「この軽快で高速の戦闘機、その勇敢なパイロットたちは、すべての相手を撃破してあばれまわった。
“奴らはただのネズミではなかった。奴らは操縦桿をにぎった空の鬼だ”と米英のパイロットは、くやしがった。
そして太平洋戦争開戦以来、零戦による大損害の報告は前線から殺到したが、首脳たちは信じようとはしなかった。
その間、零戦は太平洋の大空を支配した。」
〜マーチンケイデン氏著『Zero Fighter』より抜粋〜
- 開発は1936年頃から開始された。開発の切欠は「支那事変における爆撃機の長距離護衛の為」と書籍で書かれる事もあるが、
本来想定されてた用途は「友軍艦隊の上空で6時間程度の長時間滞空である事」でありこれが航続距離の長さに繋がっている。
これは艦隊上空に飛来する敵機の迎撃と、1936年当時はレーダーが無かった頃であり、
レーダーで敵機を探知して発艦迎撃という芸当が不可能な為、迅速な迎撃の為には艦隊上空での待機が必須な為であった。
この要求から分かる通り、本来は艦隊防空の為の迎撃戦闘機の性格が強いものであった。
要求は他にも多岐に及び、設計者から無い物ねだりだと言われるものであった。
- 支那事変において南京から遷都を繰り返して中国奥地へと逃げる国民党に対し、日本海軍は九六式陸上攻撃機で、
暫定首都の重慶に対して戦略爆撃を実施していた。当時長大な飛行距離についていける戦闘機が存在せず、
また世界的に戦闘機無用論((当時の快速の双発の爆撃機に対して、単発の戦闘機では迎撃は困難なので戦闘機を軽視する理論。
この性能の優位は一時的な現象に過ぎず、戦闘機無用論は各国は実戦で将兵の犠牲によって間違いだったと認める結果となった))が渦巻いていた為、
日本もその思想による護衛無しで爆撃機を出撃させ続けた。
その結果、当然ながら国民党軍機の迎撃((爆撃地点に来る頃には迎撃機は上空で待ち伏せしていた。
これは中国軍が重慶に爆撃に来る日本軍を道中で目視で察知し連絡を入れた為))で多数の爆撃機が撃墜され、多大な損害は戦闘機無用論を吹き飛ばした。
- 1940年、零式艦上戦闘機一一型が誕生する。皇紀2600年に制式採用された事から、零式の名が付けられた。
試作機に近い一一型だが大陸の戦況が急を要するため、7月21日に支那戦線の漢口基地に派遣された。
これはソ連からSB爆撃機の供給を受けた国民党軍による漢口空襲で日本機数十機が地上撃破されるなど多大な損害を被っており、
当時としては450kmの快速を誇るSB爆撃機に対抗する為であった。
基地防空の為派遣された零戦だが、結果的に初陣は九六式陸上攻撃機の護衛任務となった。
零戦は初陣にて国民党軍機34機に対して13機で挑み、24機を撃墜、撃破をしている。
初陣を圧勝で飾り、7月31日に制式採用された。圧倒的な性能を誇る零戦を見て、日本の荒鷲は性能を試してみたいと一様に思った。
- 鮮烈なデビューを飾った零戦に、国民党軍は震え上がった。8月19日の重慶爆撃では12機の零戦が参加したが、
敵の戦闘機は零戦を見るや臨時首都が爆撃されるのを尻目に逃げ出してしまった。こうして零戦は砲火を交える事無く作戦を完遂、1850kmに及ぶ。
無着陸往復飛行をやり遂げた。これはヨーロッパやアメリカの技術者が不可能だと考えていた飛行距離を、あっさりと達成してしまったのである。
逃げ腰の国民党軍を挑発するため、9月12日の重慶爆撃では都市の上空を旋回して待った。
敵は戦闘機を上げなかったので飛行場を銃撃して更に挑発を行ったが、それでも迎撃は無かった。国民党軍が心底零戦を恐れていた証左と言えるだろう。
そこで零戦隊は罠を仕掛け、敵が引っかかるのを待ち伏せた。すると、敵の戦闘機がのこのこと現れ、重慶市内に着陸しようとした。
13機の零戦が、27機のソ連製単葉機イ-16に襲い掛かった。わずか30分で国民党軍機は全滅。
22機が零戦によって撃墜され、2機が空中接触で墜落、3機が被弾もしていないのに怖気付いて脱出、墜落という圧勝だった。こうして1940年の戦闘は終わった。
59機の敵機を撃墜し、42機を地上撃破。零戦の被害は文字通り零だった。
