竣工と同時にそれまで翔鶴・瑞鶴・瑞鳳(祥鳳型2番艦空母で未実装)で編成されていた第三艦隊第一航空戦隊に、瑞鳳と入れ替わりで
編入される。大鳳が完成したのは1944年3月、既に戦況は逼迫しており、大急ぎで訓練を終えて実戦投入される事となる。当時の空母では
空地分離方式によって航空隊が母艦の指揮系統から切り離され、戦隊司令部の指揮下に置かれることとなっていた。
1944年2月15日、一航戦付属の航空隊として第601海軍航空隊が編成され、訓練・作戦時は翔鶴や瑞鶴に分乗するという形がとられていた。
新しく編入された大鳳にも第601海軍航空隊の一部が分乗。瑞鶴飛行隊から激戦区ラバウルを経て戻ってきたベテランもいたが、損耗率が
激しかったため、鹿屋海軍航空隊から補充を受けている。
かつて空母の航空隊は各母艦ごとに編成されており、たとえ同じ部隊であったとしても指揮系統はバラバラであった。
しかしこれだと、戦隊の司令部が航空隊を直接指揮できない、複数の空母合同での訓練や作戦が困難といった問題があった。
空母が補助戦力であった時代は大きな問題にはならなかったが、空母が主力に位置付けられた機動部隊では頭痛の種であった。
開戦期の第一航空艦隊では旗艦となる赤城に全空母の航空隊を統括指揮する総隊長を置き、
ミッドウェー海戦後の第三艦隊では翔鶴の飛行隊長たちが他空母の航空隊も指揮下に置く、という形式で運用されてきたが、
航空隊の練成が母艦の状況に左右される等の弊害も多く、日本海軍は1943年末から母艦航空隊の空地分離を導入したのだった。
これによって日本空母は所属の飛行機隊が消滅し、新たに番号名を冠した航空部隊が配備されることとなった*2。
このため1944年に就役した大鳳には、「空母○○飛行機隊」といったような固有の航空隊が存在したことはない。
3月7日から3月27日にかけて、呉、八島沖、徳山、釣島灯台沖、呉を転々としながら慣熟訓練を行ったが、内地では訓練用の重油すら事欠く
始末だった。このため同月28日に兵員輸送を兼ねてフィリピンへ向けて出港。燃料のある南方なら遺憾なく訓練が出来るからだ。岩国沖で
二式艦上偵察機、零戦、天山、彗星計約60機を収容。伊予灘長浜沖で駆逐艦秋月や初月と合流し、護衛を受けながら南下する。4月4日に
シンガポールへ入港。ここで配電盤から出火する事故が発生している。燃料と生鮮食品を搭載し、4月6日にリンガ泊地へと回航された。
第一戦隊司令官・宇垣纒中将は大鳳を観閲しているが、これといって感想を残していない。なんでやねん。
あ号作戦のため、この泊地には多数の空母や艦艇が集結していた。燃料事情が厳しい帝國海軍は、付近に油田がある南方に戦力を
集めざるを得なかった。4月15日、翔鶴から第三艦隊と一航戦の旗艦を継承し、司令長官・小沢治三郎中将の将旗が掲げられる。同月26日、
大鳳にて機動部隊の図上演習が行われた。長門艦長の兄部勇次大佐が赤軍(米軍)を担当。実際の米軍のようにマーシャル諸島から
機動部隊を出撃させ、サイパン島攻略を目指した。ところが青軍(日本軍)側は盛んに索敵機を放ち、厳重な警戒線を形成。米機動部隊はマリアナの
遥か東方で発見され、すかさず基地航空隊が出撃。これを撃滅し、遁走させるというムシの良い結果になってしまっている。青軍は現職の
艦隊幕僚が務めるのに対し、赤軍は一艦長に過ぎないため、物申す事も出来ず苦笑いだけで終わってしまった。翌27日には図上演習の研究会が開かれている。
