けた。
翌16日、前進部隊電令作第3号により[[朝潮]]ともども前進部隊から除かれ、南方部隊に編入(5月中旬に復隊予定)。第8駆逐隊は第2艦隊第4水雷戦隊に転属した(4月10日)。
-4月16日14時46分、荒潮は新たな指令を受け取る。未だ抵抗を続ける米比軍のコレヒドール要塞の攻略を支援するため、4月17日に呉を出発。31日正午にスビック湾へ進出する予定だったが、
その前に想定外の事態が発生する。
~
-4月18日、ドゥーリットル空襲が発生。荒潮が停泊していた横須賀にもB-25爆撃機1機が飛来し、3発を投弾。空母に改装工事中だった大鯨や楠ヶ山、海軍工廠造機部機械工場にそれぞれ着弾。
被害を受けたが、他の在泊艦艇には被害が及ばなかった。僚艦とともに発砲したが、敵機に命中せず。敵機は市街地を銃撃しながら西方へと消えていった。
逃走する米機動部隊の追撃に向かうべく、[[愛宕]]に率いられて午後5時に東京湾外へ出撃。東方海域の索敵を行った。
-翌19日早朝、三河湾から出港してきた[[摩耶]]と合流し、敵の進攻地点を推定。索敵を行ったが、敵情を得られず。20日、敵の補給地点を推定し再度索敵を行うも、これまた捕捉に失敗。
4月20日夕刻、「対米国艦隊作戦第三法止め」と命令を受けて作戦中止。追撃部隊は反転した。道中で[[摩耶]]と駆逐艦巻雲を分派し、ソ連船の臨検へと向かわせた。
帰投中の4月22日午前9時、一番主砲の防水帯が故障。浸水の恐れがある事から、僚艦から離れて速度を半速に落としている。このため僚艦は22日中に入港したが、荒潮だけは遅れていた。
4月23日夜、横須賀へ帰投。

-4月24日、荒潮は横須賀を出港し、5月1日にリンガエン湾へ進出。4月30日に比島部隊兵力部署から除かれた第2駆逐隊の穴埋めとして、[[朝潮]]ともども東南アジア最後の砦となった
アメリカ軍のコレヒドール要塞攻略の支援に差し向けられた。荒潮は機雷敷設艦八重山等からなる封鎖部隊に協力、船団護衛を終えた[[朝潮]]も合流し、アメリカ軍に圧力をかけた。
最後の砦だけあって兵力も防備も重厚だった。攻略開始から既に2週間以上が経過していたが、未だに上陸すら出来ない。日米ともに激しい砲撃を繰り返す。
-ついに5月2日、コンクリートを貫いた1発の弾丸が弾薬庫で炸裂。要塞は大爆発を起こした。
-5月5日夕刻、第4師団約5000名は二手に分かれて上陸。上陸した途端に激しい砲火を受け、約900名が死傷。アメリカ・フィリピン軍が洞窟から出てきて逆襲し、
翌6日正午頃まで乱戦が続いた。が、その直後に敵軍は白旗を掲げた。コレヒドール陥落を以って、東南アジアは完全に日本の手中に収まった。
-作戦後の5月11日、コタバルを出港。ホロを経由して、13日にマニラへ入港。補給の上、翌14日に出港した。5月15日、修理中の[[大潮]]と[[満潮]]が第8駆逐隊から除かれ、
[[朝潮]]と荒潮の2隻体制となる。次期作戦の都合上、5月17日に南方部隊から除かれた。
-5月18日午前7時30分、呉に帰港。休む間も無く、同月20日にミッドウェー作戦の参加が決定。栗田健男少将率いる第7戦隊の護衛を命じられ、急速に戦備を整える。
22日16時45分、[[朝潮]]とともに豊後水道で第7戦隊と合流。左右に分かれて護衛を開始する。行き先は知らされなかった。
日本近海には敵潜水艦が確実に潜んでいる事から、対潜警戒を厳にしながら一路南下した。当初はサイパン寄港の予定だったが、敵潜水艦出現の報により
急遽行き先をグアムへ変更している(戦史叢書第043巻 ミッドウェー海戦)。
-マリアナ諸島近海には敵潜水艦の出没が相次いでいたため、5月26日黎明に第7戦隊の巡洋艦から1機ずつ艦載機を出し、対潜警戒を行っている。
~
-5月26日午後3時、グアム島アプラ港に入港。気温が高く、総員防暑服へと着替えた。攻略部隊司令部は、サイパンに集結している攻略部隊の指揮を栗田少将に執らせようとしたが、
第7戦隊とその護衛が港内に入ってしまったため、サイパン部隊を統制しなかったと白石参謀は語っている。同日午後、サイパン停泊中の攻略部隊と打ち合わせ。
燃料と真水を補給し、加えて日用品と菓子を山のように積み込む。その量は6ヶ月分に及んだ。
-日栄丸の補給用重油を節約するため、第4艦隊配属の油槽船さんぢえご丸をグアムに呼び寄せ、夕刻に到着。入泊の際、海図に乗っていない暗礁に少し触れる事故があったが、異状無し。
26日中に荒潮と熊野がさんぢえご丸から燃料補給を受ける。翌27日に僚艦が燃料補給を受けたが、荒潮だけは28日にも受けている。
-5月28日17時45分、アプラ港を出発。対潜警戒を厳にしつつ進撃、第7戦隊及び6000名の陸海兵を乗せた輸送船団を護衛して作戦海域へ向かった。
6000名の兵力はミッドウェー島に上陸させるためのもので、占領後を見越して郵便局長や文官も便乗していた。
--予定では、6月7日黎明に戦艦部隊の援護の下で敵前上陸を行う事になっていた。敵の激しい抵抗が予想されるため、呉五特の一個小隊を陽動隊として
サンド島の背面から上陸させる手はずだったという。イースタン島とサンド島を占領した後、第7戦隊、荒潮、[[朝潮]]はサンド島の水上機基地設営を支援。
速やかに基地化させる事になっていた。
-第7戦隊と[[朝潮]]、荒潮の艦隊は支援隊と呼称された。サイパン島から出港してきた第2水雷戦隊と一木支隊を乗せた船団との合流を目指すが、グアム島付近では
敵潜水艦の出没情報があった。このため擬航路を取って一旦南下。ロタ島の南を東に回り、支援隊は攻略船団を視認。互いに確認し合いながら一定の距離を保ちつつ
之字運動を実施。ミッドウェー方面を目指した。
-5月29日午前1時30分、攻略船団を護衛する味方航空機を確認。船団の南側を航行する。午前5時15分から日没まで、之字運動を実施。
翌30日も午前5時30分から日没まで之字運動を行った。出現が相次いでいたものの、敵潜水艦の襲撃は無かった。まるで嵐の前の静けさのように……。
-航行中の5月31日黎明、攻略船団を見失ってしまう。午前7時、第7戦隊は再び艦載機を飛ばして索敵を行う。午前11時41分、給油船日榮丸から曳航補給を受ける。
旗艦熊野の支援隊司令部では「我々の左後方に続行している」と判断し、6月2日に約3時間反転して合流を試みた。しかし船団は見当たらない。念のため3日、4日にも反転したが、
やはり合流は叶わなかった。実は、攻略船団は予定航路の前路に敵潜がいるとの情報が入ったので、針路を変更していたのである。ところが無線封鎖中だったため、
変更を支援隊に伝える事が出来なかった。6月4日夜、攻略船団がミッドウェー島から発進してきた敵飛行艇の空襲を受け、発した電文によって初めて支援隊は船団の位置(北方約100海里)を
把握したのだった。しかし支援隊司令部はこのままでも支障は無いとして、船団に接近する措置は取らなかった。
~
&size(18){ミッドウェー海戦、呪われた血染めの海から友軍を守れ};
-6月5日、ミッドウェー海戦に参加。午前7時30分に給油艦日枝丸を分離し、以降荒潮は第7戦隊に寄り添って航行していた。早朝、味方の機動部隊を襲うアメリカ軍の攻撃が苛烈となり
その悲報が続々と寄せられてきた。やがて先鋒を務めた[[赤城]]、[[蒼龍]]、[[飛龍]]が大破炎上し、雲行きが怪しくなってくる。
-異常事態を察し、支援隊は午前10時30分に本隊と合流すべく針路35度、速力28ノットで移動していた。
この時、第7戦隊は本隊である第2艦隊の南方約120浬の地点にいた。第2艦隊司令近藤中将は第7戦隊が最もミッドウェー島に近かったため、
午前10時50分にミッドウェー島砲撃を下令。砲撃の命令を受けた栗田少将は午前11時15分、針路75度に変針。敵陣に向かって走り始めた。
荒潮と[[朝潮]]は重巡4隻の斜め前方につき、前路哨戒を担当する。
~
-午後12時25分、戦隊司令の栗田健男少将は速力を32ノットに増速。巡洋艦はグングンと加速したが小型な[[朝潮]]と荒潮は波に阻まれ、
上手くついていく事が出来ない。徐々に距離を詰められ、追い越され、夕刻の頃には後方の水平線上を喘ぎながら進むのが精一杯の状態になっていた。
やがて巡洋艦は水平線の向こうに消え、2隻は完全に置いてかれた。駆逐艦を突き放した第7戦隊は対潜警戒が出来なくなり、
丸腰同然で米潜水艦4隻が潜む海域へと足を踏み入れたのである。これが後の悲劇の引き金となってしまう。
--日没後、早速第7戦隊はタムバーに発見され、位置情報をハワイの潜水艦隊司令部へ通報されている。
しかも栗田艦隊側は潜水艦の追跡に気付いていない有様だった。不幸中の幸いだったのは、雷撃が出来ない位置と距離にいた事だった。
-21時45分、戦艦大和から砲撃中止命令を受けて反転。置いてかれた荒潮と[[朝潮]]は本隊と合流したが、[[最上]]と衝突した[[三隈]]の救助を命じられ、
再びミッドウェー方面へ向かう。異説では午前6時25分に栗田少将から2隻の救助を命じられたとしている。しかし燃料不足のため、
重巡から燃料を分けて貰った上で急行した。6月6日夜、第2艦隊長官から栗田少将に対し「[[朝潮]]、荒潮を[[三隈]]、[[最上]]の護衛に派遣する」と電文が届き、
続いて[[朝潮]]から合流地点と日時の指定がされた。
~
-6月7日午前5時、米軍機に追われ、命からがら脱してきた[[最上]](大破)や[[三隈]]と合流(午前0時30分頃という異説あり)。[[最上]]の左右について護衛を開始し、
西方に向けて退却を始めた。しかし[[最上]]が艦首を大破しているため、出せる速力は14ノットと低速であった。更にアメリカ軍は日本側の暗号を解析しており、
4隻集まったところを一気に爆撃してやろうと手ぐすね引いて待ち構えていた。一方で、敵は4隻を「戦艦と空母の艦隊」と誤認していた説がある。
ともあれ、報告を受けた敵将スプルーアンスは午前6時に攻撃を下令。そこを歩くという、恐怖が幕を開けた。
--午前6時30分、[[最上]]の左舷後方から敵機が接近。[[ホーネット]]から出撃した34機が襲い掛かってきた。全艦対空砲火を放つが、
それを掻い潜って敵機が急降下爆撃を仕掛ける。[[最上]]に2発の爆弾が直撃し、より深い傷を負わす。
4隻の艦艇は一網打尽にされるのを防ぐため、各々散開して対空戦闘に励んだ。
--午前7時15分、敵水上機2機が触接。付近に敵水上艦艇が迫っている事を如実に物語っていた。午前8時5分、敵飛行艇が飛来。
支援隊は針路270度、速力15ノットで逃避行を続ける。午前8時52分、触接する敵水上機が4機に増える。
東南方に敵水上艦らしきマストが発見され、いよいよ視認できるほど敵艦隊に接近された。このままでは全滅は不可避である。
黄泉の使いから伸びる死の腕が、支援隊を抱こうとしている。戦後の記録によると、敵重巡4隻が迫っていたのだと言う。
--午前9時31分、今度は[[エンタープライズ]]から飛来した米軍機を迎撃する。再び[[最上]]に3発の命中弾が出て、敵は撃沈を確信したが[[最上]]は不死身だった。
[[三隈]]も5発の爆弾と2発の至近弾を受け、午前10時20分に火災発生。敵の執拗な攻撃は止まらない。午前11時35分、[[ホーネット]]から32機が襲来。
[[三隈]]に20発もの爆弾が命中し、ついに航行不能に。
-これを見た荒潮は空襲の間隙を縫って満身創痍の[[三隈]]に接近。前方の水平線上からぐんぐんと近づいてくる荒潮を見て、[[三隈]]乗員の間では歓声が上がった。
荒潮が助けに来てくれたぞ、と。[[三隈]]付近まで移動すると、舷側に縄梯子を降ろした。既に海面へ脱出していた乗員はこれを懸命に登った。
救出された乗員は兵員室へと通された。荒潮は乗員240名の救助に成功。献身的な救助活動が行われたが、無情にも[[エンタープライズ]]艦載機が引き裂く。
襲来した敵機は、海面に漂っている100名以上の[[三隈]]乗員を見るや、躊躇せず機銃掃射を浴びせてきた。紺碧の海が血で染まり、悲鳴と絶叫が一面に轟く。鬼畜の所業である。
荒潮艦内では「敵来襲!」の叫び声が上がり、先に救助されていた乗員が甲板で仲間を心配する。やむを得ず荒潮は交戦を開始し、機関を始動させた。海に浮いている仲間を残して。
救助された者たちはそれに対抗すら出来ず、ただ涙を飲むばかりだった(古村啓蔵氏著書「重巡十八隻 血染めの重巡三隈にあがった絶叫かなし」)。
-正午頃、ついに第3砲塔に1発の直撃弾を喰らい、中破。乗員37名が死亡する。人力操舵に切り替え、護衛任務を続行した。ふらふらと艦が揺れたため、
人力で艦に追随するには大変苦労したそうな。
---被弾の影響で火災が発生。電気長から「この配電盤を焼いてしまうと電気が止まって動かなくなる。守ってくれ」と言われ、2名の乗員がバケツリレーで
電盤が付いた鉄板に水をかけ続けた。12時間休みなしの活動により延焼は避けられ、艦は動き続けた。
-被害を避けるため[[三隈]]から離れつつ対空砲を撃つ。午後12時25分頃、[[三隈]]は第2艦隊司令長官に向けて平文電報を打った。
「われ敵を誘致するごとく行動す。針路270度、速力20ノット」。実際は20ノットなんて到底出せない強がりであったが、これが功を奏した。
背後から追っていた敵艦隊がこれを真に受け、逃げ出したのである。[[三隈]]の機転が、敵を退散させたのだった。
-しかし[[三隈]]はもう今際の時を迎えていた。[[朝潮]]と荒潮に対し、大破した[[最上]]の護衛につくよう命令。
自身は単独でウェーキ島への撤退を目指した。海面にはまだ100〜150名の生存者が漂っていたが、涙を飲んで彼らを見捨てた。
徐々に遠ざかっていく[[三隈]]に、またしても爆弾が直撃する様子が見えたという。