- 散々に蹴散らされた国民党軍だったが、他国から戦闘機をどんどん購入しては攻撃に充ててきた。だが零戦と戦えば必ず中国側が大敗した。
1941年3月14日に生起した成都上空の空戦でも同様だった。24機の国民党軍が零戦隊に敗退し、壊滅した。零戦の被害は相変わらず零。
しかし5月20日の成都攻撃で、初めて零戦が撃墜された。激しい対空砲火を受け、被弾した零戦の1機が炎上。地面に激突して爆発した。
だがこの戦闘でも中国側の勝利とは言いがたいものだった。約一ヶ月後に2機目が撃墜されたが、これが最後の被撃墜だった。
対空砲で撃墜された機体はあったが空戦によって撃墜、撃破された零戦は無かった。
- 現地の日本側搭乗員にとって、零戦の到着は歓喜そのものだった。
九六式艦戦の航続距離では届かないほど戦場が奥地になり、爆撃機に被害が出始めた頃に、足の長い零戦が到着したのだ。
- 国民党軍は練習に丁度良い相手だったようで、のちのエースパイロットが多数輩出される土台となった。
- ただし、零戦一一型は実戦を経て幾つかの欠点が報告される。
- 急降下速度制限については、これが原因で昭和15年の空中分解事故(下川事件)で殉職者も発生している。
この時点での一一型と二一型の急降下速度制限は致命的で計算上900km/hに耐える筈がたった575km/hまでしか耐えられなかった。
原因は主翼剛性の不足であった。一一型の初期型はそのままスクラップとされ、その他も練習機扱いとなった。
空母の主力機である二一型は主翼改装により昭和16年9月より開始。12月の開戦までに何とか間に合わせた。
この時の主翼の改装により、二一型の最高速度は509km/hから533km/hに上昇し、急降下速度制限も629km/hに上昇している。
- 他には後々弱点と言われる高速時の舵の効きの悪さ。そして防弾装備である。
高速時の舵の効きについては二一型後期と三二型で修正が行われたが、
元々の主翼設計の不備による剛性の問題*1があり、最後まで欠点として残った。
防弾装備については開発当時はどの国も防弾装備については無頓着であったが仮にこの時点で防弾装備まで付け加えると元々の発動機の出力が低い以上、
無理に付け加えれば性能の低下は避けられず後の戦果と同等の戦果を挙げる事が出来たか疑問が残る。
- あとは零戦の問題ではないが、戦闘機用の小型無線機が碌に作動しない問題があった。
これは戦闘中、僚機と無線を使っての連携という行為が不可能であり、これが後々問題になってくる。
原因は当時の日本の品質管理の低さなど諸々あるが、一番の原因はアース線の取り付け方が間違っており1945年まで改善しなかった。
- 米英との戦争が不可避になってくると、零戦の航続距離を伸ばす特訓が行われた。
台南からフィリピンのクラークフィールドまでは700km、ニコラスフィールドまでは800kmも離れており、
当初は空母が必要だと考えられていた。だが零戦の航続距離を伸ばせば空母は不要になる。
編隊を組むための飛行や戦闘などを考慮すると約1750〜1900kmの無着陸飛行を強いられる。
これを実現するため支那戦線帰りのエースが猛特訓を行い、見事実現させた。
- 支那事変で列強各国は観戦武官を送っていたにも関わらず、零戦を過小評価していた。
アメリカはバッファロ戦闘機を東洋最強と自負し、日本の航空隊より遥かに優れたものだと絶対の自信を抱いていた。
ゆえに零戦をろくに研究せず、適当に扱っていた。
- 当時の単発機としては異例の長大な航続距離と良好な空戦能力、熟練したパイロット達により太平洋戦争初期の快進撃を支えた。
零戦の生産数はまだ少なく、それも第一・第二航空戦隊に優先配備されていたため南方作戦ではあまり活躍の場は無かった。
開戦劈頭、台湾から出撃した零戦隊は長躯。フィリピンのクラーク飛行場とイバ飛行場を攻撃し、駐機していた米軍機を破壊せしめた。
在比米軍から航空戦力を奪い、その後の南方作戦を円滑なものにしている。あまりの航続距離の長さに、
米軍側は台湾から飛来したとは思えず付近に空母が潜んでいるとして捜索している。
- 開戦から半年の間、零戦は無敵だった。軽快な動きは、鈍重な米軍機の背中を捉えやすく、パイロットの技量も相まって多くの敵機を撃墜。