4月28日、第601航空隊の爆撃査閲が行われる。錨地沖に停泊する標的艦波勝に爆撃を行い、一定の錬度に達する。
5月2日、小沢中将は指揮下の艦艇に、あ号作戦の遂行を命じた。作戦目的は米艦隊の撃滅とし、
「全軍敵の主攻撃地域における決戦に備え、一撃をもって敵艦隊を撃破し、その攻撃企図を破砕すべし」と述べた。
豊田副武長官は参加艦艇に対し、「皇国の興廃は・・・」から始まる東郷提督の信号を送った。5月3日午前10時15分より、大鳳艦上で
兵術研究会を実施。続いてリンガ泊地では翔鶴・瑞鶴とともに発着艦訓練を実施。5月6日に航空機を収容し、5月12日に第五戦隊や
第十戦隊とともに前進拠点のタウイタウイ泊地へと進出する。同時に艦内で、水上艦の基地出撃から進撃までの戦務図演を実施。
タウイタウイには戦艦大和や翔鶴、瑞鶴を始めとする帝國海軍の有力艦艇が集結しており、その数は73隻にのぼった。これが帝國海軍の
全力であった。しかしタウイタウイは無風状態の日が多く、訓練が妨げられた。タウイタウイ周辺には有力な航空基地が無く、空母艦載機は
周辺の基地に供出されてしまう始末だった。さらに湾外に出ようとすれば米潜水艦が手ぐすね引いて待ち構えており、思うように訓練が
出来なかった。対潜掃討を任された駆逐艦も相次いで返り討ちに遭い、短い期間に5隻が失われるという大損害が生じた。
このため搭乗員には思わぬ休暇を与えられ、上陸したり空母の舷側で釣りをするなど、束の間の休息を楽しんだ。
発着艦訓練が出来ないため、出来る事はせいぜい座学程度だったという。搭乗員の技量低下は、小沢艦隊司令部を深く憂慮させた。
5月16日、内地から空母隼鷹、飛鷹、龍鳳の第二航空戦隊と千歳、千代田、瑞鳳、戦艦武蔵、第四駆逐隊などがタウイタウイに到着。
戦力を拡充させた。5月中旬、四苦八苦しながらもリンガ湾で訓練は実施された。約20機の零戦が大鳳や翔鶴、瑞鶴の上空を旋回し、警戒。
これを仮想敵に見立て、雷撃隊が空母を攻撃するのである。空母を中心に据え、その周りを駆逐艦や巡洋艦が囲む輪形陣。攻撃側は高度200mの
超低空で艦隊に突入していく。雷撃を終え、離脱する敵を零戦隊が追撃。
続いて後続の雷撃隊が接近、これを零戦隊は様々な角度から攻撃した。5月15日午後4時、運送艦鶴見が接近。午後6時から補給を行い、2時間で完了した。
5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」を発令した。同日、大鳳艦上で小沢中将から訓示が行われた。
翌21日、大鳳にて戦務図上演習を実施。5月28日午前9時、翌29日午前9時30分にも図演とその研究会を実施している。
あ号作戦の実行戦力はタウイタウイに集結していたが、敵にその集結意図を察知された疑いが浮上。急遽、ギマラスへの移動が決まった。
6月8日、給糧船北上丸から食糧品の補給を受ける。
6月11日、第5艦隊司令長官レイモンド・A・スプルーアンス大将率いるアメリカ軍がマリアナ諸島に接近。その規模は、ミッドウェー海戦の日本側戦力の2倍に及んだ。
手始めに第58任務部隊がロタ、サイパン、テニアン、グアムを空襲。角田覚治中将指揮下の基地航空部隊・第一航空艦隊を殲滅、戦力の一角を失う。
出港前夜、全員に酒と肴が配られた。夜更けまで各居住区で酒宴が開かれ、士気は急上昇した。
6月13日午前9時、「あ号作戦」決戦準備発令に伴ってギマラス泊地に向かって出港。旗艦大鳳、翔鶴、瑞鶴からなる主力隊が甲部隊と
隼鷹、飛鷹、龍鳳からなる乙部隊が後方に展開し、前衛には千代田、千歳、瑞鳳の3隻からなる丙部隊と戦艦部隊が展開。