-荒潮と[[朝潮]]は、[[最上]]を守りながら戦域から退避した。三隈の最期には諸説あり、雷撃処分をせずに退避した説、
空襲から退避したのち再び現場へ駆けつけると既に三隈が沈没していた説、[[朝潮]]とともに[[三隈]]を雷撃処分した説がある。
海軍の公式記録上では[[朝潮]]とともに雷撃処分したとされている。[[三隈]]が敵の攻撃を吸収したため、[[飛龍]]の雷撃処分に向かっていた[[谷風]]への攻撃が弱められたとする意見もある。
先頭を[[朝潮]]が走り、その後ろを大破した[[最上]]が続航する。荒潮は損傷で速力が出せず、遅れ気味だった。[[最上]]の後方20kmを追随していたが、
[[最上]]からは荒潮の姿がまるで見えなかったという。まだ見えぬ本隊を探して、恐怖の海を駆けた。

-6月8日午前2時15分、本隊の第2艦隊は[[最上]]と荒潮を探すため偵察機を飛ばした。その直後、第2艦隊の背後を横切る形で西航している[[最上]]を発見。
しかし荒潮の姿が見えない。心配した第2艦隊旗艦より「駆逐艦1隻はいかにせしや」と発光信号が送られてきた。[[最上]]は「荒潮は我が後方20km付近を人力操舵にて続行中」と返した。
近藤司令は午前3時に艦隊を反転させ、約1時間後に荒潮を収容した(午前4時30分とも)。上空には味方機の爆音が響き渡り、前方には20隻以上の艦艇が朝焼けの空を背景に佇んでいる。
やっと敵手から逃れられた瞬間だった。先行していた[[最上]]と[[朝潮]]からは遅れる形で第2艦隊と合流を果たした。合流後、艦隊とともに南下。
-午後3時、荒潮のマストに「我、今より水葬を行う」を意味する旗流信号が掲げられた。甲板には94体の遺体が並べられ、水葬が行われた。海ゆかばが演奏され、
重しとして砲弾1発を付けて、遺体を海中へと落としていった。ドボン、ドボンと音を立てた後、しばらくは浮いていたが次第に沈んでいった。
-翌9日、日栄丸と合流し燃料補給を受ける。この海域には敵潜水艦が出現する情報が入っていたが、何事も無かった。大破した[[最上]]を逸早く修理するため、
山本五十六長官はトラック島への回航を命令。第7戦隊とともに艦隊から分離し、護衛として第18駆逐隊が付けられた。[[最上]]と荒潮の損傷は酷く、速力が出せない状態だった。
こんな時に敵襲を受けたら大変だが、幸い道中は平穏だった。
~
-6月14日午前8時50分、トラックに入港。[[鈴谷]]と熊野は先に入港していたようだ。同月16日から第4工作部に入渠した。
検査の結果、6月17日に[[明石]]艦長より「内地回航の目途無し」と診断された。とりあえず戦闘航海が出来る程度に応急修理をしてみる事になり、完了予定日は7月6日とされた。
-6月18日より[[明石]]と第4工作部から応急修理を受ける。毎日のように[[明石]]から技術者と工員が訪れ、損傷箇所の修理が行われた。6月24日、出渠。
-7月10日、横須賀鎮守府海軍工作学校に加えられ本土での修理が決定。翌11日、前進部隊に所属。横須賀鎮守府予備駆逐艦になる。
同月15日、本格的な修理のためトラックを出港。途中でサイパンに寄港しながら、7月23日に佐世保へ到着し、しばらく修理を受ける。
ミッドウェーの敗戦を隠匿するためか、何故か入院させられる乗員もいた。8月1日、警備駆逐艦となる。
-10月15日、荒潮の予備魚雷8本を陸揚げし、後部甲板に大発動艇搭載装置の新設が命じられる。同日中に原徳三郎機関特務大尉が機関長に赴任した。
-荒潮が入渠している間に、戦況は大きく変わっていた。アメリカ軍のガダルカナル島襲来によって、ソロモン戦線の形成とガ島争奪戦が生起。
一木支隊の壊滅、[[比叡]]及び[[霧島]]の喪失、補給線の寸断などが重なり、打開策の無い泥沼と化していた。10月12日には朝雲が空襲で撃沈され、朝潮型初の犠牲者が出た。
~
&size(18){ソロモン方面で輸送任務に奔走};
-10月20日、修理完了。第8駆逐隊は第8艦隊へと編入された。駆逐隊司令として山代勝守大佐が着任した。人事異動も行われ、10月28日に坂根重蔵予備中尉が航海長になり、
11月1日に広川格教中尉が水雷長に、吉村五郎中尉が砲術長に着任している。11月5日午後12時15分、第三小倉丸から補給を受ける。午後9時、作業完了。
-11月12日に佐世保を出港し、ラバウルに進出。それから間もない11月15日、アメリカ軍がブナ方面に上陸したとの急報が入る。
翌16日、荒潮は外南洋部隊から増援部隊に転属させられ、オーストラリア軍との戦闘が激化している、ニューギニアのブナ方面へ輸送任務に従事する。
戦線復帰した荒潮の下に第8艦隊司令部から戦況報告が届く。「ビスマルク諸島及びソロモン周辺海域、特にカビエン、セントジョージ岬、ブカ、ショートランド沖は敵潜の跳梁が激しく、
掃討制圧に努めつつあるも、なお被害頻発しつつある情況に鑑み当方面行動船舶は試しうる限り船舶2、3隻に対し護衛艦2隻を配する事を行う要を認む」との事。
-11月22日、ラバウルを出港。駆逐艦風雲、夕雲、巻雲とともに陸兵800名と弾薬・食糧をバサブアへ揚陸した。同日中に第18戦隊司令松山光治少将の指揮下に入る。
--ポートモレスビーの攻略を目指す第18軍(南海支隊)は7月にブナへ上陸し、陸路で南下していた。オーストラリア軍と交戦しながら
8月28日に山間部のココダを占領、9月12日にはイオリバイワまで前進した。遥か南にモレスビーの灯りが見えたという。
しかし未整備未開の進軍路に加え、補給線の途絶により南海支隊は筆舌しがたい苦しみに喘いでいた。対するオーストラリア軍は潤沢な物資を持っていた。
苦戦する南海支隊を支援するため、荒潮は駆逐艦輸送の1隻に選ばれる。11月30日、増援の報せは南海支隊にも届き、
「明日(12月1日)、ラバウルから増援部隊が来る」と横山大佐が精気の無い顔で説明した。
~
-11月28日午前8時37分、外南洋部隊信電作第137号により、駆逐艦8隻からなる輸送任務に参加する。まず第一陣として、翌29日に第10駆逐隊主導でブナ方面への輸送作戦が行われたが
敵の激しい空襲に遭い、巻雲と[[白露]]が被弾。成算が極めて少ないとして中止となってしまった。続く第二陣は第8駆逐隊主導で実施される事になった。
もはや失敗は許されない。悲壮の覚悟を持って、任務へ身を投じる荒潮。