アメリカ軍が最強と謳っていたバッファロは零戦に瞬殺され、全く太刀打ちできなかった。カーチスP-35とモーホークも同様に屠られた。
唯一キティホークのみ堅牢さと優れた急降下速度を活用できた時だけ、零戦に対抗可能だった。
一方、イギリス軍は当初日本軍をイタリア空軍程度であり装備する機体も粗悪な劣化コピー品だと侮っていた。
しかしその考えは過ちである事をすぐに証明された。ポートダーウィン空襲やセイロン沖海戦では、
イギリス軍のハリケーン戦闘機やソードフィッシュに完勝。
ダーウィンではスピットファイア戦闘機を持ち出すが苦戦を強いられた。
独伊軍に通用した戦法がまるで効かない*2と、イギリス軍を驚かせた。
人種差別が激しいご時勢だっただけに、撃墜された敵パイロットの中には、ドイツの技術者が作ったに違いないと思い込んでいる者もいた。
- 上陸した帝國陸軍の部隊が敵の飛行場を制圧し、そこへ零戦隊が進出。長大なエアカバーを提供した。
タラカン、バンジェルマシン、バリクパパン、バリ島、ダバオ、ケンダリー、マカッサル、メナドと次々に進出し、
オランダ軍の本丸であるジャワ島を攻囲。上がって来る敵機を叩き落とした。
零戦は500機の連合軍機を落とし、西太平洋の制空権を確保。緒戦の快進撃を支えた。そのキルレシオは1対10と言われている。
- 有名な小話として、こういうものがある。
1942年、エースパイロット坂井三郎氏と僚機2機がポートモレスビー攻撃に向かった時、敵の飛行場上空2000mで3回宙返りするという軽業飛行を行った。
あっけに取られた敵は対空砲の1発も撃たなかった。
その日の夜、敵機がラエに飛来し、手紙を落としていった。そこには、「ラエの司令官殿。我々は、今日我々を訪問した三人のパイロットに感心した。
我々は、彼らが飛行場上空でやった宙返りが気にいった。もう一度ここへきてくれれば、ありがたい。みな、緑のマフラーをつけてきてもらいたい。
我々は今日、なんのおもてなしもできなかったことを残念に思っているが、つぎのときには、必ず全力をあげて歓迎したいと思っている」と書かれていた。
3人は中隊長にこっぴどく叱られ、以降軽業飛行は禁じられた。
- 零戦は高い旋回性能を持ち、鈍重な米軍機の後ろを取るのが得意だった。戦闘機同士の空戦はドッグファイトと言うように、相手の背中を取った者が勝つ。
小回りの利く零戦は、ちょうど米軍機の弱点を突く形だったのだ。これが零戦を撃墜王に仕立て上げた要因である。
ただ、狙ってその性能を獲得した訳ではなかった。日本の技術力では高出力エンジンを造る事が出来ず、非力なエンジンでも飛ぶように機体を極限まで軽量化した。
その副次効果で機動性が向上したので、防御力は紙のごとくペラペラであった。
- 零戦の弱点は構造材に穴抜きを施した極端な軽量化による強度低下によって発生した急降下速度の制限と、
その手間暇掛けた構造上の都合による生産性の悪さと費用の高さ*3であった。
また400km/hを越える高速飛行時の舵の効きが悪く、同時期の日本陸軍機にあった防弾装備も一切無かった。
また装備された20mm機銃も発射するとその反動で強度の無い翼が撓み、その影響で弾道が安定せず所謂「小便弾」となり、狙い通りに命中しない欠陥があった。
ただしこの極端な設計により米軍で「空力学上ありえない機体」とされ、長らく恐れられていたため一長一短ではあるのだが。
- ところがミッドウェー作戦と並行して行われたアリューシャン作戦で、零戦に大きな転機が訪れる。龍驤所属の零戦がアクタン島に墜落。
沼地だったため、損傷が少なかった。本来、鹵獲を避けるため僚機が機銃で破壊するのだが、パイロットの生死が確認できず躊躇ってしまった。
故にほぼ完全な形で零戦が鹵獲される事になる。ちなみに当のパイロットは首の骨を折って死亡していた。
- アメリカ軍によって鹵獲された零戦(アクタン・ゼロ)による研究結果により弱点を暴かれ、零戦が得意な格闘戦に付き合わず上方からの一撃離脱などの対策が編み出された。
&color(Silver){ただしアクタン・ゼロが対零戦戦術に与えた影響はかなり意見が割れている。