空母9隻と艦載機450機を携えた最大級の機動部隊が、小沢艦隊の全容であった。空は晴れ渡っていたが、午後に入ると曇天になった。まるで
日本の行く末を暗示しているかのように。3隻の空母から絶え間なく対潜哨戒機が飛び立ち、ここぞとばかりに訓練を行った。ところが思わぬ
アクシデントが襲った。対潜哨戒から戻ってきた1機の天山が大鳳への着艦に失敗し、甲板上の九九艦爆に衝突。爆発事故が発生したのだ。
あっという間に火の手が上がり、見る見るうちに火勢が強くなる。飛行甲板の前部が火の海になり、甲板上には右往左往する人の波が窺えた。
小沢中将座乗の大鳳は中心に配置されており、周囲の僚艦から丸見えだった。結局、零戦2機、天山1機、九九艦爆2機を喪失。先行きを暗く
思わせるには十分の出来事だった。
翌14日は天候が優れなかった。東方の陸岸から吹きつける風は強く、雨まで降り始めた。このため対潜哨戒機を放てず、薄氷を踏む航海が続いた。
幸いにして米潜水艦の襲撃は無く、無事ギマラス泊地東方へ入港。午後5時から全艦艇に燃料補給が始まった。
だが感傷に浸っている時間は無く、6月15日にマリアナ諸島・サイパン島にアメリカ軍が上陸を開始したとの報告が入った。
サイパン島は絶対国防圏*3に位置し、この重要拠点を守るために「あ号作戦」が発動される。
トラック所在の第四艦隊司令部が発行する艦内新聞で、乗組員達は米軍のサイパン島上陸を知る。
6月15日午前8時にギマラスを出港。空は晴れていたが、海が荒れていた。吹く風も強く、雲が足早に駆けて行く。
いよいよ米艦隊に決戦を挑む。マリアナ沖海戦(アメリカ側呼称・フィリピン海海戦)の始まりである
(出撃前に二日間かけて、ゴム系の迷彩を施したという証言があるが、関係者が後に全員死亡しているため詳細不明の謎となっている)。
空母機動部隊である第三艦隊と、戦艦や巡洋艦を中心とした第二艦隊を合わせた第一機動艦隊が編成され、大鳳は第三艦隊と兼任でその旗艦となった。
フィリピンは大小様々な島が集まった所で、大型艦が通れるのはサンベルナルジノ海峡くらいだった。小沢艦隊はここを通り、外洋へ出る。
20ノットの速力で急行している時も、サイパン方面からは状況を伝える通信が矢継ぎ早に入ってくる。
この海域の警備を担当している南西方面艦隊が哨戒機を飛ばしてくれていたので、艦載機を発進させる必要は無かった。
6月16日、渾部隊(ビアク島守備隊の支援のために派遣されていた、戦艦大和、武蔵等の部隊。指揮官は前述の第一戦隊司令官・宇垣纒中将)と合流。補給を済ませたのち、
翌17日夕刻に進撃を開始した。小沢中将は勝利を確信していたらしく、大鳳には軍楽隊が乗っていたという。
第一機動艦隊は、空母部隊(第三艦隊)を中核戦力としつつ、水上打撃部隊(第二艦隊)をその前衛に配置した、これまでで最大規模の空母機動部隊であった。
同時に日本海軍創設時からの主力艦隊であった第一艦隊が解体され、連合艦隊の編成は戦艦部隊中心から空母機動部隊へと切り替えられる。
開戦以前から意見されてきた空母機動部隊の理想形がようやく実現し、空母が名実ともに戦艦に代わる日本海軍の主力として位置づけられたことを示すものであった。
しかしそれはあまりに遅きに失していた。当時日本海軍では燃料不足が深刻化しており、油槽船の不足もあって第一機動艦隊の行動は制限されていた。
9隻の空母と艦載機439機を主戦力とし、戦艦大和、武蔵、長門らを護衛に配備するという、開戦時を上回る大戦力ではあったものの、
