説明しよう!当時の技術大国ドイツの粋を集めた高性能軽巡がケーニヒスベルク級なのだ!
……とはならなかったのが本級の悲しい所である。
無理を重ねて色々と盛りすぎた結果、悪い意味で最高にドイツらしい巡洋艦となってしまった。
まず目につくのが砲塔配置。
砲塔は、攻撃と防御の両立を図って新規設計された150mm砲を装備。
砲塔配置は前方に1基、後方に2基となっている。 前方だけに砲塔を配置した戦艦もあるわけで、これ自体はさほどおかしくはない。
「撤退時により多くの火力を発揮するように」という設計意図があった。
そこまではいいのだが、ここで欲を出してしまい「・・・でも前方火力が足りないのは不安だ」ということで、後方二基の砲塔配置を左右にずらし、前方への射界を得ようとしたのだ。
二番砲塔を左舷寄りに、三番砲塔を右舷寄りにした結果、前方にもある程度射撃可能となった。
砲塔を船体の中心線からずらすという、これ自体は前弩級戦艦や黎明期のドイツ製戦艦*2に見られる梯形配置と同じ発想なのだが、船体の細い巡洋艦で採用した代償は大きく、艦の左右のバランスが著しく不安定になってしまった。
さらに軽量の船体に重装備を積んだ結果のトップヘビーぶりも影響し、「巡洋艦なのに外洋を航行すると船体が歪んでひび割れる」という致命的なリスクを負うこととなった……。
(当時の電気溶接は技術的に発展途上で強度に問題があり、アメリカのリバティ級輸送船の自壊事故や、日本の潜水母艦「大鯨」の船体の歪み、装甲空母「大鳳」の航空燃料タンクに亀裂が生じ気化したガソリンによる爆沈などが代表例)
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同型艦カールスルーエの全体図。一目で後部二基の砲塔配置が特殊である事がわかる。
この配置のおかげで船体を左に19度傾ければ右舷側に全砲門を向けての射撃が可能だった。
さらに二種類の機関を組み合わせたハイブリッドな推進機関にも問題が多発。
元々の構想は「巡航時は燃費の良いディーゼル」、「戦闘時に馬力が必要な時は蒸気タービン」と切り替えながら使用する予定だったが……
ディーゼルは当初予定していたほどの性能が発揮できずに燃費が予想よりも悪くなってしまった。
さらに蒸気タービンに切り替える際には、推進軸の結合を手動で外してまた結合するという不便すぎるうえに危険なもので、結合後のクラッチもとても人が扱えるものではなく故障が多発。
結果として上記のような臨機応変な機関の切り替えは難しかった。
(当時からドイツの舶用機関に関しての製造技術にはトラブルが多く、元帝国海軍技術将校の牧野茂氏が戦後に記した著書にて「タービン技術が弱く、これが原因で艦の竣工が遅れることが度々起こった」と記すなど戦後になってもこの問題はついて回ったようである)
船体のバランスの悪さを補うため燃料をバラスト代わりにする必要が出たことや、機関の性能不足などにより当初予定していたほどの航続距離を発揮できなくなってしまった。
これらの結果、ケーニヒスベルク級は3隻共に北海かバルト海のみでしか作戦行動ができなかった。
北海とバルト海はドイツ海軍の主戦場ではあったが、通商破壊に用いることが出来なかったため、ドイツ海軍の当初の作戦計画に大きな狂いが生じることとなる。
結果としてK級はケーニヒスベルク・カールスルーエ・ケルンまで建造された後、次級が改ケーニヒスベルク級であるライプツィヒ級に移り、オフセット配置された砲塔をセンターラインに戻し船体の補強が図られるなど良い教訓となったようである。(余談だが、前級の設計を基本として改良された次級という関係は日本で言うところの古鷹型と青葉型の関係性に近い)