サッチウィーブと呼ばれる2機によって行われる空中機動戦術もアクタン・ゼロの発見が元と思われがちだが、実際には真珠湾攻撃以前に考案された物である。};
次世代機開発も難航しており、従来のF4Fワイルドキャットに代わる新型戦闘機F4Uコルセア、F6Fヘルキャットの登場により次第に劣勢を強いられることとなった。
- 余談だが、アクタン・ゼロが鹵獲される1年半前の1941年2月、中国の昆明で墜落した零戦が回収されている。
このクンミン・ゼロの情報はアメリカやシンガポールに送られたが、当時はまだ零戦を過小評価していた時期でありこの情報が使われる事は無かった。
- 後継機の開発が遅れた事により、旧式になりつつも第一線で奮闘。南太平洋では敵軍の新型機や爆撃機と幾度と無く対戦し、その存在感を知らしめた。
B-26のパイロットであるジョン・N・ユーバンク大尉は、「米国内で、日本軍が空では米軍の相手ではなかった、といいふらしている奴はバカだ。
我々が、ニューギニアやラバウル上空でお目にかかった日本軍は、ただのパイロットではない。彼らは操縦桿を握った鬼だ。彼らは実に強かった。
米軍が精鋭をことごとく継ぎ込んで、必死のつばぜりあいをやっていたことは、全く疑いない事実であった。そして、ラエの日本軍基地は酷いところだった。
山系をこえて一歩踏込むと、まるで、熱い炭火の上にのせられたようなものだった……それは酷いものだった。
全く、酷かった。ここの日本軍パイロットは、なんとも全く、強い連中だった」と率直に述べている。
彼はエースパイロット坂井三郎氏が駆る零戦とも交戦しており、ラエを奇襲するはずが逆に奇襲を受ける羽目になった。
「零戦は、我々に食い下がり猛撃してきた。私は“空飛ぶガラクタ”みたいになった爆撃機で基地にたどりついた。
機体はみな、深い裂けめや穴、弾痕などで一杯だった。零戦の日本人たちは、我々を酷い拷間にかけたようなものだ。」と呟いている。
- このようにエースパイロットが乗れば敵の新型機をも叩き落とせるほどだったが、
経験豊富なパイロットは戦死ないし教官として後方送りとなり、素人パイロットが大半を占めるようになった。
改良型の52型が誕生した事でどうにか一線を退けたが、戦争末期の特攻作戦で再び使用される。
- 余談だがビルマ方面(現在のミャンマー)で連合軍に「ブラックドラゴン飛行隊」と呼ばれる日本軍の戦闘機部隊があった。
ガダルカナル方面から来た精鋭パイロットで構成された零戦6機編隊の部隊で、指揮官機は黒塗りのドイツ機Me109だったという。
&color(Silver){なお完全に見間違えでありビルマで活動していたのは日本陸軍の一式戦闘機隼の部隊である。当然Me109もいない。
隼を零戦と誤認する例が多かった。日本陸軍としては真に遺憾である};
- 零戦二一型は改良型の登場も相俟って、残った機体は後方で練習機などに回されたものもあった。
しかし九九式艦上爆撃機の旧式化とその後継機の彗星の配備の遅れもあり、海軍は二一型の爆弾を装備させ代替機とされた。
これが俗に言う爆戦である。
また爆弾投下後、空戦に参加することも期待されたが一騎当千の練度を誇った開戦時の搭乗員はともかく、戦時中の爆撃搭乗員にそこまで可能な練度は無かった。
機体構造上、急降下爆撃は出来ないが緩降下爆撃は可能であり、本来は60kg爆弾搭載がカタログスペック上の零戦だったが、
機体真下の本来は増槽タンクを設置する場所に250kg爆弾を設置した。増槽の重量を顧みればこれは可能な事だったが巡航速度は相応に低下した。
余談だが零戦は250kg爆弾の代わりに500kg爆弾も搭載も可能だが、これは設計時には全く考慮されていないものであり、言わば特別攻撃仕様であった。
- ちなみに海外では零戦はヴォート V-143戦闘機のコピーという珍説が出回っているが、当時のヴォート社の関係者による思い込みであった。
V-143の設計者が調べた結果、明確に否定されている。ただしV-143は日本に輸出され油圧の主脚構造など大いに参考にされたのは事実である。
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