-11月30日午前2時、[[朝潮]]とともに国洋丸の右舷に横付けして補給を受ける。午後1時、作戦打ち合わせのため久保木艦長が第8艦隊司令部に赴いている。
18時、掌砲兵1名が機銃要員として各駆逐艦に派遣された。予想される激烈な空襲を想定しての配置だった。

-12月1日午前0時、風雲、夕雲、[[朝潮]]、磯波、[[電]]とともに第一次ブナ輸送に従事すべくラバウルを出港。山県栗花生少将と独立混成第21旅団約740名を便乗させていた。
敵飛行機を発見した時は、最寄りの駆逐艦が煙幕を張る事になっていた。午前9時5分、B-17爆撃機1機を右舷側にて確認。触接を続け、艦隊にまとわり付く。
--午前10時37分、零戦6機が駆けつけ空中戦が行われる。しかし敵軍も増援を送り、B-17が1機追加される。時間が経過するにつれ、B-17の数が増えていく。
一時は5機のB-17に触接される事態になった。そして午後12時37分、いよいよ襲い掛かってきた。各艦は対空砲火を上げて迎撃。速力を最大戦速にし、回避行動を行う。
そこへ味方戦闘機3機が現れ、空戦が繰り広げられた。更に応援の5機が駆けつけ、計8機となった戦闘機隊はB-17を追い払った。その後、しばらくは駆逐艦の上空援護を実施。
--13時25分、前方よりB-17爆撃機5機が接近。[[電]]から機関を20分間全力運転と命じられ、敵機を振り切ろうとした。機関の異状は無く、大海原を突っ走る。
だが敵の攻撃はしつこく、13時40分に荒潮が投弾を受ける。周囲に小さな水柱が立ったが、命中しなかった。その後も執拗な触接は続き、味方戦闘機との交戦が行われた。
15時22分、B-17爆撃機6機が直上に飛来。危険を察知した磯波が煙幕を展開したため、難を逃れた。14分後、味方戦闘機により敵機1機が撃墜された。
16時25分、ラエ基地から第8駆逐隊宛に「B-24が3機北西に向かっている」と連絡を受ける。空では味方機と敵機が乱舞している。乱戦の中、味方戦闘機を突破したB-17爆撃機6機が
輸送隊に襲い掛かる。スルミ基地とラエ基地宛に交戦状況と現在位置を送る。悪夢はまだ終わらない。
--17時30分、日没に伴って灯火管制を敷く。未だに敵機が去来し、心休まる暇は一瞬たりとも無かった。17時47分、6機のB-17が右方向より接近。
荒潮が爆撃を受けるが被害無し。煙幕を展開するが、3分後に再び爆撃される。その時の水柱は巨大で、荒潮の船体が覆い隠されてしまったという。
その後も続いた空襲により隊列は乱れ、瓦解寸前になりながらも何とか保ち続けた。18時18分、荒潮の後ろに磯波がついた。9分後、煤煙幕を展開。触接中のB-17を撹乱する。
敵の攻撃は留まるところを知らなかった。吊光弾が投下され、駆逐隊を追いすがる。20時53分、投弾を受けるも命中せず。爆撃は続き、21時25分に「爆撃を受けつつあり」と電報を打っている。
--21時58分、ようやく陸岸らしきものを右方に確認。この頃、細雨が降り出した。苦労の末、揚陸地点のバサブア泊地に到着。物資を運ぶ大発動艇部隊に合図すべく、
艦尾灯を点けた。だがこの光が闇夜の中で駆逐艦を浮かび上がらせてしまい、B-17がすっ飛んできた。空襲を受けた挙句、大発動艇部隊が現れない事から、
やむなくバサブア泊地から脱出。22時55分、第8駆逐隊司令部は第8艦隊に「予定泊地付近に至れりも爆撃熾烈なる為離脱中」と電報を打っている。
バサブアを諦め、別の揚陸地点を探す。23時44分、燃料が6割にまで減少。
--23時50分、北西のクシム川河口に到着。翌2日午前0時30分より揚陸準備を開始する。陸兵425名(輸送兵力の約半数)に10日分の携行食糧と500発の弾丸を持たせ、
小発動艇に乗せる。ところが午前0時52分、B-17に発見されてしまう。作業を急がせるが、そこへ爆弾が投下される。[[電]]の至近に着弾した。
爆弾の驟雨の中、午前1時1分に小発が艦から離れた。午前1時17分、抜錨準備開始。暗礁に気を付けながら後進し、クシム川河口から離脱。
食糧や資材も揚陸していたが、爆撃で全損してしまっている。
--午前2時55分、家路を急ぐ駆逐隊にB-17爆撃機2機が付け狙う。吊光弾を投下し、爆撃を加えてくる。機銃で反撃すると雲の中に隠れてしまう狡猾さも見せた。
黎明に至るまでB-17の猛攻が続いた。午前8時12分、雷跡を発見した荒潮は爆雷5発を投射。しかし効果は不明だった。突然の投射に[[朝潮]]が理由を尋ねている。
味方の制空圏内に入ったものの、午前11時45分まで数回の触接を受けた。しかし攻撃は無く、以降は敵機の飛来が途絶えた。
-凄まじい敵の物量を凌ぎきった駆逐隊は12月2日19時にラバウルへ辿り着いた。[[電]]の戦闘詳報にはこう綴られた。
「敵航空機の爆撃下、揚陸に成功せしは功績大なるものと認む」。しかし同時に課題も浮き彫りになった。対空能力が足りないのである。
貧弱な対空能力では追い払うのが限界で、アメリカお得意の物量押しをされた場合は太刀打ちのしようが無かった。
また、揚陸の直前には敵の航空基地を空襲するよう具申している。
~
-12月6日16時、荒潮に振られた通話番号は「クスノキ22」であった。23時17分、天龍より信令作第9号が伝えられ、第二次ブナ(ゴナ)輸送への参加が決定。
9日午前0時30分にブナ付近に突入、午前2時に揚陸作業を打ち切って退却する手はずだった。

-12月8日午前4時30分、ラバウルを出港し独立混成第21旅団約1000名を乗せていた。10分後、第二警戒航行序列を組む。
--前回同様、敵の妨害は激しがった。午前8時15分、1機のB-24が飛来し爆撃。午前9時30分、荒潮の前を走っていた[[朝潮]]が味方機と誤認し、艦尾に至近弾を受けて中破。
舵が故障し、人力操舵に切り替える。軽巡洋艦天龍が救援に向かうと同時に、第八艦隊から反転の下令を受け退却。いきなり1隻欠けてしまった。
--午前10時20分、左方に航空機を発見。B-17と思われ、対空戦闘配置に就いたが、正体は味方の中攻機であった。
--同日中、揚陸地点のバサブアがオーストラリア軍第25旅団の攻撃で失陥。午前10時54分、急遽作戦中止となり、輸送隊は反転離脱。ラバウルを目指す。
午後12時13分、本物のB-17爆撃機4機が飛来。右対空戦闘を実施する。7分後、敵機が去ったため砲撃停止。それから間もない午後12時56分、新たな機影が接近。
駆逐艦風雲は荒潮に何機見えるか尋ねた。荒潮は「B-17らしきもの4機」と返し、対空戦闘が行われる。13時17分、味方戦闘機4機が飛来。B-17へ向かっていった。
空の要塞は強敵で、戦闘機を相手にしながら爆撃。磯波が投弾を受けている。13時40分、[[電]]が荒潮の後ろに占位する。
--爆撃は幾度と無く行われ、[[電]]が集中攻撃を浴びた。味方戦闘機が阻止しようと奮戦するが、数に押し切られ苦戦。14時59分、速力28ノットへ増速。
味方の制空圏内に逃げ込むべく、ひたすら走り続けた。14時37分、7機からB-17の爆撃を受け、至近弾により磯波が小破。
15時3分、味方戦闘機3機飛来。更に9機が飛来し、彼らに守られながら16時45分に入港した。