ちなみにライプツィヒ級2番艦ニュルンベルクはそこから更に船体の大型化がなされている為、ケーニヒスベルクの直系でありながら設計がさらに異なっている。
実は三連装砲を搭載した軽巡洋艦の先駆けとなったのがこのケーニヒスベルク級軽巡洋艦。
当時において三連装砲といえば戦艦に載せるべきものであり、軽巡洋艦に載せるのは革新的なことであった。
他に三連装砲を搭載した軽巡洋艦といえば、日本の「大淀」、イギリスのエディンバラ級、アメリカのクリーヴランド級などが挙げられる。
福井静夫は第一次世界大戦時のドイツ海軍を指して、「軽巡に関しては、独海軍は先駆者なりといい得べし。」(『世界巡洋艦物語』福井静夫/光人社)と記したが、どうやらWWI後も軽巡に関しては英国より一歩進み過ぎた考え方をしていた様子である。
本艦「ケーニヒスベルク」は就役後しばらく偵察艦隊の旗艦として行動。スウェーデンなど多数の国を訪れており、1934年にはライプツィヒと共にイギリスを訪れている。
1936年にスペイン内戦が始まってからは、海上査察のためスペイン方面へ遠洋航海をした。
本国に戻ると、主に砲術練習艦として扱われる。
第二次世界大戦がはじまると、北海での機雷の敷設に従事。
1940年にはヴェーザー演習作戦でのノルウェー侵攻に参加した。
三女ケルンと共にグループ3へ編入され、第69歩兵師団のうち600人の兵士を、ヴィルヘルムスハーフェンからベルゲンまで輸送する任務を受けた。
4月8日に出港、翌日には上陸地点であるベルゲン港の目の前まで来ていた。
港へ向けて全力航行していたところで、ノルウェー軍のクヴァルヴェン要塞から21cm沿岸砲の攻撃を受ける。3発を被弾し、ボイラー室への浸水と火災を引き起こして、速度は急速に低下していった。
空軍やケルンとともに砲台を無力化させながら、這う這うの体でベルゲン港にたどり着き、しばらくドイツへ戻るための応急修理が予定された。
しかし翌日4月10日、オークニー諸島のスカパ・フロー海軍基地から飛来した16機のスクア爆撃機より攻撃を受ける。第800、803イギリス海軍航空隊のものだった。
この攻撃によりケーニヒスベルクには少なくとも3発の100ポンド爆弾が命中した。そのうち1発は、甲板装甲と船底を突き破ったのち水中で爆発する。
これが致命傷となり、ただちに艦は傾き始めた。艦長のクルト・ツェーザル・ホフマンは総員退去を命令。
攻撃が開始されてから3時間弱で、ケーニヒスベルクは沈没した。この攻撃により18名の戦死者を出す。
その後、1942年7月17日に引き揚げ作業が行われ、翌年にかけて解体・スクラップ化された。
問題の多かったケーニヒスベルク級ではあるが、その設計思想はかなり時代を先取りした、先鋭的かつ野心的でありすぎたための弊害で発生した諸々の問題であったともいえる。
船体に軽合金を用いる、電気溶接でのブロック工法などは現代の軍艦建造の現場ではごく普通に行われているものでもある。
またCODOS式推進機関に関しても、用いる内燃機関こそ違えど現在の軍艦では多数の艦艇が採用する方式にもなっている。
(海上自衛隊の最新鋭艦「いずも」型でもCOGAG式の複数ガスタービンを使用した機関を用いている他に、後継のドイツ海軍においてもバーデン・ヴュルテンベルク級にもCODLAG式が装備されている)
彼女の艦艇建造や設計などを見た場合、当時の設計思想などからすると非凡なまでの先進性が見られ、そういった意味での評価では他国の軍艦とは一線を画するものだろう。
惜しむらくは当時の技術大国ドイツでも彼女の設計を生かすには技術水準が足らないほどに時代を先取りしすぎた点だろうか…
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