頼みの航空隊は旧式化した航空機や練成不十分なパイロットが多く、新鋭の空母と艦載機を多数擁する米機動部隊との戦力差は歴然であった。
本来は不利を補うために太平洋の島嶼に展開した基地航空部隊(第一航空艦隊)と連携して迎え撃つ作戦であったが、
そちらも事前に作戦を察知したアメリカ軍の機動部隊によって先手を打たれ、壊滅状態に追い込まれてしまう。
質・量ともに劣勢を強いられる日本側は、苦肉の策としてアウトレンジ戦法を採用。
航続距離が長いという日本機の特徴を活かし、米軍機の攻撃圏外から、航空隊だけで長躯して敵を攻撃する…。
こうする事で母艦を危険に晒す必要は無くなるが、同時に、ただでさえ錬度がまだまだ未熟な搭乗員に、多大な負担を強いることになった。
6月18日、第一機動艦隊の旗艦として、初陣となるマリアナ沖海戦に参加すべく太平洋を進撃…するのだが…
5日前にギマラスへ向けて出港した時から既に日本艦隊は米潜水艦群の追跡を受けていたのだ。
6月13日、ギマラスへ向かう日本艦隊の出撃がいきなり米潜水艦レッドフィンによって発見され、
6月16日には大鳳ら空母部隊からなる第一機動艦隊がフライングフィッシュに発見される。
同じく16日、戦艦大和、武蔵などの第二艦隊もシーホースに発見されると、これら主力艦隊の給油を担う第二補給部隊まで
カバラに発見……至る所で日本艦隊の行動は敵に筒抜けだった。
しかも元々薄い対潜網が、度重なる駆逐艦の喪失で更にスカスカになっていたため、殆どの隊が潜水艦の追跡に気づかなかった*4。
対する米潜水艦群は見つけた獲物たちを仕留めるため更に応援を呼ぶ。それに応じて馳せ参じた中に、あのアルバコアもいた。
6月17日夕刻、第一機動部隊は再びカバラに捕捉されたが、伝達不備によりスプルーアンス長官に伝わったのは翌18日朝だった。
受け取った時には既に情報が古くなっていた事から、スプルーアンス長官は陸上基地に索敵させたが発見できず。この日は何の情報も得られなかった。
ミッドウェーでの戦訓から、小沢中将は索敵に力を入れた。決戦前夜の6月18日午前5時、索敵機を発進。午前11時に第二波の索敵機を発進させた。
すると午後2時15分、サイパン西方に敵艦隊発見の報が飛び込んできた。前衛部隊の空母千代田は航空機21機を発進させたが、小沢中将は攻撃中止を命じた。
今、発艦すれば帰投は夜になる。錬度未熟な搭乗員に夜間の着艦は不可能と考え、中止を命じたのだった。一方、米艦隊は直掩機を含む全艦載機を収容しており
もし攻撃に転じていれば、一矢報いる事が出来たかもしれないと後世の歴史家は語っている。
その後、発艦の際に戦闘爆撃機が1機墜落したと千代田から報告を受けている。続いて大鳳からは発光信号で作戦要項などの命令を各艦に送った。
ところが索敵機収容等で一部の艦艇は離れており、発光信号を理解できない艦もあった。中間辺りにいた瑞鶴が中継してくれたが、
全艦に伝わったとは言いがたい状況だった。ともあれ、決戦は明日に持ち越されたようである。
翌19日午前5時30分、搭乗員が一斉に起床。今日の天気はあまり優れないようだ。飛行甲板には既に航空機が並べられ、準備が整っていた。
敵に発見された兆候は無く、廊下ですれ違った幕僚は「今日こそは我が軍の勝ちですよ」と呟きながら艦橋へと走っていった。
(文春文庫「太平洋戦争の肉声? 悲風の大決戦」出典)
だが大鳳はついにアルバコアに捕捉される。潜望鏡から覗く大鳳は発艦作業中だった。午前7時45分、大鳳は右翼へ向けて第一次攻撃隊の42機を発進させていた。
