1941年12月8日、太平洋戦争が開戦。時の一水戦に列した浜風は、南雲護衛隊として真珠湾攻撃に参加していた。これを皮切りに、1942年1月20日のラバウル空襲、2月19日にポートダーウィン空襲を支援し、4月5日にはセイロン沖海戦に参加。5月、空母直衛の第10戦隊に編入。続いて6月5日のミッドウェー海戦に参加するも、南雲機動部隊の空母たちを守り切ることはできず、作戦は中止された。
ここで浜風は初の救助活動を行う。激しく炎上する蒼龍に横付けし、消火活動と救助を実施。そして蒼龍が沈没するまで、そばに寄り添って離れなかった。
米軍がガダルカナル島に上陸してからはソロモン戦線に投入され、8月18日に一木支隊をガダルカナル島に揚陸する。9月16日、ガダルカナル島の米軍を砲撃。同月21日には鼠輸送に参加。米軍の目をかいくぐってガダルカナル島に食料を届けたが、揚陸中に空襲を受けている。10月26日に生起した南太平洋海戦にも参加。この戦闘で米機動部隊の機能を喪失させることに成功したが、彼らと互角に戦えたのはここまでであった。
1943年1月15日、ニュージョージア島北東で爆撃を受けて損傷する。その頃、争奪戦に敗れた帝国陸海軍はガダルカナル島からの撤退を決意。1月28日、浜風は撤退支援のために陸軍部隊を輸送し、ラッセル諸島バイシー島へ夜間上陸させた。これは米軍に撤退作戦を悟らせないよう、増援を送ったように見せかける陽動であったため、占領は短期間にとどまった。2月1日、ガダルカナル島からの第一次撤退作戦に参加。その途中で米軍機が襲来し、イザベル島沖海戦が生起。爆撃を受けて損傷するが、作戦を続行。米軍は300個の機雷を敷設し対抗したが、犠牲は巻雲1隻だけに留まる。また魚雷艇11隻が日本艦隊に挑みかかるも、反撃で3隻が沈没。1隻が座礁で喪失。妨害を跳ね除けた浜風らは見事ガダルカナル島に辿り着き、5,414名を収容。ブーゲンビル島エレベンタに帰還した。
さらに2月4日に行われた第二次撤退作戦にも参加。再び米軍機の空襲を受けるも損傷無し。4,977名を救助し、翌5日午前にエレベンタへ帰投。第三次作戦は、大発を島伝いに向かわせて救助する案が浮上したが、浜風の上井艦長の「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言が支持され、駆逐艦で実行。
2月7日、最後の撤退作戦が始まる。またもや空襲を受け、磯風が脱落するが作戦続行。2,249名を救助し、バイシー島に配備した兵員も回収して帰投。こうしてガダルカナル島撤退作戦は成功に終わり、浜風は一連の作戦を通じ、12,640名にも及ぶ人員を死地から救い出したのだった。
7月1日、マカッサル海峡北口で米潜水艦の雷撃を受け中破。しかし不屈の闘志で復帰し、コロンバンガラ島への輸送作戦に参加。7月6日、作戦途上で米駆逐艦4隻と遭遇し、クラ湾夜戦が生起。13日にはコロンバンガラ沖海戦に参加。警戒隊として敵艦隊と交戦し、軽巡ホノルルを撃破せしめた。8月15日には、ベララベラ沖海戦に参加。敵駆逐艦との交戦で小破するもホウニウ基地に一個小隊を揚陸させた。8月26日、レカタ撤退作戦中にブカ北方でB-24爆撃機の攻撃を受け、至近弾により機関室浸水。艦橋を小破。連戦に次ぐ連戦で何度となく損傷した浜風だったが、未だ健在であった。
1944年6月19日、マリアナ沖海戦に参加。マリアナ諸島の覇権を巡って米機動部隊に決戦を挑むが返り討ちに遭い、3隻の大型空母と300機以上の航空機を喪失。再建した新生機動部隊が壊滅する。
負け戦のさなか、浜風はこのときも沈没した飛鷹乗員の救助活動を実施。既に日没を迎え、辺りは宵闇に包まれていたが、一人でも多くの乗員を救助すべく、敵潜水艦に発見される危険を冒しながら探照灯を照射。漂流者の集団を見つけると、スクリューに巻き込まないよう風上に艦を停止させ、そのまま風に身を任せて漂流者に接近。舷側に垂らされた沢山のロープに輪を作り、漂流者をそれにくぐらせてから、甲板に思い切り引き上げる作戦だった。いつ雷撃されてもおかしくはない状況だったが、献身的な救助を神仏も照覧したか、すべての漂流者を救助するまで、一切攻撃されることはなかった。
7月8日、沖縄に兵員を輸送する戦艦金剛らを護衛して呉を出港。10月22日、レイテ沖海戦に参加した際は栗田艦隊の一員となる。翌23日、シブヤン海で沈没した武蔵の乗員を救助。904名を救い上げブルネイまで送り届けた。10月26日、栗田艦隊から分離しコロン島へ向かう。レイテ沖海戦に敗れた日本軍の残存艦はブルネイに集結していたが、同地は米軍の空襲圏内であったため主力艦を留め置くわけにはいかず、本土への回航が決定。浜風も護衛という形で本土に帰還する事になった。しかし11月21日、台湾海峡を通過中に米潜シーライオンの雷撃を受け、戦艦金剛が沈没。浜風は生存者約300名を救助し、内地に帰投。
11月28日、進水した空母信濃を横須賀から呉へと護送する。しかしここでも、恐るべき米潜の魚雷が浜風たちに襲い掛かる。米潜ソードフィッシュの魚雷が信濃に命中。曳航を試みるも、あまりの排水量の違いから舫綱は切断され、浜風が海底に引きずり込まれかけたため断念。信濃は沈没し、浜風は信濃乗員448名を救助した。
武蔵や金剛、信濃らの最期を看取り、また陽炎型の姉妹たちが次々沈没していくなか、浜風は懸命に踏みとどまり、僚艦の救助に奔走し続けた。
12月31日、門司を出港。空母龍鳳とともに高雄行きのヒ87船団を護衛。1945年1月8日、新竹沖中港泊地で海邦丸と衝突事故を起こすが損傷は軽微だった。その後、本土へ帰還。
そんな彼女にも、いよいよ最後の時がおとずれようとしていた――。
太平洋戦争の終盤において、日本軍は天一号作戦を発動。戦艦大和率いる第一遊撃部隊を編成し、そこに浜風も組み込まれることとなった。戦艦大和や軽巡矢矧を除けば、駆逐艦8隻ばかりからなる小さな艦隊。日本軍の末期的様相を呈するがごとき僅かな戦力……しかしそこに列した駆逐艦は、浜風を始め、いずれも劣らぬ歴戦の殊勲艦ばかりだった。目指すは日本最南端、沖縄。燃料は片道分*2。それは誇張の余地なく、死出の旅路と言って間違いのない作戦だった。
1945年4月7日。同部隊は坊ノ岬沖でアメリカ海軍と接敵。浜風も含めて6隻が、戦艦大和と運命をともにした。
最新の20件を表示しています。 コメントページを参照