-12月11日、第三次ブナ輸送に参加。挺身輸送隊に編入され、荒潮は第2連隊(磯波、[[電]])を指揮して午後8時30分にラバウルを出港。
別働隊の駆逐艦風雲、夕雲とともに陸兵約800名と物資を載せて、闇の海を進んだ。空襲を避けるため、一旦アドミラルティー諸島北方へ退避する。
翌12日午後4時5分、カビエン入港。巡洋艦[[鈴谷]]の右舷に横付けし、150トンの燃料補給を受けた。21時45分、出港して南下。ブナを目指す。
-12月13日午前9時42分、B-24爆撃機1機の触接を受ける。更に攻撃を受けたが、被害無し。第8艦隊司令から進撃の命令を受け、突撃を続ける。
味方戦闘機が到着。協力して、敵機を迎撃した。午後2時55分、敵機4機が襲来(うち1機は触接機)。午後4時24分、敵機5機が襲来。
午後6時15分に触接機1機が飛来。攻撃は執拗に続き、敵大型機10機の空襲を受けて小破。上空で待機していた零戦隊が追い払ってくれた。
日没までに大型機の触接と攻撃を受け続けたが、砲撃や回避により事なきを得た。午後10時5分、大変針を行う。
-14日夜半、ブナの入り口へ到達。ブナに辿り着くには、細い水道を通らなければならなかったが、その出入り口をオーストラリア軍が封鎖していた。
突入は不可能とし、揚陸地点を変更。ブナから北西へ約80km離れたマンバレ河口に移動し、陸兵と物資を揚陸した。荒潮の揚陸は効率良く行われたようで、
僚艦と比べて揚陸出来なかった物資が全く無かった。
--ところが大発に乗った陸兵は中々岸へと向かわず、立ち往生する。上陸地点変更に戸惑い、指示を仰いでいるようだ。
部隊長の大佐が乗っている大発の周囲に集まり、なにやら協議している。いつ敵機が現れてもおかしくない状況で
グダグダやる陸軍を見て、激怒した風雲の艦長が「動ける者から、ただちに陸岸へ行け!」と怒鳴っている。
荷役及び連絡役の信号員を回収するが、予想以上に時間を割いたからか、信号員2名を現地に残留せざるを得なかった。
-ひと悶着の末、抜錨していく駆逐隊。そこへ夜明け前にも関わらず敵機が襲来。出港直後の午前4時10分、触接を受ける。敵の数に任せた爆撃の幕開けであった。
--午前4時31分、敵の第一次攻撃隊のB-17爆撃機3機が襲撃。荒潮は敵機と交戦するが、至近弾を受けて戦死者1名と重傷者4名、軽傷者2名を出す。入港後の重傷者搬送の手配を僚艦に請うた。
午前5時4分、B-17爆撃機1機が飛来。零戦隊によって撃退された。26分後、B-24爆撃機3機が爆撃してきたが、こちらも零戦隊の活躍で接近する前に追い返された。
--午前6時45分、B-24爆撃機6機が襲来。対空砲火により1機に曳煙させた。午前7時35分、B-24爆撃機4機が来襲。味方戦闘機との連携で撃退に成功。
午前9時25分、B-24爆撃機6機が空襲に現れる。午前10時26分、爆撃機3機が襲撃。19分後、1機のB-24爆撃機が現れる。
--午前11時20分、6機のB-24爆撃機が出現。荒潮は機銃掃射を受けて損傷させられる。無論タダでやられた訳ではなく、対空砲火でB-24爆撃機1機に白煙を引かせた。
午前11時59分、最後のB-24爆撃機1機が襲来。しかしここまで修羅場を潜り抜けてきた荒潮たちの敵ではなかった。
-延べ50機による集中攻撃を受けたが、1隻も欠ける事無く、12月14日21時、どうにかラバウルへ帰投。死地から逃れられた瞬間だった。
--駆逐艦による強行輸送が続けていたが、相次いで駆逐艦が損傷したためそれ以上の輸送任務が出来なくなり、
当分の間ブナ輸送は打ち切られる事になった。現地の南海支隊への食糧補給は9月6日を最後に途絶えており、
飢えに苦しめられたという(三根生久大氏著書「ニューギニア南海支隊 モレスビーの灯」出典)。

-その後、荒潮はマダン攻略部隊に編入され、ム号作戦へ参加する事に。愛国丸船長指揮の下、荒潮、涼風、磯波、[[電]]に第5師団二個大隊を分乗。
--帝國陸軍はガダルカナル島同様、ニューギニア北東部でも苦戦を強いられていた。ニューギニア北東部が陥落するとラバウルの孤立化を招く恐れがあり、
同方面を支援するため、大本営は新たな飛行場を欲した。こうして選ばれたのがウェワクとマダンであった。両拠点を占領する作戦をム号作戦と呼称し、
第八艦隊司令・三川軍一中将が総指揮を担当。陸海軍協同の任務が始まった。
~
&size(18){駿馬荒潮、虎狼の隙を突け};
-12月16日18時、マダン支隊を乗せた輸送船団を護衛して出港。[[電]]や天龍、愛国丸等とともに目的地を目指した。しかしウェワク方面と違って航空支援は受けられなかった。
第一警戒航行序列を組み、荒潮は愛国丸の右前方に占位。20時、予定航路の南西側を哨戒していた伊32潜が浮上中の敵潜水艦を発見。報を受け、船団は対潜警戒を厳にした。
-道中の18日午前6時50分、B-24爆撃機1機が触接。午前7時35分、B-24爆撃機1機が襲来。B-24爆撃機の触接は続き、午前10時54分に緊急電発信を傍受した。
午後12時50分、B-17爆撃機6機が爆撃。午後2時30分、B-24爆撃機1機が肉薄。午後3時44分、B-17爆撃機1機が空襲。いずれも護国丸を狙ったが被害無し。
午後4時50分、B-17爆撃機2機が現れ、位置情報の通報と攻撃命令が発せられた。連合軍の執拗な追跡に悩まされながらも、輸送隊は進む。
-通報を受け、新手のB-17及びB-24がそれぞれ1機出現。しばらく旋回しているだけだったが、午後5時23分にB-24爆撃機5機が出現。更に1機が触接する。
護衛艦艇に「日没後、敵機の奇襲に警戒せよ」との指示が下る。日没後、2機以上のB-17爆撃機が増援に現れ、40分以上に渡って爆撃を仕掛けてきた。
午後5時時50分、連合軍の空襲により護国丸に小火災が発生するも沈没には至らず。[[電]]の戦闘詳報では至近弾とされる。更に荒潮、天龍、愛国丸が投弾を受ける。
-今夜は月齢21、雲は断片的に出ていた。敵の爆撃は昼間の時よりも夜間の方が精度が上がっており、日本側を驚かせている。
上陸地点が近づいてきた午後8時30分、敵魚雷艇への警戒を強める。20時45分、揚陸地点に到着。陸兵の上陸が始まる。物資と兵員を小発や大発に乗せ、13分後に出発。
人員96名、物件88個、ドラム缶96本の揚陸に成功し、港から信号弾が上がった。

-21時(異説では20時15分)、突如として爆発音が轟いた。巡洋艦天龍が[[アルバコア]]の襲撃を受け、航行不能に陥ったのだ。さらに後部から沈下しつつある。21時29分、磯波から
「荒潮は速やかに天龍の所へ行け」と命じられるが、4分後に輸送作業が終わった駆逐艦涼風が代行する事に。荒潮にはドラム缶投入続行が下令された。
荒潮の下から、第二陣の大発が出発していった。
-被雷の見計らっていたのか、一度は途絶えた敵の触接が再開。21時40分、吊光弾が投下される。22時27分、揚陸作業を終えた荒潮は沖合いに移動。
22時30分にB-17爆撃機1機出現。上空を旋回しながら獲物を見定める。
-22時37分、将旗を天龍から磯波に移す。荒潮、涼風、[[電]]は泊地外で対潜掃討に従事。北から涼風、荒潮、[[電]]の順に展開し、ダルマン灯台付近を警戒。
23時22分、荒潮は敵潜水艦を探知。爆雷を投射して制圧を試みたが、効果不明。荒潮が探知した敵こそ、[[アルバコア]]であった。この情報は輸送隊に共有された。
天龍は極力曳航が命じられていたが、浸水激しく断念。23時に沈没してしまった。
全ての物資は揚陸できなかったものの高射砲、牽引車、弾薬300箱、食糧500個、自動車360台、トラック7台などを揚陸成功。マダン市は無血占領された。
-翌19日午前4時、護衛艦艇は帰路についた。午前4時22分、荒潮は輸送隊と合流した。午前5時45分、零戦隊が到着し上空援護を始める。だが帰り道も穏やかではなかった。
午前7時、B-24爆撃機5機を発見。加えてB-17爆撃機2機も出現し、上空についていた味方戦闘機が迎撃する。1機を撃墜して撃退に成功、B-24とB-17は視界外へと去っていった。
代わりに零戦1機が撃墜され、[[電]]が収容している。午前9時30分、直掩機3機が飛来。午前11時18分、B-24爆撃機1機が飛来し、直掩機と空戦となる。敵は愛国丸を爆撃したが命中せず。
この攻撃を以って連合軍の攻撃は止まり、荒潮は死地を脱した。12月20日午前10時30分、ラバウルに帰投。二番機銃の銃座が破損したが、僚艦と比べて軽微な被害で済んだ。
破損した分は駆逐艦海風から換装した。
-荒潮たちの活躍により、マダンを拠点化。第18戦隊戦時日誌には「ガ島方面作戦推進の枢軸の礎地を確保し、以後の作戦に資する所きわめて大なり」と書かれている。
--12月19日、ラバウルに着任した眞田課長は戦況について次のように述べている。「B-17の活動が意外と大きい。既にラバウル出港直後からの海上輸送が困難である。
我が海上戦力は非常に低下している」。海そのものが敵になったかのような、異常な雰囲気がソロモン方面を覆っていた。
~
-外南洋部隊はガ島輸送強化のため、バングヌ島ウィックハムに防空基地を設営する事を決める。荒潮はその輸送戦力に選ばれ、第27駆逐隊の指揮下に入った。
荒潮にはドラム缶50本、13mm機銃3基と弾薬が積載された。12月26日17時、[[電]]、磯波、[[谷風]]、[[浦風]]、[[夕暮]]とともにラバウルを出港。
セントジョージ海峡を経て、翌27日午前5時54分にショートランドへ到着した。現地で東亜丸より重油の補給を受けるとともに、陸軍歩兵第229連隊第1大隊153名を積載。
大隊長と青年参謀は荒潮に乗艦した。
-27日14時30分、ショートランドを出港。予想された敵の出現は無く、今までの苛烈な道中とは比べ物にならないほど平穏な航海が続いた。
航行中、荒潮がノギリ島南岸にて艦種不明の小型船2隻を発見。輸送隊に報告している。18時50分、付近に敵潜水艦が出現したとの通報を受け、警戒を強める。
21時17分、ウィックハム到着。揚陸作業を開始し、小発2隻と大発2隻を使って陸兵を上陸させた。陸兵153名、物件100個、ドラム缶50本の揚陸に成功。22時35分、抜錨。帰路についた。
12月28日午前6時50分にショートランドへ帰投した。午前9時、すぐに出港。同日23時を以ってラバウル入港。輸送任務を完了した。
-12月31日、外南洋部隊信電令作第196号により鼠輸送への参加が決定。南東方面艦隊は1月初頭の月暗を待って、中断していた鼠輸送を再開する事にした。荒潮は第五次から参加。
これまでに得られた教訓から曳航する小発に陸軍将校を乗せ、ドラム缶は銃撃されても沈まないよう浮力を得る目的でカボックを装着させた。揚陸中の警戒に当たる駆逐艦は魚雷艇対策のため、
ラバウルの第31防空隊を乗せる事になった。13mm機銃2基を扱う要員を乗組員から供出し、第31防空隊の指揮下へ入れた。
-参加艦艇は荒潮、長波、[[江風]]、涼風、[[巻波]]、[[親潮]]、[[黒潮]]、[[陽炎]]、[[雷]]、磯波の10隻。12月31日、輸送隊はラバウルを出港し、ショートランドに向かった。
配給が乾パン2粒と金平糖1つにまで減少した陸兵を救うために。
~
&size(21){1943年};
-1943年1月1日、ショートランド入港。午後12時30分より第五次輸送の打ち合わせを行った。11月末から12月上旬の会敵状況や、敵航空兵力や魚雷艇の増加が予想される事から、
各乗組員は悲愴な覚悟を抱いていた。
-1月2日午前11時、食糧と弾薬を積載し、荒潮はショートランド南口を出港。湾外にて第一警戒航行序列を組んだ。輸送隊は二列になり、荒潮は左側最後尾についた。
速力を26ノットに定め、ガ島へと向かった。旗艦は長波である。輸送隊は2つの隊に分けられ、荒潮は警戒隊に所属した。航路はムンダ輸送に見せかけるため、
往路はソロモン諸島南方に迂回するものを選択。帰路は中央航路を選択した。
-午後12時15分、モノ島南東約20浬でB-17爆撃機5機とP-38戦闘機5機が襲来。輸送隊は対空砲火でこれを撃退する。午後1時50分、零戦6機が上空警戒に就いた。
午後3時30分、輸送隊は速力30ノットに増速。高速駆逐艦の本領発揮である。午後4時5分、レンドヴァ島西方にて敵爆撃機約20機と交戦。涼風が至近弾を受け、損傷。
[[電]]の護衛を受けてショートランドに引き返していった。午後8時35分、ヘンダーソン飛行場方面にて対空照射砲撃が認められる。敵の注意を引き付けるため、味方の陸攻が爆撃しているのだ。
-泊地に接近するにつれ、敵の魚雷艇が出現し始める。午後9時46分、[[江風]]が発見したのを皮切りに、わらわらと這い出てきた。[[江風]]と[[巻波]]の活躍により、肉薄される前に撃退。
-輸送隊は進撃を続け、午後10時にエスペランス岬に到着した。ここで輸送隊と警戒隊が二手に分かれ、荒潮は警備に就いた。有力な敵水上艦隊が出現した際には
直ちに揚陸作業を中止、全力で迎撃する事になっていた。魚雷艇が出現した場合は警備艦が迎撃し、揚陸を強行する予定だった。果たして、どの敵が出てくるのか……。
現れたのは、敵魚雷艇8隻であった。執拗な攻撃を受けたが僚艦とともに迎撃。[[江風]]の活躍で1隻を撃沈して輸送隊を守りきった。
更に水偵3機が周囲の警戒を行い、新手の魚雷艇7隻を銃爆撃。1隻を撃沈してこちらも追い払っている。海と空の美しい連携が生んだ戦果だった。
ドラム缶450本、ゴム袋250個を投入し、輸送任務を完遂。輸送率100%の大成功であった。ただしこれだけ投じても、5日分にしかならなかった。
-午後10時30分、泊地を出発。翌3日午前4時にラバウル方面の零観12機が、午前4時40分には零戦5機が上空援護に駆けつけてくれた。
対して敵の動きは緩慢なもので、B-25爆撃機1機が触接したのみで攻撃は無かった。鮮やかな手並みを見せ、午前8時にショートランドへ帰還した。
--この輸送作戦には、間もなくガ島から撤退する予定だったが、連合軍に気取られないようにするのと、撤退までに将兵の体力を回復させる意味合いが含まれていた。
最小限の被害で輸送を完璧に成功させたため、第2水雷戦隊戦時日誌にて賞賛された。
「輸送部隊は、敵機約30機の熾烈なる爆撃を冒して挺身し、敵水上兵力の出現厳戒裡に魚雷艇約八隻の執拗なる来襲を阻止撃退しつつ、困難なる揚陸作業を強行し
輸送物件全部揚陸に成功せり。参加各隊艦の功績顕著なりと認む」と綴られている。
-1月3日午前11時35分、B-17爆撃機5機とP-38戦闘機7機が泊地を空襲。荒潮に被害は及ばなかった。運送艦鶴見が右舷に横付けし、燃料補給。午後3時に完了した。