攻撃するには絶好の距離。アルバコアは6本の魚雷を扇状に発射した。うち2本が、大鳳に向かって伸びてきた。
この時、第一次攻撃隊として発艦したばかりの小松幸男上等飛行兵曹は、複数の航跡を発見。単独で機を旋回させたのち、愛機の彗星を海中に突撃させ、
魚雷1本を盾となって防いだ。この様子は周りの搭乗員からも目撃されたという。
ところが残りの1本がそのまま伸びていき、28ノットの速力で回避しようとしたが逃げ切れず8時10分に右舷前部へ直撃。
衝撃でエレベーターが停止した。しかし当初は大した影響は無く、「さすがは不沈艦だ」という声さえ聞こえた。
被雷の際、カーンという金属音が響き渡ったという。直後に艦内スピーカーから「本艦右舷前部に魚雷命中。戦闘航海に支障なし」と聞こえてきた。
一時は騒然した艦橋も静まり。乗組員は艦への信頼を寄せた。発艦したばかりの航空機からも、平然と航行する大鳳の姿が見えて安心したという。
護衛を務めていた駆逐艦秋月と初月が、彗星の突っ込んだ地点に爆雷を投下するが、アルバコアには逃げられている。
だが艦内では不幸の連鎖が始まっていた。爆発によって燃料系統が損傷。破損したガソリンタンクから気化したガスが漏れ、乗員らは必死に換気を行う。
ガソリンタンクの後ろは弾薬庫だった事から、すぐに火気厳禁の命令が下った。作戦を続行するには前部エレベーターの破孔を防ぐ必要があり、復旧作業が始まった。
その作業が終わったのが14時頃だった。この時、攻撃隊が帰投してきたが、その数は僅か4機。修復作業の間隙を縫って、大鳳は第五次攻撃隊を発進させる。
予定では28機が発進するはずだったが、18機のみの発進となった。
破れたワイシャツを着た通信長が艦橋に現れ、被害状況を報告する。通信指揮室、無線室などは爆発により圧壊。紙一重で助かった者と、運悪く死傷した者に分かれた。
機関室などの下部とは音信普通で、全員戦死と判断された。一度は落ち着き始めた火勢が再び盛り返し、防毒面をかぶらないと熱い。
破孔を塞いだ事でガスの逃げ場が無くなり、あっという間に充満。14時23分に引火し、大爆発。多数の乗組員が海面に吹き飛ばされる様子が見えたという。
せっかくの重装甲が仇となり、爆発の衝撃が艦内に凝縮。甲板の何箇所かが盛り上がり、内部の乗員は殆ど助からなかった。
同時に消火装置は全て破壊し尽くされ、もはや鎮火は困難。機関部との連絡は断たれ、消火管のバルブを開ける事も叶わなかった。
やがて弾薬庫にも引火し、更なる大爆発を引き起こす。攻撃力不足を補うため、大量の弾薬や燃料を搭載していただけに
爆発の威力は計り知れないものと化した。致命傷を負った大鳳に、もはや助かる道は無かった。
全艦が猛火に包まれた大鳳を心配し、乙部隊の龍鳳が接近してきた。これに対し「近寄るな、付近に敵潜水艦2隻あり」と信号を送り、遠ざけた。
時間差で駆け寄ってきた隼鷹と飛鷹にも同様の信号を送っている。
沈みかける大鳳の艦橋にて、小沢中将は黙って座っていた。どうやら艦と運命を共にする気らしい。参謀長の吉村啓蔵少将は、旗艦変更を進言した。
だが小沢中将は聞き入れなかった。艦長の菊池朝三少将や先任参謀の大前敏一大佐も説得に加わる。ついに小沢中将は折れ、旗艦の変更を承認。一度駆逐艦若月へ移乗する事になった。
大爆発の際、殆どのカッターが破壊されてしまったが、艦橋が盾になって1隻だけ無事なものがあった。そのカッターを海面に降ろし、機銃台から縄梯子を垂らした。
