- ドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦三番艦。アズールレーンに実装されているドイッチュラントの同型艦になる。艦名の由来は第一次世界大戦で東洋艦隊司令を務めたマキシミリアン・フォン・シュペー提督。
- 先発の姉たちから得られた教訓を活かし、随所に改良がなされている。舷側装甲が増加し、防御甲板の延伸等が図られており、ドイッチュラントより排水量が約400トン増加。
- 計画艦Cの仮称を与えられ、1932年10月1日にヴィルヘルムスハーフェンで起工。1934年6月30日に進水し、シュペー提督の娘が洗礼を行った。続いて公試で28.5ノットを記録。
そして1936年1月6日に竣工を果たした。4月まで海上試験を行った後、5月9日に戦闘艦隊の旗艦となる。31日、艦隊旗艦としてキール付近のラーボエに開館する海軍記念館の式典に参加。
- 6月6日より大西洋で訓練を行っていたが、スペイン内戦勃発に伴い中止。ドイッチュラントが率いる艦隊に編入され、スペイン内戦に介入。フランコ総統率いる国粋派を支援する事となる。
- 1937年5月15日、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加するためイギリスに派遣。ドイツ海軍が生み出した血涙の結晶は、重巡足柄や戦艦ダンケルクとともに世界の注目を浴びる。
その後もスペイン沖で任務に従事。
- 1938年8月22日、ハンガリー海軍のフォン・ホルティ提督の歓迎パレードに参加。10月6日から23日にかけて大西洋で訓練。
- 1939年初頭、FuMO22射撃レーダーと10.5cm連装高角砲を装備。3月22日よりメーメル返還の式典に参加、ドイッチュラントと随行した。
4月18日からは装甲艦三姉妹が一緒に行動、スペイン国粋派の勝利を祝してセウタやリスボンに寄港している。5月30日、スペインから凱旋帰国するコンドル軍団を乗せた
ヴィルヘルム・グスタロフ等を護衛しハンブルクに入港。
- 風雲急を告げるヨーロッパ。大西洋で訓練していたグラーフ・シュペーは8月17日に、急遽帰国の途に就く。ヴィルヘルムスハーフェンに入港すると、戦備を整え始めた。
ポーランドに侵攻すれば英仏が宣戦布告してくると睨んでいたレーダー提督は、ドイッチュラントとグラーフ・シュペーを大西洋に忍ばせる事にした。
8月21日、ひそかに出港。イギリス本国艦隊の捜索を巧みにすり抜け、アイスランド南東に到達した。
- この時、ドイツ海軍が投入できた大型艦は僅か4隻。ドイッチュラント、シャルンホルスト、グナイゼナウ、そしてグラーフ・シュペー。虎の子の大型艦として戦場を駆ける事になる。
- 9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻を機として英仏が宣戦布告。第二次世界大戦が幕を開けた。グラーフ・シュペーは補給艦アルトマルクと合流して給油を済ませると南下。
9月8日に赤道を通過した。ところがヒトラー総統は英仏との和平を望んでおり、通商破壊の命令が中々下されなかった。このため、しばらくは待機を強いられる。
三日後、艦載のアラド水上機がイギリス巡洋艦カンバーランドを発見、これを回避する。
- 9月26日、ようやく通商破壊の許可が下る。翌27日、アルトマルクから給油を受けると分離。獲物を求めて徘徊し始めた。30日午前11時、ペルナンブコ沖で最初の獲物、貨物船クレメントを発見。
この船はニューヨークから灯油2万缶を輸送していた。哀れな獲物はグラーフ・シュペーの砲撃により屠られた。夕刻、遭遇したギリシャ貨物船パパレモスにクレメントの船長と機関長を移乗させ、
生存者を乗せた救命ボートの位置をオリンダ電信局に発信した。