-南東方面艦隊司令部は将兵の更なる体力回復を促すため、再度の鼠輸送を企図。1月10日に実行できるよう下令した。
荒潮は健在だったため引き続き参加が決定。しかし[[陽炎]]と[[親潮]]は航海中の振動が増大して作戦に支障があると判断され、外される。
旗艦を務めた長波も右主軸の損耗が激しく、脱落した。抜けた3隻の代艦として新鋭駆逐艦秋月と、初風及び時津風が加えられた。
-1月4日午後2時25分、ショートランド泊地を大型機7機が爆撃。午後5時、荒潮は長波、[[巻波]]、[[江風]]とともにショートランドを出港。
翌5日午前6時にラバウルへ到着。しかしラバウルも安全ではなく、午前7時25分にB-17爆撃機2機が来襲。僚艦とともに対空戦闘を行い、これを撃退した。
午前10時にもB-17爆撃機6機、B-24爆撃機6機が来襲し、港内の各所に投弾。在泊艦艇が一丸となって対空砲を撃ち、被害を最小限に留めて追い払った。
空襲の間隙を縫って、ドラム缶を各艦150本を積載した。
-1月6日午後5時にラバウルを出港(長波欠)。翌7日午前6時にショートランドへ到着した。相変わらず爆撃は続いており、1月8日午前5時30分にB-17が5機襲来している。
修理を終えた姉妹艦[[大潮]]も参加する事になり、9日午前9時に合流した。午後3時、次のガ島輸送作戦の打ち合わせが行われる。
今回の鼠輸送も2つに分けられ、荒潮は嵐、[[巻波]]、[[大潮]]とともに輸送隊に所属。航路は往路復路ともに中央航路が選択された。
脱落した長波の代わりに[[黒潮]]が将旗を掲げた。
--折り悪く、ソロモン方面では敵艦隊の動きが活発化しており、ムンダ基地への砲撃や戦艦の出現などが寄せられていた。
敵が支配する魔の海に、再び荒潮は漕ぎ出す。
~
-1月10日午後1時30分、ショートランドを出港。日没まで味方航空機が上空援護を行ったが、敵は現れなかった。天候が急変し、日没後の午後6時に雨が降った。
このため代わりに援護するはずだった水偵が発進できなくなった。むしろ降雨は敵の目から輸送隊を隠してくれた。午後9時40分、雨が止んで視界が回復する。
速力を12ノットに合わせ、泊地へと向かう。[[黒潮]]が警戒艦を率いて輸送隊から分離した。
-午後10時40分にエスペランス岬に到着する。しかし泊地には敵魚雷艇数隻が待ち伏せていた。[[巻波]]の艦首方向から魚雷艇2隻が出現。
警戒隊の[[黒潮]]も旋回する敵機を確認し、更に荒潮の西方にも敵機を確認した。早速[[巻波]]が雷撃を受け、艦首を1mかすめて魚雷が伸びていった。どうやら包囲されたらしい。
各艦が交戦に入る中、午後10時45分に荒潮の右前方50mより魚雷艇が接近し、雷撃を受ける。幸いにも魚雷は艦尾の至近距離を通って外れた。
報告される魚雷艇の数がどんどん増えていく。午後10時47分、遂に初風が被雷して大破する被害をこうむった。荒潮は混戦状態の隙を突いてドラム缶を揚陸。
-そんな中、荒潮の東側を航行する魚雷艇を発見。これに銃撃を加え、操舵不能へと追いやる戦果を挙げた。この魚雷艇は駆逐艦嵐の北方で航行不能に陥った。
魚雷艇3隻撃沈(時津風が2隻、嵐が1隻)、1隻撃破(荒潮)、カタリナ飛行艇1機撃墜(時津風)の戦果を挙げた。
午後11時10分に作業は完了。ドラム缶600本が投じられた。無事だった荒潮は旗艦[[黒潮]]等とともに18ノットで離脱。
翌11日午前9時15分にショートランドへ帰投した。大破した初風は嵐、[[江風]]、時津風に付き添われ、後から入港。
-今回の輸送作戦ではドラム缶600本と、弾薬や爆弾を満載した250本を投入。ガダルカナル島の部隊からドラム缶250本と味噌や衛生材料、弾薬30.1トンを得たと報告があった。
見事、荒潮は危険な任務をやり通した。鼠輸送は計7回行われ、輸送量705トンに対し揚陸成功分は167トン。到達率は僅か23%であった。

-防衛線を下げる事を見越し、帝國陸海軍はムンダ、コロンバンガラ、レカタ、ブイン、バラレ、ブカ、ショートランドへの増援を開始。
荒潮は1月11日にニューギニア方面護衛隊に編入され、1月11日午後5時に[[朝潮]]や[[巻波]]とともにショートランドを出発。ラバウルに向かった。
コロンバンガラ島への増援を担当し、1月26日にラバウルから出港する西阿丸を護衛。横七特十二糎砲第二中隊と大砲をコロンバンガラ島へ輸送した。
~
-壮絶な争奪戦の末、大出血を強いられた帝國陸海軍首脳部は、苦悩していた。3万名の兵力は今や1万名ほどにまで減少し、現在も飢餓に喘いでいる。
前線では物量に勝るアメリカ軍が跋扈し、ハミガキのチューブを絞るかのように日本兵の体を戦車がバキバキに轢き、ミンチになった遺体にガソリンを撒いて着火している。
敵は捕虜を取らないという方針が掲げられ、投降した日本兵ですら一方的に射殺した。この世の地獄が顕現したような場所、それがガ島の現状だった。
-撤退すべきか徹底抗戦させるべきか、中央では意見を戦わせた。現場を知る第8艦隊参謀の井上中佐は、中央が徹底抗戦を選択肢に挙げるとは夢にも思っていなかった。
それほどまでに前線の将兵は困窮していたのである(芙蓉書房出版「誰が一木支隊を全滅させたのか ガダルカナル戦と大本営の迷走」参考)。
当初、海軍は相当数の駆逐艦を既に喪失、加えて十数隻の艦が損傷しており、撤退作戦には反対の意見を示した。陸軍も海軍の立場に配慮し、同調する。
ところが昭和天皇がガダルカナル島の戦況について心労を抱いていた事で、撤退作戦を決意したという。