古村参謀長は「長官、私が模範を示します」と言い、率先して縄梯子を降りてカッターに飛び乗った。これにならうかのように続々と移乗が始まり、司令部の移動が完了。
その直後、前甲板に繋がれていた零戦のガソリンタンクが引火し、カッターの直前にまで炎の海が広がった。間一髪だった。
火達磨状態の大鳳だが、艦尾は比較的安全だった。駆逐艦峯風は大鳳の艦尾に接近し、生存者の収容を開始した。
16時6分、小沢長官は将旗を羽黒に移して移乗。生存者約700名は艦尾に横付けされた磯風らに救助された。なおも艦上に残っていた乗組員が
軍艦旗を押し立てて頑張っていたが、艦体が半分沈んだ頃に突如として艦が逆立ちになる。逃げ遅れた乗組員は艦と共に沈んでいった。
爆風に吹き飛ばされた者の中には、かろうじて戻ってきた航空機の搭乗員数名もいたという。
菊池艦長は大鳳とともに沈むべく、ハンモックを巻き付けていたが爆発の衝撃で海面に投げ出され、意識不明の状態で救助された。
そして左側に傾斜し、16時28分に沈没してしまった*5。
わずか3ヶ月の艦歴であった。一度も敵の空襲を受けることなく、装甲化された飛行甲板の有用性を示せないまま…。
生存者の一部は瑞鶴にも収容された。格納庫には負傷者や戦死者であふれ、唸り声や叫び声がこだました。その様子はこの世の地獄だった。
沖縄の中城湾に入港する前、艦上で戦死者の海軍葬が行われた。戦死者1体1体に砲弾を持たせ、毛布に包んで水葬。
引火の原因には諸説あり、乗組員が修理する際に飛び散った火花とする説、燃料切れで次々に落ちていく味方艦載機に耐え切れず、小沢長官が着艦許可を出し、
そこから生じた火花が原因とする説、排気用電動送風機の火花説など…これもうわかんねぇな。
このとき、彼女の護衛として磯風らがいたのだが、艦隊に楽観的雰囲気が漂っていた上、「手空きの乗員は上甲板で攻撃隊発艦を見送れ」との指示が出ており、
対潜警戒がおろそかになっていたとも言われている。
たった1本の魚雷で切り札の装甲空母が沈没してしまった事は、軍上層部に大きな衝撃を与えた。
さらには僚艦の翔鶴も、11時20分に別の潜水艦カヴァラから発射された魚雷6本のうち3、4本が命中し、
航空燃料タンクを損傷→気化ガスが艦内に充満→引火・爆発・火災という、大鳳と同じ過程を経て14時10分に沈没してしまう。
敵潜水艦の攻撃によって、歴戦の武勲艦に期待の新鋭艦という主力空母2隻を、100機以上の艦載機や2,000名もの乗組員と共に喪失してしまうなど、全く想定外の事態だった。
日本海軍は戦いが始まって早々に思いもよらない深手を負うはめになり、日本の命運をかけた一大決戦の行方にも暗雲が立ち込め始める。
余談だが大鳳・翔鶴を失った戦訓から、海戦後、呉海軍工廠で損傷復旧かたがた対空兵装の強化、不沈対策が施された瑞鶴には航空燃料タンク周辺を補強する改装が施され、
艦首底部に設置されていた零式聴音機がもう1基増設されている。このおかげか、レイテ沖海戦において瑞鶴は敵の魚雷に対してかなりの耐久力を発揮しており、
2隻の喪失も無駄ではなかった…と信じたい。
また珊瑚海海戦で戦没した米海軍のレキシントンも大鳳と同じ原因で喪失しており、よく比較される。
レキシントンは五航戦からの攻撃で爆弾と魚雷2発が命中した後、ダメージコントロールによって一時は持ち直したかに思われたが、
やはり航空燃料タンクから漏れた気化ガスに引火して大爆発を起こし、火災の勢いを止められないまま沈没した。
レキシントン級は当時の米空母としてはめずらしく密閉式の格納庫であり、大鳳と同じく艦内の気密性が高かったことが仇となった。