- 10月5日、アセンション諸島南東で雑穀を運んでいたイギリス貨物船ニュートン・ビーチを拿捕(8日に爆沈処分)。7日午前8時30分にはセントヘレナ島北方でイギリス貨物船アシュリーを捕獲。
時限爆弾で撃沈した。10日18時、アセンション諸島西方で貨物船ハンツマンを捕獲し、後に撃沈。補給艦アルトマルクと合流し、ニュートン・ビーチとアシュリーの生存者を移乗させる。
22日、ウォルヴィス湾北西で貨物船トレビアンを撃沈。瞬く間に4隻の敵商船を撃沈せしめた。
- 11月4日、勢いに乗るグラーフ・シュペーはインド洋に進出。東アフリカ海岸でイギリス貨物船アフリカ・シェルを撃沈する。艦尾にドイッチュラント(!?)と書き足し、
外観をイギリス戦艦レパルスに偽装している。偽の第三砲塔を増設し、木と帆布で二本目の煙突を作った。この甲斐あってか、各国の報道陣や軍は見事に騙された。
アメリカの通信社に至ってはアドミラル・シェーアと誤認したくらいである。
19日に南大西洋へと戻った。
- 12月2日、セントヘレナ島南方で商船トリックスターを捕獲し、雷撃で処分。翌日にはタイロナを撃沈している。タイロナのスター船長は、ドイッチュラントに捕まったと勘違いした模様。
短い期間で8隻の商船を沈めるも、死者は一人も出さなかった。
グラーフ・シュペーには沢山の捕虜であふれており、ラングスドルフ大佐は次にアルトマルクと邂逅した時に捕虜の再分配を行おうと考えた。
- 身柄を拘束されたスター船長曰く、「ラングスドルフ艦長は非武装の商船を襲う事に嫌悪感を抱いている、人間性豊かな人物という印象を受けた」との事。
- 暴れまわるグラーフ・シュペーだったが、終わりは突然やってきた。
- 補給艦アルトマルクと無事に会合し、燃料を補給。その際にタイロナとトリックスターの捕虜をアルトマルクに移した。ドイツ本国に引き渡すため、29名の高級船員と3名の負傷者を艦内に留め、
残りをアルトマルクに移乗。即席で造られた小部屋に収容された。そして偽の煙突を撤去し、ラプラタ川に向けて西進する。12月7日未明の事である。
- 同日、南大西洋でストレオンシャルー(3895トン)が出す煙を発見し、接近。「無線を使うな」という信号を出し、ストレオンシャルーを停船させる。相手側の船長は用心しながらも指示に従い、
船員や水夫を退船させた。退去が完了したのを見計らってから10cm対空砲で撃沈。またスコアが加算された。
その後、ラングスドルフ艦長から近々本国に帰投するとの発表があり、乗組員を元気付けた。
- 目的地のラプラタ川には多数の商船が集まるため、絶好の狩り場だった。しかしそれは既にイギリス軍によって見抜かれていた。ハーウッド提督は巡洋艦エイジャックス、エクセター、アキリーズを率いて
この海域を哨戒。商船を食い荒らす魔物を討伐してやろうと待ち構えていた。
- 12月13日の夜明け、3隻の巡洋艦はグラーフ・シュペーを発見。一方、グラーフ・シュペーも敵艦隊を発見した。ところが艦長のラングスドルフは、敵の巡洋艦を船団の護衛艦と判断。
船団もろとも攻撃をしてやろうと接近した。しかしその先にいたのは船団ではなく、こちらを仕留める気満々の巡洋艦隊であった。この事に気付いたグラーフ・シュペーは判断の誤りを認めたが、
既に遅かった。午前6時17分、まずグラーフ・シュペーが先制攻撃。エクセターに向けて砲撃を加える。武装の面に限ればグラーフ・シュペーが有利だった。しかし数では敵の方が有利だった。
こうしてラプラタ沖海戦が始まった。エクセターも反撃を開始、エイジャックスとアキリーズはグラーフ・シュペーの反対側に回り込み、挟み撃ちを狙う。
三度目の一斉射でエクセターを夾叉し、右舷の魚雷発射管にいた乗組員を殺傷。また2機のウォーラス水上機も破損し、投棄せざるを得なくなる。さらに1発の28cm砲弾が、エクセターのB砲塔に