-ガダルカナル島を放棄する事を決めた大本営は、生き残っている将兵を撤収させるため駆逐艦を大量投入した。
日本側の暗号は既に連合軍によって解読されていたが、これを逆手にとって一切暗号を使用しなかった。
連合軍を欺くため、陸海軍総力を挙げて攻勢。連日連夜、ガ島やポートモレスビー、ラビ飛行場を爆撃。1月29日には敵水上艦隊にも攻撃を仕掛けた(レンネル島沖海戦)。
撤退はケ号作戦と呼称され、あたかも積極的作戦であるかのように見せかけた。部内外ともに少数の関係者以外には厳格な秘密とされ、
投入される駆逐艦は増援部隊という名称が付けられた。中央から主要参謀がガ島に出向き、現地にて口頭で説明。撤収に反対する将校や参謀を説き伏せた。
こうして一大撤退作戦が始まった。作戦参加の駆逐艦はショートランドに集結した。収容地点はカミンボ及びエスペランスであった。
--敵中に駆逐艦を突っ込ませる無謀な作戦に、山本五十六長官は成功を悲観視していた。陸軍第8方面軍の今村均司令も同様で、
参加する駆逐艦の三分の一が失われると考えていた。一方、作戦を立案した連合艦隊司令部ではそれほど大きな損害は生じまいと楽観していた。
淡い希望と絶望が入り混じる中、ケ号作戦が始まろうとしていた。
-作戦の準備は用意周到に行われた。敵機動部隊出現を見越して一航戦飛行隊がラバウルに進出。主力艦隊はトラックにて全作戦の指揮と支援を担当する。
南東方面の基地航空隊は航空撃滅戦と撤収部隊の上空支援を行うものとし、海軍機212機と陸軍機約100機を充当。先のレンネル島沖海戦で敵水上艦隊の北上を阻止した。
潜水部隊は敵情偵察と増援阻止に従事。撤収は3回に渡って行う予定で、仮に敵の妨害などで収容できなかった場合は潜水艦による撤収を目指す。
撤収部隊の総指揮は第3水雷戦隊司令の橋本信太郎少将とし、予備指揮官には第10戦隊司令の小柳富次少将が充てられた。1月31日、陽動のためトラック島から
[[金剛]]、[[榛名]]、[[愛宕]]、[[高雄]]、[[妙高]]などが出撃。ケ号作戦支援のための行動に入った。第8戦隊の利根は偽電を発して撹乱を行い、伊8はカントン島に砲撃を加えて牽制。
総力を結集して、ケ号作戦に心血を注いだ。
-撤退作戦に備えて、ガ島の部隊は動き始めた。1月14日、撤退支援のため矢野大隊750名が上陸。同時に、撤退命令を伝える方面軍の井本中佐と佐藤少佐も上陸している。
総攻撃に赴くという名目で、動ける者は陣地から海岸側へ移動。衰弱し寝たきりの者には銃と弾丸が与えられ、敵が来たら食い止めるように言われたという。
だが彼らは本能的に置き去りにされると分かっていたようで、何とも言えない目で見送った。海岸で上官から「海軍の艦艇が迎えに来る」と打ち明けられ、あまりの嬉しさに涙を流した者もいた。
最前線では、矢野大隊がアメリカ軍の攻勢を食い止め、島西部を死守。戦線を押し留め、撤収部隊の到着を今か今かと待ちわびた。
しかし後退した第38軍の間隙を縫ってアメリカ軍が侵入。撤退命令が届かなかった第4連隊の内藤大隊は大隊長以下全員が戦死している。しかもアメリカ軍は物量に任せて突進を続けており、
上陸地点のカミンボとエスペランスまで後20数kmにまで迫っていた。更に、カミンボに近いマルボボにも敵が上陸し、同胞を喰らい尽くさんと蠢動していた。もはや一刻の猶予も無い。
1月28日、ラッセル島へ人員を送り、応急中継基地を設営。攻勢作戦に見せかける囮として機能した。
~
&size(18){ガダルカナル島撤退作戦、飢餓に苦しむ将兵に慈愛の手を};
-1月31日、撤収部隊はショートランドを出港した。ところが途中でケ号作戦の一日繰り下げを命じられ、ショートランドに引き返している。

-2月1日午前6時、作戦開始直前になってショートランドに空襲警報が発令。ブインとバラレから零戦43機が派遣され、迎撃体制を整える。
20分後、B-17爆撃機9機とP-38戦闘機12機がショートランド泊地を襲撃し、空戦となる。零戦隊の活躍によりB-17爆撃機4機を撃墜。
1機の零戦が被弾して着陸失敗したが、駆逐艦への被害は無かった。空戦後、陸軍の偵察機がアメリカ艦隊を発見し、航空隊が露払いに向かっている。
-荒潮が所属する撤収部隊は、ガ島の将兵にとって救いの女神である。立石優氏著書「奇跡の駆逐艦雪風」では天使の艦隊と称されていた。
各駆逐艦の艦尾には陸軍の大発が曳航されていた。これで海岸から沖合いの駆逐艦まで往復しよう、という訳である。
大発を操作する陸軍艇長と艇員は各駆逐艦に乗艦している。

-敵の妨害を受けつつも、荒潮は第一次ガダルカナル島撤退作戦に参加。荒潮はカミンボ隊に所属し、ショートランドを出撃した。
潜水艦を警戒しながら之字運動を実施。速力18ノットで航行。午前10時、16ノットに落とす。
16時20分、バヌング島付近でドーントレスの大群から空襲を受ける。何度となく爆撃の洗礼を受けてきた日本の駆逐艦は爆弾回避運動には練達していた。
各艦長は腕を競い合うかのように見事に回避。これを艦長たちは「盆踊り」と称していた。確かな技術に裏打ちされた回避運動によって、
数百発の投弾を受けながら被害は、[[巻波]]中破・航行不能に留まっている(「奇跡の駆逐艦雪風」出典)。エスペランス岬に向かう部隊と道中で別れ、駆逐艦5隻とともにカミンボへ向かった。
--21時頃、カミンボ沖に到着。各駆逐艦が曳航してきた収容艇が海岸へと向かう。海岸の前にはリーフ(珊瑚礁)が防壁のように
広がっており、座礁しないよう出入り口を探しながら接近。早くても珊瑚礁に乗り上げ、離礁に手間取る収容艇もあった。
苦難の末、海岸へと近づく収容艇群。岸辺が近づくに従い、言い知れぬ異臭が漂ってくる。死臭なのだろうか。
艇尾から投錨し、収容準備を完了するが誰も出てこない。闇夜の椰子林は不気味に揺らめくだけだ。
試しにメガホンで呼びかけてみると、闇の中から人の気配がした。勲章をつけた陸軍の参謀将校だった。その後ろに2、3人が続く。
「お迎えに上がりました」と声をかけると、「ありがとう」と返してくれた。しかし既に気力も体力も尽き果てているようで、
後方に控えているであろう仲間に呼びかける事すら無かった。
--各収容艇は海岸と駆逐艦を三往復する予定だった。ところが疲労困憊な陸兵たちはゆっくりとした動作しか出来なかった。
長い月日の飢餓により、まともに歩ける者は殆どいなかった。ぞろぞろと昆虫か亀のように這い出てくる姿は、幽鬼のようにさえ見えた。
このままでは夜が明けてしまう。駆逐艦の水兵たちは心を鬼にして、「早くしろ!」「早く乗艇して下さい!「急げー!」と
はやし立てた。歩くことすらままならない陸兵を急かすのは残酷な所業だが、夜明けを迎えれば敵に襲われる危険性がある。
ぞろぞろと這い出てくるその姿は、とてもこの世のものとは思えなかった。少しでも身軽になるため、装具や武器は捨て去り、
ぼろぼろの軍服だけで辛うじて撤収地点に辿り着いたのだ。彼は助かったという安堵感からか動作が鈍い。
水兵らはメガホンでぽんぽん叩きながら「元気を出せ!」「しっかりしろ!」と叱咤激励。手取り足取り艇内へ押し込む。
--身動きが出来ぬほど陸兵を満載すると、収容艇は各々の駆逐艦へと戻る。ここからは上甲板へと引き上げるのだが、
これがまた大変だった。自力で道板やネットを登る体力が無いので、目の前で海に転落。そして二度と浮かび上がらなかった。
せっかく艦にまで辿り着きながら、一体何人もの陸兵が死んでいったのだろう。海面には夜光虫がキラキラと光っていた。
艦上に上がった兵もまた、歩ける者は少なかった。殆どが四つんばいになって移動するのがやっとの状態だった。
--撤収作業中、敵の駆逐艦か接近。上空を警戒していた水上機が気付き、銃爆撃を浴びせて追い払っている。また23時45分、沖合いでは警戒隊の巻雲が触雷。
艦尾を大破して浸水に見舞われた。曳航不可能と判断され、夕雲が雷撃処分を行っている。
--あともう一往復で作業が完了する頃、夜空の彼方で敵機らしき爆音が響いた。見張り員がその方向を見ると、
やがてスウーッと流星のような照明弾が放たれ、強烈な光が海面を真昼のように照らし出した。
まだ距離は遠いが照明弾の発射は続き、収容部隊に圧力をかける。だが幸運の女神は収容部隊側に微笑んだ。
敵の哨戒機は駆逐艦を発見できず、そのまま遠ざかっていった。2月2日午前0時、カミンボを離れて帰路についた。
こうして、佐野師団の兵員2316名が救助された。
-2月2日午前5時30分頃、連合軍爆撃機約30機が襲ってきた。荒潮と[[長月]]は対空砲火でそれぞれ1機を撃墜する戦果を挙げた(第8戦隊戦時日誌)。
撤収部隊に被害は無かった。日が昇ると、強烈な熱帯の太陽光が各駆逐艦を焼く。救助した陸兵は皆、死んだ目をしていた。
彼らは小銃だけを携えて、甲板でゴロゴロしている。艦内には機密上の問題で入れてもらえず、まるで置き物のように並べられている。
体は骨と皮だけ。彼らの頭髪は肩まで伸び、そして変色していた。各艦、食事には気を配った。まずは軽いもので胃を慣らし、
次第に栄養があるものを加えていった。道中で敵機の爆撃に遭ったが、被害は無かった。
午前10時にブイン地区エレベンタに到着。犠牲は駆逐艦巻雲1隻のみで大成功だった。ここで収容した陸兵は全員退艦した。
が、艦内には異臭が残った。陸兵が取ったであろう蛆虫の姿もある。おかげで大消毒と大掃除に追われた。
--資料によっては、2月1日の戦闘はイザベル島沖海戦と呼称される。日本側の被害は駆逐艦[[巻波]]大破、航空機13機喪失。
対する敵アメリカ軍の喪失は駆逐艦ド・ヘイヴン(航空攻撃)と航空機14機であった。

-2月3日、索敵機がツラギ南東約500kmに戦艦を含む大部隊が、その東方約130kmに敵機動部隊を発見。撤収部隊を殲滅するには十分過ぎるほどの大戦力だ。
支援を担当する角田部隊に緊張が走ったが、敵は大戦力を有しているにも関わらず及び腰で、積極的な行動をしなかった。天佑神助により、作戦に支障は無かった。