そして大鳳らが送り出した第一次攻撃隊も、歴戦の空母エンタープライズ(空母)及びエセックス級6隻を中心とした
米第5艦隊・第58任務部隊のレーダーに早期から捕捉されており、万全の体制で待ち構える敵艦隊の迎撃によって
見るも無残な状況へと陥っていた。400機もの戦闘機と激しい対空砲火によって日本の攻撃隊は次々と撃墜されていき、
「マリアナの七面鳥撃ち」と嘲笑されるほどの惨状であった。嫌いな食べ物?七面鳥よ。
197機中、138機を撃墜されるという目を覆いたくなる損害を出した。対する戦果は17機撃墜、戦艦ほか6隻を小破させるだけに留まった。
第二次攻撃隊以降は敵艦隊を発見すらできない攻撃隊も相次ぎ、敵艦隊へはついぞ致命打を与えられないまま、アウトレンジ戦法は完全なる失敗に終わる。
当初は大部分がグアム島に降りているだろうと司令部は楽観視していたが、戻ってきた残存機からの報告により、攻撃が失敗した事を知る。喪失機はこの日だけで200機近くにものぼった。
翌20日、旗艦を瑞鶴に移した小沢長官は一時後退した後に再起を図ろうとしたが、夕刻、追撃してきた米機動部隊からの空襲を受け、飛鷹が沈没し、瑞鶴や隼鷹も損傷を負ってしまう。
連合艦隊司令部は第一機動艦隊にあ号作戦の延期と撤退を命令し、米艦隊も追撃を切り上げたことで、マリアナ沖海戦は終結する。
この戦いで日本側は空母3隻と400機以上の航空機を喪失し、機動部隊も基地航空部隊もほぼ再起不能な壊滅状態に陥ってしまう。
事前の情報戦や保有戦力、実際の作戦行動に至るまで、日本側の完全なる敗北であった。
そして航空戦力の大部分を失った日本海軍ではこの後、強大な米艦隊に対抗していくのは到底不可能であった。
翌7月7日、サイパン島陥落で絶対国防圏の一角が早くも崩れ去り、日本本土への本格的な空襲も始まる。
悪化の一途を辿っていた戦局はついに後戻りできない転機を迎え、日本の敗戦は確定的となったのだった。
期待を一身に背負った次世代の空母でありながら、その最期はあまりにもあっけなく、悲運艦の一つとして語られる事も多い。
アズールレーンでの性格にも、その艦歴が反映されているのかもしれない。
日本海軍で最も発展した空母ではあったが、その戦歴の短さと残された資料の少なさから、評価が難しい艦の1つでもある。
特に一度も敵の爆撃を受けず、日本の装甲空母がどのくらい実戦で有効だったのかが不明なまま失われてしまったことは、後世の研究者からも大変悔やまれている。
大鳳の残骸は、地球で最も深いマリアナ海溝に沈んでいるため、未だ発見されていない。
余談だが米軍は大鳳が沈んだ事を知らず、レイテ沖海戦まで健在だと勘違いしていた*6。一方、日本側は大鳳の喪失を認識していたが、書類上では何故か健在だった。
1944年8月10日、単艦で第三艦隊所属となる。11月15日には連合艦隊所属となり、終戦後の1945年8月26日になってようやく除籍された。
生き残った乗員の一部は、雲龍に配備されたとか。
第601航空隊は再編の後、三航戦の第653航空隊と共に瑞鶴らに乗り組んでレイテ沖海戦を戦い、1945年2月10日に一航戦が解隊となった後は基地航空隊として戦いを続けた。
生き残った乗組員たちは戦後、1969年に戦友会こと空母大鳳会を結成。元艦長の菊池大佐が会長を務め、神奈川県に所在。毎年、靖国神社で慰霊祭を実施している。
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