直撃し炸裂。砲塔は使用不能になり、艦橋要員がベル艦長と士官2名を除いて全滅。通信系統も操舵室も破壊された。初戦はグラーフ・シュペーが制した。
- グラーフ・シュペーからの砲撃を浴び、エクセターは炎上。虫の息となるも、何とか魚雷を発射して抵抗。魚雷は命中しなかったが、午前6時30分にエイジャックスとアキリーズが到着した。
巡洋艦2隻の軽量砲によって滅多刺しにされ、注意を引き付けられるグラーフ・シュペーに20cm砲弾1発が直撃。放ったのは瀕死のエクセターだった。標的をエクセターに戻すと、2発の砲弾をぶち込む。
1発目はA砲塔を破壊し、2発目は下士官の食堂を破壊。艦首から沈みかけ、ダメージコントロール班が集まるが、そこへ3発目が命中。この砲弾は航海室を貫通して兵器庫に突っ込み、
10cm砲に当たって爆発。そこにいた要員を殺害せしめた。午前7時29分、電気の供給が止まりエクセターは完全に戦闘能力を喪失。腹筋ボコボコにパンチを喰らったものの、命だけは助かった。
- エクセターを戦闘不能に追いやったものの、砲撃戦を演じている時から2隻の巡洋艦のジャブのような軽量砲を浴びせられていた。このうるさい2隻を黙らせるべく、グラーフ・シュペーは砲撃。
1発の砲弾がエイジャックスに命中し、若干の損害を与えた。反撃と言わんばかりに魚雷が放たれたが、グラーフ・シュペーは見事な運動で回避。お返しに魚雷を放つが、敵にも回避される。
だがエイジャックスは先ほどの命中弾でアンテナを吹き飛ばされ、一切の通信が不可能となっていた。また弾薬の消費が8割に達したことで、エイジャックスは戦意を喪失。
アキリーズとともに追跡に専念せざるを得なくなった。一方、グラーフ・シュペーは命中弾約20発を受け、乗員36名が死亡。
- 90分の戦闘の末エクセターを撃破したが、損傷により真水が不足。本国への帰投が絶望的になってしまう。やむをえず、南米ウルグアイのモンテビデオ港に向かった。
その間にもエイジャックスとアキリーズはグラーフ・シュペーを追跡。展開した煙幕も意味を成さなかった。
午前10時5分、軽率にもアキリーズがグラーフ・シュペーに接近しすぎた事で2回の一斉射を受ける。精度の高い砲撃を受けたアキリーズ側は慌てて煙幕を張って距離を取っている。
逃避行のさなか、艦長のラングスドルフ大佐はベルリンに戦闘内容を報告。避難所としてモンテビデオ港に向かいたいとの意向を伝え、レーダー提督から承認を得た。
先の戦闘でラングスドルフ艦長は軽い脳震盪を起こしており、正確な判断が出来なかったと言われている。ゆえに、自ら逃げ場の無い墓場へと向かっていったのだった。
21時30分、懲りないアキリーズは再びグラーフ・シュペーに接近し、砲撃で追い返されている。
- 一連の海戦で、エクセターは大破。死者61名と負傷者23名を出した。エイジャックスは7名の死者を出し、メインマストを破損。アキリーズは4名の死者を出したが、表面的な損傷のみに留まった。
海戦だけを見ればグラーフ・シュペーの戦術的勝利だろうか。
- 12月14日午前0時50分、モンテビデオに入港し、投錨。ウルグアイは中立国だったため入港が認められたが、国際法では24時間以上の停泊は出来ない事になっていた。それ以上停泊すれば抑留である。
沖合いには追跡してきた2隻の巡洋艦が待ち構えている他、弾薬・燃料ともに底を尽いており脱出は困難と言える。
- グラーフ・シュペーがモンテビデオ港に逃げ込んだ事で、ドイツ・イギリス・ウルグアイによる三つ巴の外交戦が繰り広げられる事になり、この街は一躍世界的に有名となる。
ウルグアイはイギリス寄りの中立を貫き、ドイツは外交上でも不利な状況に置かれていた。