-2月4日午前10時30分(異説では午前9時30分)、荒潮を含む20隻の駆逐艦はショートランドを出港し第二次撤退作戦に参加。
二列単縦陣を組み、30ノットの快足でガ島を目指した。陽動として瑞鳳、[[隼鷹]]、[[金剛]]、[[榛名]]が援護をする。
ツラギ南東に空母1隻、戦艦2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻からなる敵艦隊を発見。注意を引き付けるべく陸攻隊が爆撃を加えている。
--14時頃から20分間に渡って(2時間とする説も)、艦上戦闘機31機とSBD艦爆・TBF艦攻33機の空襲を受ける。
[[黒潮]]と舞風が被弾損傷。2隻はショートランドへ引き返した。敵爆撃機の攻撃は苛烈を極め、水柱が林立する。
激しい攻撃により[[江風]]が脱落してしまう一幕もあった。直掩の零戦17機が13機を撃墜したが、零戦1機が撃墜、1機が不時着、3機が小破した。
どうにか敵機の猛攻を振り切り、19時20分に散開しつつ突入隊形を取る。カミンボに到着すると収容を担当する艦と警備を担当する艦に分かれ、
黙々と撤収作業を行う。22時頃、ヘンダーソン飛行場から数条のサーチライトが照射されているのが見えた。
撤収作業から敵の目を逸らすため、味方の航空隊が飛行場を爆撃しているのである。
--予想された敵魚雷艇の襲撃は無く、翌5日午前0時に収容作業完了。計17隻の駆逐艦が、ガ島を離れていく。
夜明けと共に対空戦闘に備えたが、敵襲は無かった。同日未明、カミンボ隊とエスペランス隊が合流。午前9時45分、ショートランドへ無事帰投した。
午前10時30分、運送艦鶴見が接近。[[江風]]、[[黒潮]]、朝雲、[[大潮]]、五月雨、荒潮、時津風、[[雪風]]の順に燃料補給を施した
-2月6日のショートランドは珍しく雨だった。さすがにこの日は爆撃も無く、平和な一日であった。一方、ブインの作戦司令部で陸海軍双方の打ち合わせが行われた。
この会議には各駆逐艦の艦長も出席していた。既に大多数の駆逐艦を失っていた海軍は「二度の作戦により、敵は撤収に気付いているだろうから、作戦を変更したい」と申し出た。
最後に残った2600名は駆逐艦ではなく、大発などの舟艇で島伝いに脱出させようと言うのである。対して陸軍側は駆逐艦での救出を哀願した。島伝いの撤退は成功率が低く、
最後まで残してきた兵に申し訳ないというのだ。互いに意見を譲られず、平行線を辿る。そんな中、[[雪風]]と[[浜風]]の艦長が「やっぱり駆逐艦でやりましょう!」と具申。
他の艦長もこれに賛同した。艦長たちはガ島の悲惨な状況を目にしており、救出を待つ彼らの心情を察したのである。
~
-2月7日午前9時45分、食糧を満載した駆逐艦18隻がショートランドから出発した。第三次撤退作戦の開始である。この日も、哨戒機はガ島南東約560kmに敵の有力艦隊を発見していた。
だが作戦は強行された。敵が支配する魔の海を、勇気を持って突き進む救世の駆逐艦隊。
--二列単縦陣でガ島に急行するが、16時に40機以上(異説ではSBD爆撃機15機)の敵機が迫ってきた。そのうち駆逐隊へ向かってきたのは十数機程度だった。
護衛の32機の零戦は敵襲に気付かず、駆逐隊は直接攻撃を受けた。各艦は散開し、対空戦闘を行う。この空襲で[[磯風]]が大破し、落伍。[[江風]]に付き添われて反転離脱した。
入れ替わる形で[[長月]]が加わる。19時30分、ガ島の島影が見えた。陸軍部隊は既に小発や大発に乗り込み、救助を待っていた。
撤退作戦も今夜が最後なので、収容人数も多い。約800名ほどが収容されていった。全員を収容した後、取り残された者がいないかメガホンで呼びかけた。
砂浜に人影は現れなかった。各艦は爆撃回避や高速航行の障害となる大発と小発60隻を処分。大発はキングストン弁を開いて処分し、小発は海岸に放棄した。
出港と同時に敵の射撃音が聞こえてきたが、何を狙っているのかは不明瞭だった。「英霊2万の加護により、無事撤収する」と大本営に打電された。
どうした事か、夜明けを迎えても敵機の襲来は無かった。何事も無くショートランドへ入港し、撤退作戦は幕を下ろした。戦果は敵機20機撃墜、魚雷艇5隻撃破だった。
-陸兵が退艦したあと艦内の清掃作業が行われたが、みんな嬉しそうな顔をしていた。困難な任務をやり遂げ、味方を救ったという栄誉が胸に満ちていた。
その夜、成功を祝してビールが振る舞われ、艦内のあちこちで酒宴が催された。

-2月9日、大本営はニューギニアとソロモン方面からの撤退を発表した。事実上の退却は、転進と言い換えられた。
総兵力3万1404名中、収容されたのは1万652名。撤収作戦以前に後送された傷病兵は740名であった。帝國陸海軍の思惑通り、連合軍は撤退の事実を知らず、
単なる増援作戦としか考えていなかった。このため防備を固めてばかりで積極的な攻勢に出なかった。まんまと騙された訳である。
大量喪失を覚悟していた割には喪失艦は巻雲1隻に留まり、収容人数も予定の2倍と大成功に終わった。キスカ島撤退と並んで二大撤退作戦と呼ばれる。
-ガ島争奪戦で失われた戦力は陸軍約二個師団、戦艦2隻、空母1隻、重巡3隻、軽巡2隻、駆逐艦14隻、潜水艦8隻と膨大なものだった。加えて延べ63隻が損傷を受けた。
撃沈・損傷を合わせると、連合艦隊総兵力の半数に達した(淵田美津雄氏著書「機動部隊奮戦す」)。
--ところが、全ての兵員が収容された訳ではなかった。撤退時、前線にいた部隊は「2月21日の紀元節には総攻撃をやるから、それまで待て」と言われ
頑張っていたが、いつの間にか後方の友軍がいなくなっており、置き去りにされたと悟ったのだという。彼らの大半は捕虜となり、
置いてかれた事に憤慨していたと伝わる(豊田穣氏著書「海軍軍令部」参照)。
~
-2月13日、姉妹艦[[大潮]]とともに陸軍輸送船2隻を護衛してラバウルを出港。一路ウエワクに向かう。荒潮ではなく[[朝潮]]が参加したとする資料もあるが、
第8艦隊戦時日誌には「[[朝潮]][[満潮]]欠」と明記されており、[[朝潮]]参加は誤りである。ウエワクでは飛行場の建設が急務となっており、
その関連物資を運ぶのである。無事輸送は成功し、帰路についた。その帰投中の2月20日、マヌス島北方70海里で米潜水艦[[アルバコア]]から雷撃を受け、
[[大潮]]に1本の魚雷が直撃して航行不能となる。[[アルバコア]]はトドメを刺そうと[[大潮]]に1本を、荒潮に向けて2本を放つが全て外れた。
荒潮は対潜掃討を行い、[[アルバコア]]を追い払った。すかさず曳航作業に移り、トラック島まで後退しようとした。
資料によっては何故か[[朝潮]]が曳航している事になっている。報告を受けた上層部は、警備のため駆逐艦1隻を急派すると同時に速やかなるトラックへの回航を命じた。
午後5時、荒潮は現在位置を報告。8ノットの速力で北上していた。翌21日早朝には護衛の駆逐艦村雨と会合出来るだろうとされた。
-ところが2月21日朝、曳航中の[[大潮]]に亀裂が入り、中央部で断裂。ついには沈没してしまった。荒潮は広瀬艦長以下生存者全員を救助し、機密書類を整理。
将旗を荒潮に掲げ、ラバウル回航の命令により同地を目指した。[[大潮]]沈没により、村雨の出港も取りやめとなった。

-[[満潮]]は大破し戦線離脱、[[大潮]]は撃沈されたので、新任の第8駆逐隊司令・佐藤康夫大佐は荒潮を旗艦に指定した。
[[大潮]]砲術長だった北川貞夫中尉は荒潮に救助され、そのまま荒潮砲術長へ転属になった。
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&size(18){生還不可、死への片道切符「第八一号作戦」};
-帝國海軍は「第八一号作戦」を発令。荒潮、[[朝潮]]にも参加の命が下った。陸軍第51師団は、ガダルカナル島への増援部隊としてラバウルに移動したものの、
そのガ島が放棄されたため宙に浮いていた。その第51師団の新たな働き場所がラエ及びサラモアに決まり、部隊を輸送する事になった。折りしもブナの守備隊が玉砕し、
ニューギニアへの増援が急務となっていた。ところがこの作戦は自ら的になるような、超無謀な輸送作戦であった。
-敵の制空権下を、エアカバー無しに行くという自殺行為に等しい内容だった。去年11月中旬以降のブナ及びラエ方面の輸送は敵爆撃機が降らす爆弾の雨の中を行くようなもので、
荒潮自身も経験していた。立案した海軍まで成算の見込み無しとし、第8艦隊も成功率の低さを憂慮。現場からも激しい反発を受けた。
代わりに危険率が低いマダンとウェワクの上陸を提案したが、道中は難路である事を挙げて陸軍は反対。ラエ輸送の成功率は40%か半々と見ていた。
無謀な作戦を立案した神重徳大佐は反対意見には取り合わず。作戦の前日には発狂者まで出る始末だったという。
-作戦直前、第8駆逐隊司令の佐藤康夫大佐と野島特務艦艦長の松本喜太郎大佐は親友の間柄という事で酒を酌み交わしていた。
今回の作戦はどうも危険だから、お互い危険になったら助け合うという約束を結んだ。
-2月25日、第8駆逐隊は第8艦隊第3水雷戦隊へ転属。
-2月26日より第18軍司令部、第51師団主力6912名、海軍陸戦隊二個中隊400名、火砲41門、車両41輌、輜重車89両、大発38隻、燃料ドラム缶2000本、
そして弾薬・軍需品など計2500トンを8隻の輸送船に分乗させ、28日には概ね完了。運命の日を待った。計画では3月3日17時にラエへ到着し、日没後に揚陸する予定だった。
~
-2月28日23時、ラエへ向かう8隻の輸送船が出発。港外で待機し、30分に護衛の駆逐艦と合流。二列縦隊を組み、輸送船団の前後左右2000mを護衛艦艇が囲んだ。
しかし9ノットしか出せない輸送船に速度を合わせなければならず、船団の動きは鈍重だった。
-翌3月1日、この日の空は暗雲が覆っていた。友軍の直掩機が時折飛来しては、上空を旋回する。船団がホルマン岬北東に差し掛かった午後2時過ぎ、
哨戒のB-24に発見されてしまう。陸軍機が追い払ったが、位置情報を通報される。まだ攻撃範囲外だったが、アメリカ軍は268機の航空機の発進準備をさせる。
-午後7時、船団の左側に吊光弾が連続で投下された。連合軍機による触接だが、敵は攻撃する事なく去っていった。やがて敵潜水艦も輸送船団を追跡し始め、
不穏な空気が流れ始める。日本側は敵機や潜水艦の追跡に気が付いていたが、巧みに潜航したり離れたりして攻撃を逃れる。
-3月2日午前8時過ぎ、B-17爆撃機8機とブリストル・ボーファイターが襲来。次々に爆弾を投下してきた。ラバウルから飛来した零戦隊が迎撃し、
B-17爆撃機1機を撃墜。14機に損傷を与えたものの、焼け石に水だった。B-17爆撃機3機が高度3000mで肉薄し、護衛の駆逐艦が一斉に対空砲火を放つ。
更に別の方向から3機編制のB-17爆撃機が現れ、高度2000mに落としながら水平爆撃をしてきた。午前8時16分、旭盛丸は2発の命中弾を受ける。
火災が発生した旭盛丸は戦列から離れたが、午前9時16分に沈没。乗船していた1300名のうち819名が駆逐艦[[雪風]]と朝雲に救助され、
先行してラエに届けられる事になった。他の輸送船にも小規模な被害が及んだが、航行に支障は無かった。
-敵の波状攻撃は続き、午後2時20分にB-17爆撃機11機が飛来。荒潮は零戦隊とともに奮戦し、これを撃退。船団は難を逃れた。16時30分、ロング島東方海域で
B-17爆撃機10機が襲来し、1000ポンド爆弾を投下。輸送船野島が至近弾を受け、18名が死傷した。日没を迎えた後は敵機の攻撃は止み、束の間の休息が訪れた。
-夜、ウィンボイ島北側を迂回し、最も危険とされるダンピール海峡を南下。前夜同様、敵機が吊光弾を投下してきたが、攻撃はされなかった。
そしてダンピール海峡を突破し、船団には希望が芽生え始めた。3月3日の夜明けを迎えた。この日が上陸予定日である。午前4時、敵哨戒機が低空で旋回しているのが発見。
-3月3日午前5時15分、少数のB-25が船団を襲撃。オーストラリア軍のブリストル・ボーフォート2機が雷撃を行ったが、全て外れている。
41機の零戦が迎撃に向かい、全機を撃墜ないし撃退した事で難を逃れた。だが、これは恐怖の序曲に過ぎなかった。遂にポートモレスビーの勢力圏内に入ってしまったのだ。
~
&size(26){死、騎虎の代償};
-そして1943年3月3日午前7時45分。この日は快晴だった。クレチン岬の南東14海里で、アメリカ陸軍航空隊やオーストラリア空軍のA20攻撃機及びB-25爆撃機の襲撃を受ける。
爆撃機と、それを護衛する無数の戦闘機が殺到したのである。204空の零戦26機が迎撃に向かい、空戦となる。まずボーファイター13機が超低空で横一列になり、機銃掃射を仕掛けてきた。
次にP-38戦闘機28機に守られたB-17爆撃機15機とB-25爆撃機7機が上空から爆弾を投下。船団は回避運動を取ったが、隊形が乱れてバラバラになる。
午前8時5分、瑞鳳戦闘機隊15機が戦場に到着するが敵機の数は増え続け、今や空を覆い尽くすイナゴの群れと化していた。稲穂代わりに海上の艦艇を食い尽そうと、牙をちらつかせている。
-零戦隊は大物のB-17に気を取られ、軒並み上昇。がら空きとなった低空から、戦闘機に守られたB-25爆撃機6機、B-25C爆撃機20機、A-20攻撃機12機が反跳爆撃(スキップ・ボミング)を行う。
--スキップ・ボミングとは、敵イギリス軍が編み出した爆撃方法である。時速300kmで緩降下し、10〜20mの超低空状態で目標の300m手前に肉薄、魚雷を放つのである。
高速の機体から投下された魚雷が水を切りながら跳ねる事からスキップ・ボミングと呼ばれる。急降下爆撃ほどの錬度は必要なく、絶大な命中率を誇る事から今回大規模に行ってきたのだ。
しかしながらこのアクロバティックな投弾方法は難しく、実験中に乗員の墜落死もあった事から最初で最後の運用となった。
-上空に上がっていた零戦隊は対応が遅れ、あっという間に輸送船7隻が被弾した。駆逐艦側はこれを雷撃と思い回避運動をしたが、効果は無かった。
銃撃と投弾を同時に受け、相次いで被弾していく。8隻中4隻が被弾し、いずれも致命傷となる。零戦隊は仕掛けに乗せられたと気付くが、P-38に妨害されて助けにいけない。
-午前8時10分、跳躍爆撃により第2砲塔が被弾。舵を故障し、大破。兵科士官も全滅した。操舵不能になった荒潮の先には、既に被弾して航行不能になっている特務艦野島の姿があった。
互いに舵を故障しており、避けようが無い。なすすべなく野島に衝突し、艦首を破損。絶体絶命の窮地に立たされる。
-午前9時頃、連合軍機は去っていった。難を逃れた[[雪風]]、敷波、朝雲、浦波、[[朝潮]]は救助活動を開始。損傷艦や沈没船から乗組員を救助した。ところが午前10時35分、
「敵機24機接近」の報告を受け、輸送隊司令木村昌福少将は救助作業の中止と戦域離脱を命令。一旦ロング島北方へと退避を始めたが、野島艦長との約束がある[[朝潮]]は救助を続行。
かろうじて午前中の空襲は耐え凌ぐ事が出来たが、荒潮は既に満身創痍の状態だった。瀕死の荒潮は北方への退避を始めた。そこへ、[[朝潮]]が救助に現れる。
野島の救助を行いつつ、荒潮の救助も実施。[[朝潮]]に久保木艦長や負傷者を移乗させ、健在な乗員は艦内に留まった。
--撃墜されたB-17Fからパラシュートで脱出した乗員が、零戦に銃撃される様子をB-17乗員が目撃。基地内でその話が広がった。
これを受けて、オーストラリア軍将校は作戦会議で「日本人は一人たりともニューギニアに辿り着かせるな」と命令した。

-午後からも執拗な空襲が行われた。B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、P-38戦闘機11機、ボーファイター戦闘機5機による銃爆撃の後、
更にB-17爆撃機、B-25爆撃機など数十機が船団を襲撃。徹底的な爆撃を受けた。執拗な攻撃は続き、直撃弾で艦橋が粉砕され航行不能に陥る。傾斜角は30度に達し、復元は絶望的。
致命的な浸水と傾斜から沈没確実と判断された。それでも微速で北方への退避を続ける荒潮。零戦隊の決死の活躍によりB-17爆撃機3機とP-38を1機撃墜したが、焼け石に水だった。
-16時30分、急報を受けた駆逐艦初雪が到着。救助した人員と第18軍司令部を移乗させ、浦波とともに帰投した。残った[[雪風]]、朝雲、敷波は生存者の捜索を開始した。
ラエから大発7隻による捜索隊が出発、ラバウルからも偵察機が発進し、人命救助に尽力する。更にオーストラリア近海で通商破壊していた[[伊26]]を救助に向かわせている。
-午後11時、ついに船体の放棄が決定。しかし周囲に僚艦の姿は無く、脱出すなわち漂流を意味した。艦内に留まろうが脱出しようが、死の危険性がある八方ふさがりの状況だった。
そんな中、瀕死の荒潮が幸運を招き寄せた。捜索を打ち切り、本隊との合流を目指していた[[雪風]]が偶然通りがかったのである。輸送船の船員が一切助からなかった所を見ると、強運と言える。
艦内に残っていた原機関長ら乗員176名は、救助に現れた[[雪風]]に移乗。[[雪風]]に発見された時、荒潮は左舷へ大傾斜。上甲板が海面に浸かり掛けていた。
移乗している間にも傾斜は深まりつつあり、放置しても自沈するとして雷撃処分はされなかった。翌4日午前1時、救助を打ち切って[[雪風]]は去っていった。荒潮は無人になり、漂流するだけの身となった。
久保木艦長や負傷者を乗せていた[[朝潮]]は撃沈され、久保木艦長以下72名が戦死。皮肉にも、荒潮に最後まで残っていた者が助かった。
-
-乗組員が全員去った後も、荒潮は浮き続けていた。任務完遂のためなのか、いなくなった仲間を探しているのか……。傷ついた体を引きずりながら、
たった1隻で暗い大海原を彷徨っていた。今際の意地か、予想に反して彼は沈まなかったのである。しかし健気な彼にも、最期の時がやって来た。
-海戦後の3月4日、フィンシュハーフェンの南方で漂流しているところをB-17爆撃機に発見される。投下された500ポンド爆弾が第1煙突付近に命中し、とうとう沈没した。
誰にも看取られない悲しき最期であった。
--連合軍側はこの海戦をビスマルク海海戦と命名したが、日本側はあまりの惨劇に名称を付けられなかったという。
まるで在庫一掃セールのように駆逐艦が撃沈され、荒潮もその1隻と成り果てた。
ダンピール(海峡)の悲劇と呼ばれ、アメリカ軍のプロパガンダにも利用される始末だった。厳密に言うと戦闘が起きた場所はビディアズ海峡である。
--この大敗で、輸送していた兵の半数に相当する約3000名が溺死。兵器及び食糧も全て失った。連合軍の機銃掃射により生存者は更に数を減らした。
加えてPTボートを派遣し、5日まで殺戮劇を繰り返した。弾が無くなると基地に帰還し、補給を受けてから再び銃撃。生存者がいなくなるまで反復銃撃を実施したという。
連合兵も人の子だったようで、「男らしくないやり方」として気分を害する隊員が出ていた。しかし生存者への銃撃は続けられた。
安達中将以下2427名が救助され、ラバウルに戻った。こうしてニューギニアへの増援計画は頓挫し、生存者の857名がニューギニアに上陸した。
~
-1943年4月1日、除籍。第8駆逐隊は解隊された。帝國海軍が喪失した31番目の駆逐艦だった。艦名は海上自衛隊の潜水艦に引き継がれた。
-戦死した艦長の久保木英雄少佐は二階級特進し、大佐となった。更に1943年11月18日に叙位の認可が下された。
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