- ウルグアイ海軍当局の調査により、ひとまず72時間の停泊許可を得る。その間に全力で応急修理に取り掛かるが、イギリスのBBC放送は上手い作り話をでっち上げた。
「ウルグアイを出港した哀れなポケット戦艦は、イギリス本国から急行してきた強力な艦隊に討たれるだろう」と。実際は本国艦隊など出撃してないのだが、
このニュースがラングスドルフ艦長を諦めさせた。もはやブエノスアイレスや本国への回航は絶望的、と。
さらにグラーフ・シュペーの砲術長が、沖合いにレナウンを発見した事で、より確信を強めた。なお、レナウンは存在せず、実は砲術長の見間違いだった。
- 先の戦闘で戦死した乗員の葬儀が執り行われ、他の者がナチ式敬礼をする中、ラングスドルフ艦長だけが伝統の挙手の礼を行った。
重要書類を焼却したり、重しの付いた袋に入れて海中に投棄する作業が始まった。
- 12月17日、捕虜を全員解放。夕刻、最期を悟ったラングスドルフ艦長は爆破処分を決意。グラーフ・シュペーに爆薬を取り付けさせた。ハーウッド提督は自沈する前に爆薬を取り除きたいと考え、巡洋艦を接近させたが間に合わなかった。午後8時54分、大爆発が生じる。船体は一瞬で火だるまと化し、港内で自沈。乗組員と荷物は迎えに来た貨物船タコマに移乗し、港外へ脱出。三日後、艦長は第一次世界大戦時の軍艦旗に身を包み、ピストルで自決。こうしてグラーフ・シュペーはポケット戦艦最初の喪失艦となった。
- タコマはアルゼンチンを目指していたが、ウルグアイ海軍の軍艦に拿捕され、身動きが取れなくなる。だがこの事を予期していた乗組員側は予め用意しておいた数隻の曳き船に乗り移り、ブエノスアイレスに運ばれていった。アルゼンチンは親ドイツとされていたが、政府の反応は冷淡だった。ブエノスアイレスに辿り着いたは良いものの、戦争が終わるまで国内に抑留された。
- モンテビデオ港で自沈したグラーフ・シュペーの話は、ヒトラー総統の耳にも届いた。戦わずして自沈したラングスドルフ艦長の事を「臆病者」と罵ったという。後にヒトラーは水上艦に心底失望しているが、失望の始まりとなったのがグラーフ・シュペーの自沈だった。余談だが、枢軸国として参戦した大日本帝國がエクセターを撃沈した時、「アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を取った」と喧伝している。
- グラーフ・シュペーの残骸はしばらくモンテビデオ港に沈んでいたが、装備の破壊が不十分だった事から1940年3月にイギリス軍が調査を行っている。いくつかの装備は剥ぎ取られ、本国に持ち帰られている。時は流れ、1997年に第二砲塔が引き揚げられている。その後、船体そのものを引き揚げる計画が持ち上がったが経費が掛かりすぎるとして中止されている。
グラーフ・シュペーを主役としてその活躍から最期までを描いた映画に「戦艦シュペー号の最後 (原題:The Battle of the River Plate)」がある。アキリーズ役としてなんと本物の同艦が出演、他の艦もジャマイカをはじめ大戦中にロイヤルネイビーで活躍した実艦が出演している(他国に払い下げられ国籍と名前が変わったものも含む)。グラーフ・シュペーは、アメリカのデモイン級重巡洋艦2番艦のセーラムが“代役”を演じている。デモイン級はカテゴリこそ巡洋艦であるものの排水量は17000トンを超え、グラーフ・シュペーの排水量を上回る*2。第二次大戦による巡洋艦の進化は、戦前の「戦艦」を上回るほどとなったのだ。
映画のストーリーは必ずしも史実に忠実とは言えないが、航行する本物のWW2軍艦や当時の海戦の様子を鑑賞できるのが魅力的な一本だ。
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